繋がれてるの? いいえ、繋がってるの



『酒は飲んでも呑まれるな』


 かつて世界を支配した二つ杖は、不思議な遺跡とともに数々の言葉を残した。

酒場でよく使われるこの言葉も、彼等の格言の一つとしてリビカたちの間で広く知られて

いる。

 つまり昔も今も溺れる馬鹿が多い、ということだ。いまコノエの前に立つ、この雄のように。

「……なぁ、どうなんだよ」

「……」

 鼻先に濃い酒気混じりの息を吹きかけられ、コノエの柳眉が歪む。

大嫌いな煙の立ちこめる室内で、見知らぬ雄に擦り寄られるなんて苦痛以外のなんでも


ない。汚い手でベタベタ触るなと張り飛ばしてやりたいが、ライにけして目立つなと厳命


されている為それもできない。おかげで、苛々と不快感は増すばかりだ。

 まったく、これだから酒場は嫌いなのだ。独りで酔ってればいいものを、なんの関係も

ない猫に絡むのだから迷惑極まりない。

 いや正確にはコノエが誰か知っていて、その上で仕掛けているのだから、なお質が悪い

かもしれない。既に相手のいる賛牙に自分と組め、と口説くなど。

 リークスと決着をつけてから、はや五年。ライと共につがいの賞金稼ぎとして祇沙を回る

コノエの名前は、今ではこの世界でも知られるようになっていた。

 もともとライ自身の名声が高かったこともある。長くつがいを持とうとせず、一匹で荒稼ぎ

していた彼みずから育てた賛牙ということで、当初からコノエは同業者たちの耳目を

集めていた。幼さの抜けきらない容姿もさることながら、尊大を絵に描いたようなライが

いっときたりとも手離さぬ様子から、おもに下世話な噂と好奇心の対象として。

 流石に仕事をこなすうちコノエの実力もだんだん評価されるようになってはきたけれど、

それでもいまだに卑下た視線に晒されることは多い。ただ幸か不幸か、コノエの体に

絶えず刻まれるライの匂いのせいで、実際にちょっかいをかけるような猫は滅多に

いなかった。街中でも、柄の悪さでは定評のある酒場であっても。

 今日だってそうだ。建物に入った瞬間からこちらを窺う幾つもの気配を感じはした

けれども、直接なにか仕掛けてくるものはいなかった。情報屋に話を聞く為にライが

離れ、残されたコノエが壁の隅に陣取っても、みな示し合わせたようにその一角だけは

避けていた。

 それも当然だ。強い雄の匂いを纏う賛牙に――しかも、その匂いをつけた猫が同じ

室内にいるというのに、手を出すなど自殺行為に等しい。たとえ素面でなくても、いや

リビカとしての本能が正常に機能しているならば、まず近づかない。コノエから香る匂いは

所有の証であると同時に警告でもあるのだから。

 それなのに、いま前に立ちはだかる雄はコノエと目が合った途端、餌に食いつく魚の様に

近寄ってきたのだ。同じテーブルで呑んでいた連れの猫たちが、必死になって止めるのも

聞かずに。

「なぁ、アンタが噂の賛牙だろ」

 あきらかに大型種とわかる巨躯で、ライの背を見つめるコノエの視界を遮って。

酒のまわった赤ら顔を鼻先まで近づけ、気色の悪い猫なで声で雄は囁いた。

「光の歌を唄うって俺たちの間でも有名だぜ……そこで相談なんだけどよ、アンタ、俺と

組まないか」

 耳を掠めた内容に琥珀の目が点になる。

 ……なに寝ぼけたことをぬかしててるのだ、この雄は。

わざわざ『噂の賛牙』と話しかけるのなら、つがいの闘牙が誰なのかわかっている

だろうに。まして相手がいるにもかかわらず自分と組め、など正気で言っているのか。

だとしたら救いようのない馬鹿か、余程の実力の持ち主だ。

 内心あきれつつコノエは前を塞ぐ雄を睥睨する。

体躯こそ立派だが、全身を覆う筋肉の付き方に微妙な偏りがみえる。

それに泥酔してる点を差し引いても、動きに無駄が多い。ついでに気配も雑で隙だらけだ。

 ふぅ、とコノエの唇から小さな溜め息が漏れる。

 しろうとではないが尊大な態度に見合うほどの実力もない。

この五年で鍛えられ飛躍的に向上した剣士としての本能が、言い寄る雄の力量をコノエに

告げる。こいつは酒で正常な判断力を失った、ただの馬鹿だ。相手にするだけ無駄だと。

「なぁ、どうなんだよ」

 だんまりを通すコノエを閉じ込めるように壁に手をつき、じりじりと雄が間を詰める。

 絶え間なく降り注ぐ酒臭い吐息と、染みついたハマキの匂い。そして欲望で血走った

まなざしにコノエは盛大に顔を顰め、すっと囲いから抜け出して背を向けた。

「オイッ待てよ。話は終わってないだろ!」

 立ち去ろうとするコノエの腕を掴んで雄が怒鳴り、再び壁に押しつける。

あからさまな拒絶すら理解できない雄の頭と諦めの悪さにコノエは苛つき、チッと舌打ち

した。

 こいつはただの馬鹿じゃない。とんでもない大馬鹿だ。危険を嗅ぎ分けられないところ

もそうだが、酒場で自分から揉め事を作るなど愚かすぎる。今の大声のせいで、こちらを

窺う気配がさきほどの倍以上に増えた。側耳を立てるだけでなく、はっきりと注目する猫も

いる。

 せっかく言いつけを守っておとなしくしていたのに。これで完全に台無しだ。後でライに

なんと言われるかを考えると、非情に気が重い。それなのに、この雄ときたら

「俺のもんになるって言えよ」

 と、『勧誘』から既に『命令』にまで言動をエスカレートさせている。なんでも自分の

思い通りになると信じて疑わない、腐った性根そのままの目でコノエを見つめたまま。
 
 きり、と。不快さを振り払うようにコノエは唇を引き結ぶ。

腹の底から、ふつふつと炎が這い上がる。鮮やかに燃え盛るそれがコノエの迷いを

焼き尽くし、抑えつけていた怒りを浮き彫りにしていく。

 もう、いい。我慢するのは止めた。ライの言いつけなんて知るもんか。

これだけ目立ってしまえば後は同じだ。そう思って顔を反らしたコノエは、視界に映った

ものに頬を引きつらせる。

 ひとつきりの、けれどうっとりするほど美しく澄んだ青い瞳がこちらを見ていた。密接する

雄と己の賛牙の姿に、不愉快だといわんばかりに眉の端をつりあげて。コノエと目が合うと

すっと眇めて責めたてる。何をやっているのか、この馬鹿猫と。

 胃の腑が冷たくなるようなその視線に、ぐっ、と怯えたように小さく唸って。だがすぐに

そんな自分を恥じ、持ち前の負けん気でコノエは睨み返す。好きでこうなったんじゃない。

不可抗力だと。

 必死に訴えるコノエのまなざしに幾らか心を動かされたのか、ライの唇が動く。

そこで待っていろ、と言ったような気がする。助けにはいるつもりなのだと察してコノエは

ゆるく頭を振った。こんな奴、自分でなんとかできる。それになにより、ライがいなければ

何もできない『つがい』だとは思われたくなかった。ただ歌うだけが取り柄の賛牙だと、

侮られるのは我慢できない。自分とライの関係はそれだけではないのだから。

 なにやら喚き続ける雄に視線を戻してコノエはふんと鼻を鳴らす。薄い口唇がやんわりと

弧を描いて、ゆっくりと動いた。

「失せろ」

 短く、そして冷然と。

明るい飴色の双眸に、これ以上ないほど凍てついた光をのせてコノエは吐き捨てる。

 はじめてコノエが口を開いたことに期待をこめた雄は、しかし振り下ろされた言葉の刃に

僅かに怯んで。それが自分にむけられたものだと認識すると、猛然と唸り声をあげた。

「ふざけんなッ! 闘牙に繋がれて腰を振って歌う淫売がっ、躾け直してやるッ」

 両目に憤怒をちらつかせた雄の手が、ほっそりとしたコノエの首に伸びる。飛び出した

爪が喉元に掛かる前に手首を掴んでそれを阻むと、コノエは僅かな動作で瞬く間もなく

雄を床に転がした。

 どすん、と重たげな音が響いて板張りの床が軋む。したたかに腰を打ちつけた雄は

耳障りな悲鳴をあげ、ついで自分の肩口ほどしかない小柄なコノエに倒された羞恥で

顔を赤黒く歪め、牙を剥いた。

「こ、この――」

 罵倒の言葉を発しようとした、その矢先。ヒュ、と風を切る音が聞こえたかと思うと、なにか

が光を弾いて目映く光る。そのまぶしさに一瞬瞼を瞑った雄は、次に映った光景にゴクリと

喉を鳴らした。
 
床に倒れ込んだ雄の、開いた股ぐらギリギリに深々と短剣が突き刺さっていた。

僅かでも動けば刃が肉に食い込む、絶妙の位置に突き立てられたそれには見覚えがある。

自分が腰に差していたものだ。

 ハッと顔色を変え、雄は腰に手を回す。当然ながら、そこに獲物はない。雄を倒す際に

コノエが抜き取り、たったいま投げたのだ。

 しん、と水を打ったようにあたりが静まる。

「……次は、その尻尾を狙おうか?」

 いつの間にか取り出した細剣の切っ先を、無様に伏せる雄の尾の先端までつつうっと

揺らめかせてコノエは微笑む。年若い猫には浮かべるには不似合いな、つめたく凄絶な

笑みが得体の知れない恐怖を掻き立て、雄を追い詰める。

「……」

 ごくん、と唾を飲み込む生々しい音が喉を震わせて。雄の耳が見る間に萎れて、頭髪

すれすれに伏せる。怒りで膨らんだ尻尾も勢いを無くし、ぺたりと床に沈んだ。
 
一瞬で勝敗がついた様子を見て取り、コノエを取り巻いていた好奇心まるだしの気配が

急速に解けていく。注目していた猫たちも次々と興味を失い、それぞれの卓で止めどなく

繰り広げられる雑談へと戻っていった。

「ただ賛牙と組めば強くなれると思い込んでる馬鹿と組むほど、俺は酔狂じゃない」

 剣を鞘に仕舞いながらコノエはきっぱりと言い捨てる。

賛牙の歌が闘牙に力を与えるのは事実だ。けれどそれが真価を発揮するのは、揺るがぬ

絆があってこそ。ただ一方的に押しつけ或いは搾取するだけでは、どんな歌も色褪せて

力を失う。それがわからないような輩に賛牙を求める資格はない。

「あと勘違いしてるようだからいっとくが、賛牙は闘牙の僕とは違う」
 
たとえ、後ろで控えて歌うとしても。その心は、常に前で戦う闘牙と共にある。けして奴隷

なんかじゃない。隷属だけの関係に、こんなあたたかな感情は生まれない。

 相手を想うだけで心が潤うような、優しく心地よい熱は。

「俺は繋がれているんじゃない。繋がってるんだ――こいつと」

 背後に感じる温かな気配を振り返って、コノエは誇らしげに最愛の闘牙を見上げる。

輝くような笑顔で見つめるコノエの肩を抱き寄せると、ライは小さく笑って出口へと歩き

出した。

 床に蹲る雄に、仲良く絡み合う鉤尻尾と白銀の尾をいやというほど見せつけて。