Harmonia


 窓から降り注ぐ陽の月の柔らかな光に、くるると喉を鳴らしてコノエは毛布から顔を

出した。







 華やかな暗冬の祭りが終わり、時期的には凍てつく冬が近いというに大気はまだ

仄かに暖かい。ぬくぬくとした心地よい寝床から名残惜しげに起き出し、コノエはぐるりと

部屋を見渡した。

 隣に寝ていたはずのライの姿は、既にない。

 あの堅苦しそうな装備も見あたらないところをみると、おそらく先に起きて情報収集に

行ったのだろう。よほどバルドと顔を合わせたくないのか、ライは朝から出掛けることが

多い。というか、ほぼ毎日そうだったりする。随分おとなげない態度だとは思うけれど、

下手に二匹の確執に首を突っ込んで雷を落とされるのは御免だ。

 それに昔の自分を知ってる者と顔を合わせたくない、という気持ちは理解できなくも

ない。コノエだって、もしこの街でシンや火楼の猫に会ったら平静でいられる自信はない

のだから。

 ただ、自分だけ置いていかれたことに多少の不満は感じつつ、コノエは身支度を始める。

ちょっと不格好(とコノエが信じて譲らない)な鉤尻尾から、両の耳。そして手の甲まで

念入りに歯で整える。独りっきりの部屋で朝の毛づくろいをしていると、ドアの隙間から

食欲をそそる良い匂いが漂ってきてコノエの鼻をくすぐった。

 途端、腹が派手な音をたてる。

藍閃に着いてから毎日きちんと食べているせいだろうか。いつも決まった時間になると

コノエの胃は自己主張を始める。あまりにも正直すぎる己の体内時計にコノエは赤面し、

ライがいなくてよかったと心の底から胸をなで下ろした。もし聞かれていたら、ぜったい

呆れたような溜め息か「馬鹿猫」という冷たい罵りを受けたことだろう。

(成長期なんだから仕方ないじゃないか……それに、飯が美味いのは本当なんだし)

 自分以外誰もいないとわかっているのに、ついライに詰られたような気分になって

コノエは胸の中で言い訳をする。

 いいかげんで大雑把なバルドだが、料理の腕は絶品だ。毎日コノエが見たこともない

ような料理がテーブルに所狭しと並び、しかもそのどれもがほっぺたが落ちそうなくらい

美味い。美味くて、ついつい余計に食べ過ぎてしまい、後で胃もたれに苦しむ姿をライに

馬鹿にされるほどに。

 食卓に並んだ皿の数々を思い出しただけで口の中が潤み、体が激しく空腹を訴える。

沸きあがる食欲に急かされるまま、手早く支度を済ましたコノエはいそいそと部屋を出て

階下の食堂へと向かった。

 猫気のない階段を降り、がくわしい匂いのする方向へと進む。

相変わらず誰もいないカウンターを曲がった瞬間、それはなんの前触れもなくコノエの

耳に飛び込んだ。

「――ッ!」

 鼓膜を劈くような凄まじい絶叫にコノエは文字通り飛び上がる。

今の悲鳴は、間違いなく食堂から聞こえた。いったいあの扉のむこうで何が起きたのか。

 きゅっ、と。コノエの琥珀の瞳孔が細く引き絞る。

 未知の不安に、ざわりと全身の毛が毛羽立つ。慎重にドアの取っ手へ指をかけて。

いつでも抜けるよう腰の剣に片手を添え、コノエはそっと扉を押した。

「こにょえ―――ッ!!」

「……ッ、う、わッ」

 おそるおそる中を覗きこんだコノエの腹部に、高速回転の黒い物体が直撃する。

空きっ腹に受けたきつい衝撃に低く呻いて。おもわず息を詰め屈み込んだコノエは、

視界に映った『それ』に言葉を失った。

 零れそうなほど大きな瞳に、たっぷりの涙を溜め込んで。コノエの膝頭ほどしかない

仔猫が、じっとこちらを見上げていた。真っ黒な耳と尻尾をこれでもかと縮こまらせて。

「こにょえ、こにょえ、こにょ――」

「うるさい、馬鹿猫。貴様はそれしか言えないのか」

 えぐえぐとぐずる黒い仔猫を、棘のある叱責が鞭のように打ち据える。幼い声音には

似つかわしくないきつい言葉につられ、ふとコノエは顔をあげた。

「……なにを惚けている、この馬鹿猫」

 茫然と見つめるコノエの視線が気に障ったのか、薄い青色の双眸を険しく歪めて、

見たこともない真っ白な仔猫が冷然と睨みつける。

 黒猫よりはいくらか年長の様だが、やはり幼い。しかし怒りを滾らせた姿は妙に迫力が

あって、コノエを威圧する。まるでライのように。

 ――ちょっと待て。

一瞬過ぎった思考にコノエは狼狽える。

 いま、自分はこの仔猫を誰に似てると思った? なにを考えた? 

 まさか、ありえない。そんな馬鹿なことが。理性はそう打ち消すものの、直感のほうは

心に湧いた疑念をどんどん膨らませていく。

 冷静になろうと頭を振ったコノエは、自分を見つめる二対の瞳とぶつかった。

「こにょえ……」

 足にしがみつく黒い仔猫の、不安の滲んだ縋るような目。

 そして白い仔猫の、子供らしくない傲然とした鋭い視線。

見慣れないはずの幼児二匹の、あまりに見覚えのあるまなざしがコノエに突き刺さる。

認めたくはない。信じたくもないが、これはやはり……。

「もしかして――ライと、アサトか?」

 おそるおそる尋ねたコノエの前で。ぶわっ、と白と黒の尻尾が同時に膨らんだ。



 それはまるでコノエの問いを肯定するように。