Apres un reve
久しぶりに降り立った故郷の駅は、まるで見知らぬ場所のように
遠く思えた。
日に数本しかない列車の発着で、ホームには今にも崩れ落ちて
しまいそうなほど人が溢れている。再会を喜ぶ家族、別れを惜しむ
恋人たち――目の前で繰り広げられる様々な旅立ちと帰郷を、俺は
ただ静かにみつめていた。硝子の向こう側にある風景を眺める
ように。
ようやく帰ってきた。なつかしい故郷に。けれど、不思議となんの
感慨も湧いてこない。戦場では毎日のように夢見て、あれほど
帰りたいと望んだのに。やっとそれが叶ったというのに、心は
渇いたままだ。
どれほどそうしていただろうか。ぼんやりとホームに立つ俺の
耳に、ふと懐かしい声が飛び込んできた。
「兄さん――ジャン兄さんッ」
弾けるような叫びに気づいて、振り返れば。人の波の流れに
逆らい、赤い髪を振り乱して駆け寄ってくるルキーノが見えた。
「兄さんっ!」
別れたときよりも更に逞しくなった腕が俺を捕まえ、逃がさぬ
ように強く強く抱き締める。息苦しいほどの包容に、耳元で繰り
返し囁く「兄さん」という響きに凍り付いていた心が綻び、
ゆるやかに溶けてゆく。
ああ、俺は本当に帰ってきたのだ。でも、なんでルキーノが
ここに。日にちは教えてなかったのに、どうして。不思議に思い
そう訊ねると、ルキーノは照れくさそうな表情で答えた。
「ラジオで戦争が終わったって聞いてから、毎日待ってた。
兄さんが帰ってくるのを」
頬をうっすらと紅潮させ、夢見るような顔で弟が笑う。
幼いころのように無邪気なそれに、俺の喉がきゅっと奇妙な音を
たて、唇がふるえる。なにか、なにか言わなくちゃ。けれど感情
ばかり先走って、うまく言葉が出てこない。迎えに来てくれて
ありがとうという、その一言すら。
「帰ろう、兄さん」
ルキーノが俺の手を引いてゆっくりと歩き出す。
その温もりに安堵すると同時に、じわじわと真綿で締められる
ような束縛感が身体にまとわりつくのを俺は感じていた。
空気を震わすような怒号とともに、青年の体が吹き飛んだ。
「兄さんを侮辱するなッ!」
激しい憎悪を込めてルキーノが床に倒れた男を睨みつける。
既に少年とは呼べぬほど逞しく成長した体躯で凄まれると、
どんな男でも怯まずにはいられない。先ほどまで俺を罵って
いたこの青年も、怒れる獅子さながらのルキーノの迫力に
ぶるりと身を竦ませ、慌てて目を逸らした。
「ルキーノ、もうやめろ」
更に追いつめようとする弟をやんわりと窘める。
向こうからふっかけられた喧嘩だが、すでに勝負はついて
いるのだ。これ以上痛めつけるのは無意味だし、後々まで
恨まれかねない。ここらへんが潮時だ。狭い村で、しかも
親父の不行状のせいでけしてよく思われてはいない俺たち
家族が問題を起こすのはまずい。
まだ何かいいたそうなルキーノをまなざしで制し、俺は
喧嘩の場となった雑貨屋の主人に頭を下げた。
「すみません。ご迷惑をかけて」
しおらしく謝罪を口にすると、店の老夫婦はそろって首を
振った。
「いや、いいよ。あれはジェラルドのほうが悪い」
「そうよ。いくら自分の父さんが戦死したからって、生きて
帰ったジャンを妬んで、あんな……ねぇ」
「ああ。言っていいことと悪いことがある。あんな中傷は
神様だってお許しにならんさ」
「あんたが気にすることはないよ、ジャン」
労るように老夫婦が俺を励ます。
窪んだ二対の瞳に宿る、憐れみの色。善良な彼らの
眼差しがいたたまれなくて、俺はそっと俯いた。
三年にもわたる戦争は中央だけでなく、この辺境の村にも
大きな傷跡を残した。二十代から四十代までの働き盛りの
男たちが三十人以上出征して、生きて戻ったのはたった六人。
村に帰還した当初は、国中に広がる戦勝ムードで英雄として
歓迎されたものの、それが落ち着けば当然妬みややっかみも
吹き出す。特に働き手が戦死した遺族たちからは激しい憎悪を
ぶつけられることもままあった。
さっき俺に罵声を浴びせたジェラルドもその一人だ。俺より
五つ年下で、戦争が始まったときには徴兵年齢に僅かに
とどいていなかった。だから代わりに父親が戦地に赴き、
運悪く命を落としてしまった。そのことが彼とって深い心の傷と
なっているのだろう。ことあるごとに俺たち家族、特に帰還兵の
俺に憎しみを滾らせ、顔を合わせれば嫌がらせをしてくる。
今日も日用品の買い足しにきた俺たちを見つけ、わざわざ
店に乗り込んでまで罵倒し始めた。
『淫売から生まれたお前のことだ、どうせその顔と身体で上官を
誑し込んで、安全なとこでぬくぬくと過ごしていたんだろっ!
この卑怯者ッ』
悪意に満ちた言葉の刃が容赦なく俺を襲う。
あながち間違っていないその罵倒を受け、反射的に身を
強張らせた俺よりも隣にいたルキーノが先にぶち切れた。
止める間もなくジェラルドへと詰め寄り、拳を大きく振り降ろす。
不意打ちを受けた彼は勢いよく吹っ飛び、もんどりうって床に
倒れこんだ。
「今度、兄さんにそんなことを言ってみろ。二度と口がきけない
ように、その顎を砕いてやる」
痛みに呻くジェラルドの胸元を掴んで持ち上げ、吐息がかかる
ほど顔を近づけたルキーノが低くささやく。強い殺意とどす黒い
怒りのこもる声は、おそろしく冷たい。肝が冷えるようなその迫力に、
ジェラルドはごくりと生唾を飲み込み、やがて負け犬が服従する
ように俯いた。
「ルキーノ」
咎めるような俺の声に舌打ちしながらルキーノがジェラルドから
離れる。もう一度店の主人に頭を下げると俺は足早に雑貨店を
後にした。
「兄さん、あんな奴の言うことなんか気にしないで」
すぐに追いついたルキーノが気遣うようにこちらを窺う。子犬の
ようなその様子に愛しさを覚えないでもないが、俺は敢えて険しい
表情でルキーノを叱った。
「お前もいちいち相手にするなよ。母さんたちのことを言われるのは
慣れてるだろう。次は無視しろ」
「でもっ、兄さんは国のために戦ったのに、あんな……」
「いいんだよ。俺は」
――だって、本当のことだから。上官の愛人になって前線から
遠ざけられていたのは紛れもない事実なんだ。あの男の言うとおり、
お前の兄さんは命惜しさに身体を差し出した淫売なんだよ。
喉元まで出かかった自嘲の言葉をすんでのところで呑み込み、
俺は曖昧に笑う。それを見たルキーノは眉間に皺を寄せ、悔しそうに
唇をぎゅっと噛みしめた。
まったく納得していない表情だ。でも、どんなに不満があっても
俺にはけして逆らえない。それをわかったうえで、噛んで含める
ように念を押した。
「俺は何を言われても平気だ。だからお前も気にするな」
いいな、と高い位置にある端正な顔をじっと睨めつける。いつになく
強い俺の口調にルキーノはたじろぎ、気まずげに視線をはずして。
やがて観念したのか、弱々しく頷いた。
戦地から戻ってからの村での生活は、おそろしいほど単調だった。
毎日畑を耕し、家畜の世話をする。爆撃やサイレンではなく牛や
鶏の鳴き声で目覚める日々は欠伸の出るほど平穏で、瞬く間に
俺を化石のような村の一部へと取り込んでしまった。
ほとんど家にいない父親の代わりに弟たちの面倒をみて一日を
終える。出征する前と寸分違わぬ時間がレコードのように繰り
返されてゆく。まるで時計の針を巻き戻すように。
都会のような娯楽や刺激から隔絶された田舎の暮らしで、以前と
変わったもの。それは同じ隊にいた兵士たちからの手紙だ。どれも
彼らの日常を書き綴った内容で、特に変わったことが書かれてる
わけではない。けれど辺境で暮らす俺には、村の外に拡がる世界を
感じることのできる唯ひとつの手段といっても過言ではなかった。
一緒に戦争を生きのびた戦友たちとのやり取りは、山村で
ひっそりと埋もれたように生きる俺のささやかな楽しみとなった。
ふたつきに一度くらいの頻度で手紙を受け取るようになって、
しばらく経ったころ。まとめて届いた束の中に見つけた封筒の
文字に、俺は思わず息をのんだ。
他のものとは明らかに違う、美しい透かし模様のはいった高価
そうな封書。その上に踊る洗練された優美な筆致。戦場で毎日の
ように見ていたそれを、俺が見間違えるはずもない。彼のひととなり
そのもののような、その字を。
「……ベルナルド」
どうして、彼が。故郷のことは教えてなかったのに。
軍の高官であれば徴兵記録からすぐ割り出せるという当たり前の
ことすら直ぐには思い至らず、はげしく混乱し動揺の止まらない
指で俺は封を切った。
開いた手紙からふわりと香る柑橘系の香りが鼻腔を突き抜け、
ずくんと身体の奥が鈍く疼く。ひさしぶりに感じた肉欲を慌てて
意識の隅に押し込め、したためられた文字を目で追った。
文面は季節の挨拶から始まり、彼の近況が綴られていた。
戦後の処理がようやく終わり、今年の末には退役すること。軍を
辞めたら、かねてから誘われていた民間の会社に身をおく予定で
あること。そして最後に添えられた俺を気遣う文章まできたとき、
とうとう涙が溢れ出した。
終戦とともに逃げるように彼から離れた俺を詰りもせず、
ただ無事でいるかと身を案じてくれる。こんな恩知らずな俺に、
困ったことがあれば何時でも頼ってくれというベルナルドの気持ちが
嬉しく、そしてどうしようもないほどせつなかった。彼に返せるものが
なにひとつないことが辛かった。
散々迷った末、短い返事を送ってから一ヶ月後。再びベルナルド
から手紙がきた。そして毎月のように彼からの便りが届くようになった。
俺が家族と暮らしていることを考慮してか、あたりさわりのない
文面が多かったけれど、端々にベルナルドの優しさと気遣いが滲んで
いた。俺もできる限り返事を書いた。といっても最低限の教育しか
受けていないから、彼のように気の利いた文章には到底及ばない。
それでも拙いなりに書き綴った手紙をベルナルドは毎回喜んでくれた。
「――これでよし、と」
結びの文と署名を書き終えて、俺はペンを置く。
明日買い出しに行くから、その時についでに出そう。手紙の封を
して顔をあげた俺はびくりと身を竦ませた。
「る、ルキーノ」
いつの間にか部屋の戸口に立っていた弟に、わけもなく狼狽える。
いつ帰ってきたのだろう。ぜんぜん気づけなかった。それほど
手紙に熱中してしまったのだろうか。
「もう学校は終わったのか?」
気まずさを誤魔化すように訊ねれば、それに応えるかわりに
暗い影を宿した瞳が俺を鋭く射貫いた。
「……兄さん」
「ルキーノ? どうかしたのか」
「――なんで、そんなに楽しそうなの」
感情のない虚ろな声音でルキーノが問いかける。
外が雨のせいで部屋が薄暗く感じるからだろうか、顔がよく
見えない。けれど常になくあやうい口ぶりが、濃い陰影をおびた
長身が放つ張り詰めた空気が、異母弟の異変を俺に訴える。
「おまえ、なに言って――」
「……兄さんは、俺だけのものなのに。なんで、なんで俺を見て
くれないんだッ」
絞り出すような声で唸り、ルキーノが詰め寄る。目にも止まらぬ
速さで俺の手から手紙を奪うと、憎しみをぶつけるように荒々しく
引き裂いた。
「ルキーノっ! なにする……ッ」
呆気にとられた俺の顎を掴みあげ強引に口を塞ぐ。
視界いっぱいにひろがる赤い色。狂気に染まった炎の瞳に
射竦められ、撲たれたように茫然と立ちつくしていた俺は口内に
侵入してきた舌の感触で我に返り、弾かれたように身を捩った。
「っ、止め、ろッ……ルキーノ!」
執拗に追い縋る口唇から必死に顔を背けて弟を叱責する。
なんで、こんなことを。驚愕と焦りのあまりかなりきつい口調で
詰ったにもかかわらず、ルキーノは怯むどころかますます俺を
抱く腕に力をこめ、頭をふった。
「いやだ。兄さんは、俺のだ。誰にも渡さない」
泣いているのかと思うほど湿った声で低く呻いて、大きな手が
俺のシャツの襟元にかかる。そのまま力任せに引き裂くと、露わに
なった胸元に顔を埋めた。
「ルキーノっ! 馬鹿、止めろッ!」
弟の意図を悟って俺は蒼白になる。男同士、しかも兄弟でなんて
二重の罪だ。赦されない。抗いながらそう諌めたけれども、俺を
見上げたルキーノは嘲るような笑みをうかべて小さく囁いた。
「もう無理だよ……兄さんが悪いんだ」
そう告げた弟の表情は、まぎれもなく発情した雄の顔をしていた。
俺というメスを征服する悦びを満面にたたえて。
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