Apres le noir
歩きながら聞き出した――こんな日に無理をしてでもジェルソミーナが
出掛けたかった理由。それは姉代わりのシスターテレサに、クリスマスの
プレゼントとして薬を買うことだった。
修道女になって日が浅く若いテレサは雑用、特に水仕事を押しつけられる
ことが多い。それゆえ彼女の手はひどいアカギレができていた。しかし
女性用の手袋など贈っても、神と人への奉仕を信条とする修道女がつける
わけがない。それならばせめて傷によく効く薬を、と探したらダウンタウンに
非常に良い薬があるとわかったのだ。それを知ったジェルソミーナは
当然買いに行こうとしたが、場所が問題だった。
その軟膏を売っている店はデイバンでも特に治安の悪い地区にあり、
たとえ昼間であっても通りを歩くときは武器が手放せない。そんな所へ
ひとりで買いに行くというジェルソミーナをアレッサンドロが止め、自分と
一緒に行くと約束させたのだ。
ことの顛末を聞いたイーサンは苦虫を潰したような顔で舌打ちする。
アレックスの奴、肝心なところは隠してやがった。ジェルソミーナは
すっかりイーサンが店までついてきてくれると思っているじゃないか。
「イーサン、ごめんなさい。忙しいのにつきあってもらって……」
すまなさそうに、けれどほんのりと頬を薔薇色に染めてジェルソミーナが
淡く笑う。天使のような、とカルロが褒めるその笑顔にイーサンはかすかに
柳眉を歪める。
曙光のように輝く金髪に縁取られた白い顔は可憐で儚く、そこにいる
だけで男の保護欲をそそる。だが実のところイーサンは彼女が苦手だ。
子供のような純真さは彼やアレッサンドロの生きる世界とはあまりにも
乖離していて、長く触れていると固く結んだ心の紐が緩んでしまいそうに
なる。まるで無味無臭の毒のようだと思う。アレッサンドロの身内で
なければ、あまり近づきたくない相手だ。
はやく用事を済ませて、とっとと帰そう。
そうと決めればイーサンの行動は早かった。恐縮するジェルソミーナを
無理矢理タクシーに押し込んで、目当ての店まで乗りつける。ものの
数分で手早く買い物を終わらせると、イーサンは周囲に気を配りながら
足早に店を出た。あとは彼女をアパートに送り届けるだけだ。
危険な通りを抜け、比較的治安のよい繁華街までくると不意に
ジェルソミーナが足を止めた。
「あっ」
艶やかな桜色の唇から小さな声が漏れる。何事かと立ち止まった
イーサンは、彼女の視線の先に目をやった。
明るくライトアップされたショーウィンドウに、色とりどりのリボンで
ラッピングされた箱と玩具が所狭しと並んでいる。可愛いらしい
ぬいぐるみや人形を食い入るように見つめながら、少女は切なげに
ため息をついた。
「小さいころね、ベッドに入ってからよく妄想したの」
夢見るようにうっとりとした表情でジェルソミーナはつぶやく。
こんな可愛いものに囲まれて眠ったら、きっと幸せな夢が見れる。
辛いことも怖いことも、全部忘れられるって。恥ずかしそうに微笑む
少女の姿に、ざわざわとイーサンの心が波立つ。
彼女の生い立ちはアレッサンドロから聞いて知っている。早くに親を
亡くし、心ない親戚から娼館に売り飛ばされる寸前に救い出されて
孤児院に引き取られたと。目立つ容姿のわりに大人しい性質だったので
院の中でもよく虐められて、いつもアレッサンドロが体を張って守って
いたことも。
この街では、いやこの国ではごくありふれた話だ。そう珍しいもの
ではない。けれどそこにジェルソミーナのたおやかな美貌が加わると、
オレステイアのような深い悲哀を聞く者に与える。それは冷血と
揶揄されるイーサンも例外ではなかった。
「……いまも、辛いのか」
おもわず口を突いて漏れた言葉に、訊ねたイーサンのほうがハッと
狼狽える。何を言っているのだ、自分は。この女のことなんてどうでも
いいはずなのに、どうして。自身でも不可解な己の言動に動揺する
イーサンを、きょとんとした表情で見上げたジェルソミーナはふるふると
頭を振った。
「いいえ。いまはテレサもアレックスもいてくれるし、貴方のように
親切な人とも出会えたわ」
――だから、今は幸せよ。
そう囁く少女の顔は、目映いほど生きる喜びに溢れていて。その輝きに
イーサンは息をするのも忘れて見惚れた。初めて胸に芽生えた感情に
戸惑いながら、それでも彼女から一瞬たりとも目を逸らさずに。
あの後、彼女のアパートまで送っていくとアレッサンドロがいた。
着崩したコンプレート姿で走ってきた彼奴を見るなり、ジェルソミーナは隣に
イーサンがいることすら忘れたように駆けだして、アレッサンドロの胸に
飛び込んでいった。残された彼の胸に、狂おしいほどの恋情と絶望を
刻みつけて。
あれから、15年。彼女はもういない。あのときの仲間で生き残って
いるのは彼とアレッサンドロのみ。それでもまるで昨日のことのように
瞼の裏に甦り、残されたイーサンの胸を疼かせる。
いや、本当に痛い。というか重い。特に胸から腹の辺りが。不審に
思って毛布をめくったイーサンは現れたものを見て顔をしかめた。
「……こいつら」
どおりで腹と胸が重いはずだ。バクシーとジャンがそれぞれ上に
頭を乗せていたのだから。
ふたりとも猫のように体を丸め、イーサンに縋りついて眠っていた。
毛布を取られて寒いのか、ぶるぶると震えながら自分にしがみつく
子供たちに瞬時に怒りが沸き上がる。
そのままベッドから蹴っとばしてやろうかと思ったが、止めた。
夜明け前の薄暗い部屋は暖房を入れていても肌寒く、手足も
冷えきっている。湯たんぽ代わりに使ってやれ。そう思い直して
イーサンは胸に乗っていたジャンを横に倒す。
やわらかな子供の体を慎重に抱き直し、綿毛のような頭に顔を
埋める。ほのかに香る、甘いミルクの匂い。かつて嗅いだことの
あるそれが、イーサンの心をせつなく締めつける。
ジャン――アレックスの子。ジェルソミーナが生み、みずからの
命と引き替えに守り通した子供。あの日の彼女とおなじ金色の
髪が、イーサンの頬をやさしく撫でる。彼の胸に刻まれた
ジェルソミーナの面影を呼び覚ますように。
最後まで触れることがてできなかったあの色を愛おしむように、
イーサンは腕の中の子供を抱きしめて目を閉じた。
(11/05/12)