ONE PERSON DOG
――九日と一二時間九分。
『いいコにしてろよ』とキスをしてジャンさんがデイバンを
離れたのが、九日と一二時間九分前。予定ではあと五日
経たないと俺はあの人に会えない。それが永遠にも感じ
られてもどかしい。
二代目カポを襲名してから、ジャンさんは本部を空ける
ことが多くなった。CR:5の新しいボスとしてシカゴや
ニューヨーク、それ以外の地域にも忙しく飛び回っている。
けれど、俺がその旅に同行することはない。その代わりに、
ベルナルドお抱えの掃除屋がジャンさんについていた。
とても腹立たしいことに。
俺以外の人間が彼を護衛するなんて、本当は嫌だ。
ジャンさんの側にいて、あの人をあらゆるものから守る
のは俺だけの特権なのに。でも、いまでは州外にまで
広まってしまった「マッドドッグ」という二つ名がそれを
許さない。
俺が護衛につけば、それだけで相手が警戒してしまう。
話し合いに来たのではなく、組織を潰しにきたのだと
思われるのだ。先だってジャンさんを守る為に対抗組織を
三つ壊滅させたことが、それに拍車を掛けてしまった。
俺としては至極当然の行為だが、相手はそうは思わない
らしい。いまマッドドッグを連れて歩くことは、即ち宣戦布告
とみなされてしまう。まだGDとのゴタゴタが鎮静してない
現状で、他の組織との対立は好ましくない。
だから俺は本部でジャンさんの無事を信じて帰りを待つ
しかないのだ。彼のことが心配で、ろくに眠ることができ
なくても。
「――ということで話を進めようと思うが、何か意見は」
「俺は特にねーな」
「俺もそれでかまわん」
淡々と定例会議が進み、懸案が次々に処理されていく。
戦闘員の俺にはさほど関係ないものばかりで、正直
退屈でつまらない。そう感じる自分に少し驚く。
以前はそんなこと考えたこともなかった。与えられた
役目をこなし、命令がない間はあの人のことを思い
浮かべて過ごす。「退屈」なんて言葉は、思い浮かばな
かった。変わったのは、遠くから見つめるだけだった
ジャンさんの、あの太陽のような人の側にいることを
許されてからだ。
彼がいるだけで、そこは清浄な輝きで満たされる。
色褪せた世界がジャンさんという光を得て、鮮やかな
色彩で塗り変えられてゆく。それはまるで、地上を照らす
神の慈悲のごとく。
彼の横にいるだけで、毎日のように喜びが生まれ俺を
優しいぬくもりでつつんでくれる。こんな幸せが他にある
だろうか。彼と出会って、俺の世界は一変した。堅く
閉じていた蕾が、春の光で綻び花開くように。
でもそれは、俺だけではない。他の幹部たちもジャンさんと
触れあうことで、確実に変わりはじめている。
ルキーノは以前の高圧的な雰囲気が緩み、非イタリア系に
対してもやわらかくなった。ジャンさんカポになる前、CR:5は
はっきりと二分されていた。俺たち純血のイタリア系と、混血や
他国にルーツを持つアメリカ系。組織の過半数を占めるまで
になった彼らを牽制するように『血の誇り』を顕示し続けていた
あの男は、ジャンさんが二代目を継いでから、その態度を
改めた。アメリカ系の構成員も「家族」と認め、信頼するように
なったのだ。
イヴァンは相変わらずうるさいが、ここ一週間は耳障りな
スラングがいくらか減った。彼奴のくだらない戯れ言にも
笑ってつき合ってくれるジャンさんがいないから、普段の
勢いがない。今もふてくされた顔でカレンダーを睨んでいる。
横柄な態度はいっこうに改善されないが、それでも前よりは
刺々しさが薄れ、他の幹部の話を聞くようになった。
あまり変わらないように見えるのは筆頭幹部のベルナルド
だけだろうか。でも俺は知っている。眼鏡の奥のグリーンの
瞳が、時折何かを追うように外に向けられていることを。彼は
俺と同じものを求め、そして焦がれている。あの黄金の太陽に、
昔からずっと。
俺たちを照らしてくれるジャンさんがいない。それだけで
本部は火が消えたようだ。胸にぽっかりと穴が空いて、どんな
ものでも埋めることができない。他の誰も替わりにはなれない
のだ。彼でなければ。
「それでは、今日はここまでに――」
ベルナルドの締めの言葉を遮るように突如ジリジリと電話の
ベルが鳴る。その音が、俺の閉じていた五感を瞬時に覚醒
させた。ああ、これはあの人だ。
「はい――えっ、ジャン」
ベルナルドの驚きの声にルキーノとイヴァンが即座に腰を
浮かす。すこしでもあの人の声を聞こうと、みなベルナルドの
机の周りに集まった。
「……うん、そうか。さすが俺のラッキードッグだ。お前は
最高だよ、ハニィ」
溢れる愛しさを隠しもせずベルナルドが受話器の向こうにいる
あの人にあまく囁く。それが、たまらなく憎らしい。ジャンさんは、
俺の大事な人なのに。
「ジュリオ」
どす黒い嫉妬に駆られる俺を何も知らぬベルナルドが
手招きする。
「ジャンがお前と話したいって」
その一言で、暗く沈んでいた俺の瞳に光がさす。
手短にな、と渡された受話器をおずおずと受け取り、ごくりと
生唾を飲み込みながら俺は震える声であの人の名を呼んだ。
「ジャン、さん」
「ジュリオか? イイコにしてるか」
「は、はい。俺、ちゃんといいつけ、守ってます」
毎日、きちんと食べてます。ひとりで風呂に入って、ベッドで
寝て、起きて。あなたの帰りを待ってます。そう答えたら、
受話器の奥で鈴を転がすような笑い声が聞こえた。
「そうか。お留守番のできる可愛いワンコには、帰ったらたっぷ
りご褒美やんなくちゃな」
ご褒美――その言葉に、どくんと胸の鼓動が跳ね上がる。
ジャンさんが、俺に。俺だけに。そう思うだけで目眩のするような
歓喜が俺の体を駆け巡る。今まで彼に与えられた甘い甘い
悦楽が次々と頭の中に浮かんで、じわりと下肢が疼いて熱を
もつ。欲しい。いますぐ、あなたが。そう告げたい。でも
「どうか、無事に帰ってきて、ください」
機械が作り出した音ではなく、本物のあなたの声で俺を
呼んで。あなたの側にいられることが、俺にとって一番の
ご褒美なんです。
俺の気持ちが伝わったのだろうか。電話のむこうで息を
のむような音がして、やがてやわらかな囁きが受話器から
こぼれた。
「ああ、もちろん。――そうだ、いまのうちに言っとくな。
誕生日おめでとう、ジュリオ」
ちょっと遅れるけどプレゼントは期待しててくれよ、という
彼の言葉が嬉しくて、俺はこくこくと頷いた。
(11/02/14)