――ねぇダーリン、知ってる?
 誕生日の夜十二時に鏡の前に立って願いを呟くと、ひとつだけ叶えてもらえるって。アンタの望みは……なぁに? 


「……ンテ、隊長!」
 突然耳元で弾けた大声に、ベルナルドは白昼夢から現実へと引き戻された。
「あ……?」
「あ、じゃありません。ここのサインお願いします」
 極彩色の花畑で蠱惑的に微笑む天使の映像から一転、飽きるほど見慣れた仕事場、そして視界いっぱいに映るむさ苦しい部下の面子にベルナルドのテンションが一気に下がる。
「……ジャンは?」
「カポならまだニューヨークですよ。お帰りは明日の予定です、お忘れになったのですか?」
 ご自分でスケジュールを組まれたでしょう、と側近の一人に即答で返されてしまい、ベルナルドはああと溜息を漏らす。
 そうだった。俺のハニィは一週間前からNYに出張中だ。半年前から決まっていたため予定をずらすことができず、今日は誕生日だというのに彼の愛らしい声さえ聞けない。今年はなんてツイてないんだ。自覚すると余計に寂しさが襲ってきて、ベルナルドは何度目かもわからぬ嘆息を繰り返す。
 ジャンのいない一日が、まるで一年のように長く感じられる。こんなことなら自分もついて行けばよかった。寄せては返す波のような後悔に苛まれながら、ベルナルドはへろへろの字で部下の差し出す書類にサインを入れていく。
 決済の必要なものにすべて記入し終わると、書類を確認しながら部下が思い出したように訊ねた。
「それにしても、本当にパーティを取り止めにしてよろしかったのですか?」
 今年は中止した自身の誕生祝賀会の話題を出され、うんざりとした表情でベルナルドが吐き捨てた。
「なにが悲しくて四十間近の誕生日に道化を演じなきゃいけないんだ」
「ですが、幹部の誕生パーティは社交だけでなく商談の場でもありますよ」
 若い部下の賢しげな発言にぴくりと片眉を吊り上げ、眼鏡の奥の瞳がすっと眇められる。うっさいそんなの解っとるわと叱り飛ばしたいのを堪えてベルナルドはふんと鼻を鳴らした。
「欧州がだいぶ焦臭くなってきたからな、派手に騒いでアンクル・サムに睨まれるリスクは減らした方がいい。それに来月はルキーノの奴が控えているだろう? アイツのことだ、どうせ嫌というほど散財するんだから、俺はなくてかまわん」
 ――だいたい一番祝ってほしいハニィが居ないのに、無駄金使って馬鹿騒ぎして何が楽しいんだ。
 喉元まで出掛かった本音を飲み込み、ベルナルドは夢想している間に溜まった書類へ手を伸ばす。取りつく島もない上司の頑なな態度に部下たちは肩を竦め、諦めたように各自の仕事に戻っていった。

 
 今日が何の日であろうと、幹部の責務が休みになるわけではない。ベルナルドが本日分のデスクワークを終えたのは、既に日付が変わる直前だった。
 別宅に戻るのも面倒なので、今夜も本部に泊まることは予め伝えてある。寝室は用意してあったが別棟まで行くのも億劫だったため、昨日と同じく執務室で休むことにした。
「……では、お休みなさいませ。ドン・オルトラーニ」
 ベルナルド付きの侍従が用意した毛布と枕をソファに設え、静かに部屋から退出する。軽い夜食を酒とともに胃に流し込み、食後の一服を終えたベルナルドは早々に寝床へと潜り込んだ。
 すぐに睡魔が瞼に重くのし掛かり、意識が途切れる。それからどれくらい眠っていたのだろうか。遠くで誰かが呼んでいるような気がする。甘く優しい声音が、謡うようにベルナルドの名を繰り返す。
「……ン、ダーリン……起きて」
「んん……っ」
 急にクリアになった音声がベルナルドの意識を揺さぶる。
 数度瞬いたあと、ゆっくりと瞼を持ち上げると暗闇に人影が浮かび上がった。
「……ハニィ? ニューヨークにいるんじゃ…?」
「んー、ダーリンのために一日早く帰ってきたのヨ」
 驚くベルナルドにくすくすと笑いかけながら、起ち上がったジャンが手を差しのばす。無意識にそれを取り、彼に導かれるまま執務室から幹部用の主寝室へと移動したベルナルドは開いた扉の向こう、綺麗にセッティングされたテーブル席にのぞく蜂蜜色を見つけて大声を上げた。
「――Jr.!」
 あの日、ベルナルド以外の人々の記憶から忽然と存在を消したはずのJr.が、うとうととしつつも椅子に座っている。ベルナルドの声を聞きつけるとパッと目を開け、彼に向けて小さな手を伸ばしてきた。
「お前、どうして……!」
 慌ててJr.を抱き上げ、信じられないような面持ちでベルナルドは子供を見下ろす。
 聞きたいこと、言いたいことがたくさんあるのに、いざこの子を前にすると不思議と言葉が出てこない。感極まるベルナルドがそれでも何か声をかけようとした瞬間、腕の中のJr.が突然身を捩って飛び降りた。
「Jr.ッ」
「ほーら、走り回ると危ないからちゃんと座れって」
 追いかけようとしたベルナルドとJr.の間を、キッチンワゴンを押しながらジャンが割って入る。その隙にピュッとJr.がハニィの後ろに隠れてしまい、ベルナルドは問い詰める切欠を失ってしまった。
「さぁダーリン、パーティを始めよっか」
 料理の皿をテーブルに並べ、自分も席に着いたジャンが楽しげに告げる。
 ベルナルドが状況に戸惑いながらも、三人だけの誕生日会は過ぎていく。料理はどれもベルナルドの好物ばかりで、隣で美味しそうに頬張るJr.を見ると(夜食を取ったにもかかわらず)つられて食が進む。次々に皿を空にし、気がつけば最後のドルチェまできていた。
「Jr.、ケーキの前にパーパに渡すもんがあるだろ?」
 涎を垂らしながらバースデーケーキを凝視していたJr.が、ジャンのその一言であっと顔を引き締め、椅子から飛び降りた。
「Jr.?」
 小さな体がちょこまかとした動きでベルナルドの寝台に近寄り、ベッドの下から何か隠してあるものを取り出す。ちら、と蜂蜜色の瞳がベルナルドのほうを見て、けれどすぐジャンの元に駆け寄った。
「コイツさ、パーパにプレゼント渡すってずっと頑張ってたんだぜ? あんたのために、文字も書けるようになったんだから」
 母親のようにケーキを切り分けながらジャンが得意げに自慢する。
 びっくりしてJr.を見つめると、恥ずかしそうにモジモジとジャンの後ろに隠れつつも、小さな手がそっと筒状に巻いた紙を差し出した。
「俺に……かい?」
 こわごわ問いかけると、ひよこみたいな金色の頭がこくんと頷く。
 当惑しながらジャンに視線で問いかければ、彼は悪戯っぽく笑いながら見てやれとでもいうように頷き返した。
「じゃあ、開けるよ」
 期待に満ちたJr.の眼差しに押し切られ、ベルナルドは受け取った巻紙を開く。指の先から少しずつ中身が見えるにつれ、アップルグリーンの双眸が激しく揺らぎ出す。
『パーパ、おたんじょうびおめでとう』
 お世辞にも上手いとはいえない、けれど一所懸命書いたであろう大きな文字が、画用紙いっぱいに描かれた似顔絵がベルナルドの瞳を潤ませる。
「ほらほら、ダーリン泣かないの。まだケーキも食べてないだろ」
「ハニィ、でも……ッ! Jr.が、こんな……」
 それ以上は言葉にならず、ベルナルドは情けない表情のままぐす、と鼻を啜る。
 今年はついてないなんて、とんでもない。最高の誕生日だ。俺が欲しくて仕方のなかったもの――愛する伴侶と可愛い子供、その両方が揃っているのだから。

                          *


 幸せな夢はシャッ、とカーテンの開く音と瞼を刺す眩い光によって呆気なく幕切れした。
「――お早うございます、隊長」
 聞き覚えのある声がベルナルドに覚醒を促す。
 側近のザネリの声だ。おはよう、ということはもう朝なのか。ずきずきと痛む頭を押さえながらベッド代わりのソファから身を起こす。
 たしか寝室にいたはずだが、いつの間に執務室のほうへ映ったのだろう。
「ジャンは……どこだ」
「ボスでしたら、今日の午後の便でお戻りの予定ですが」
「えっ……えええ?」
 部下の返答にベルナルドは目を白黒させて困惑する。
 そんな、だって昨日一緒に祝ったじゃないか。俺とジャンと、Jr.の三人で。ハニィは手作りのケーキを用意してくれて、Jr.は俺の為に絵を描いてくれた。あんなに生々しく鮮やかに覚えているのに、いまベルナルドの周りには何一つ痕跡が残っていない。まるで魔法の解けた惨めな灰かぶりのようだ。
 昨夜のアレは、全部夢だったのか。ほんの数分前まで味わっていたこれ以上無く幸せな気分が、瞬く間に萎んで淡雪のように消えてしまう。
 あまりの落差に呆然と放心していたベルナルドは、不意にかさりと足下で響いた音を聞きつけ、つられるように視線を落とした。
「……これは」
「隊長? どうなされました」
 上司の異変に気づき、ザネリが不思議そうに問う。
 だが彼の声など聞こえていないのか、呻くようにJr.……と呟くと、ベルナルドは震える指で「ソレ」を拾い上げた。


 ソファの下にあったもの。
 それは昨夜Jr.がくれた、ベルナルドとジャンとJr.三人の絵だった。

[14年 6月 14日]