01 隣に座っていい?(小さな恋情3題)
艶やかな黒い尻尾が、屋根の上でふよふよと風に揺れる。
ようやく目当てのモノを探し出したコノエは、猫ならではの敏捷さで音も立てず近寄った。
「――コノエ?」
匂いで気づいたのだろう。さほど驚いた様子もなく、街並みを見下ろしていたアサトが
振り返る。つられて微笑もうとして、けれど浅黒い頬に走った痛ましい傷痕を見つけ、
コノエは微かに表情を曇らせた。
「どうした?」
「あ、いや」
きょとんとした顔で首を傾げるアサトに、慌ててなんでもないと言い訳して。コノエは
不揃いな屋根板を踏み抜かないよう注意しながら、俯き加減でアサトへと近づいた。
「……隣に、座っていいか?」
小さな声で、控え目に尋ねれば。瞬時にぴんと綺麗な黒い尻尾が膨らみ、形の良い
耳が嬉しげに揺れた。
「ああ」
満面の笑みを浮かべてアサトは今まで自分が座っていた、一番日当たりの良い場所を
譲る。全身でコノエを歓迎するアサトの様がすこし気恥ずかしくて、でも悪い気はしなくて。
ほんのりと頬に熱が滲むのを自分でも自覚しながら、コノエはアサトの隣に腰を下ろした。
屋根を吹き抜ける風は、冬の気配を含んで身を切るように冷たい。
此処は空に近いから、降り注ぐ陽の月のおかげで幾らか和らいではいるけれど。それでも
やはり、肌寒いのはかわらない。
体を撫でゆく寒風にどちらからともなく身を寄せ合い、互いの尻尾を絡め合って。下で
行き交う猫の波を静かに眺める。こうしていると、リークスの呪いも世界が滅びにむかって
いるのも、どこか遠くの夢物語のように感じられて。隣にあるこの温もりだけがすべてで、
いつまでも浸っていたくなる。なにも考えずに。
……でも、言わなきゃいけない。気づいているのに、知らないふりなんてできない。
何度も迷い、躊躇いながらコノエは切り出した。
「バルドに薬を貰ってきたんだ――傷の手当てをしよう」
「……ッ」
ごろごろと喉を鳴らしていたアサトの顔が、見る間に強ばって。叱られた子供のように
気まずげに視線を逸らす。コノエから逃れるように顔を伏せたアサトは、やがて小さく
呟いた。
「いい……たいした傷じゃ、ない」
「よくない。頬だって切れてるし、痣になってるとこもあるだろ」
「それは、な、舐めてれば、治るッ」
「なに言ってるんだ、ほっぺたなんて自分じゃ舐められないじゃないか」
なぜか頑なに手当を拒もうとするアサトの態度に、最初は穏やかに言い聞かせていた
コノエの口調もだんだん熱を帯びていく。躙り寄るコノエを避けるように、じりじりと後退
しはじめたアサトの逞しい腕をがしっと掴むと、コノエはぐっと顔を近づけた。
「俺がしたいんだ。いいだろ?」
お願いを遥かに通り越し、もはや脅迫に近い気迫でせまられてどうしてアサトが拒否
できるだろう。大好きなコノエの常になく怖い顔にびくりと怯え、しゅんと両耳を垂らして
アサトはこくりと頷いた。
「あっ……と、痛かったら言えよ?」
大きな体を縮こまらせるアサトに流石に強く言いすぎた、と表情を和らげてコノエは
微笑む。向けられた優しい笑顔に漸く安堵したのか、アサトはできたての痣の浮かぶ
ほうの腕をおずおずと差し出した。
痛々しいそれに再び顔が歪みそうになるのをなんとか堪えて、コノエはそっとアサトの
手を引き寄せる。薬をしみこませた布をまだ新しい傷のひとつひとつに押し当て、その上
から丁寧に包帯を巻いていく。
褐色の肌に刻まれた痕は思ったよりは浅く、どれも見た目ほどひどくはなかった。だが
いくら軽傷といっても、これだけ幾つもあればかなり痛みがあるずだ。
それなのにアサトはなにも言わない。悲鳴も泣き言も、なにひとつ。猫目につかない
ところで、誰にも迷惑をかけないよう一匹でじっと耐えて、やり過ごそうとする。痛みや、
哀しみや、それ以外のこともすべて。それがコノエにはもどかしい。
こんなに近くにいるのに、手を伸ばせばいくらでも触れる位置にいるのに、けれどアサト
の心はひどく遠い。その事実がコノエの胸に鈍い痛みをもたらす。
わかってはいるのだ、本当は。アサトがなにも言わないのは、コノエを巻き込みたくない
から。吉良との確執がコノエの身に及ばないよう、なにもかも自分ひとりで背負おうとして
いる。アサトが吉良と対立する切っ掛けを作ったのは、ほかならぬコノエだというのに、
彼はけしてコノエを責めない。いや、ひょっとしたらそんな考えすらアサトの中にはない
のかもしれない。
ふと、薬を塗る手を止めてコノエは顔を上げる。
「アサト」
自分を無心に見つめる紺碧の双眸を、同じくらい真摯なまなざしで見つめ返して。気が
つけば、心の奥底から沸きあがる感情に突き動かされたように唇が動いた。
「……すまない」
「コノエ?」
「俺が、おまえを――」
あの時、おまえを連れ出さなければ。
喉元まで出かかった言葉は、しかし戸惑うように揺れる藍色の瞳を前にして凍りつく。
この先は言ってはいけない。口にすれば、きっと優しいアサトを苦しめることになる。
理性が、コノエにそう告げる。これ以上、彼を困らすなと。
けれどもどんなに自制しても、心は叫び続ける。
あの日、アサトを吉良から連れ出さなければ。
今こうして彼が傷つくことも、命を狙われることも無かったかもしれない。子供のように
純粋なアサトをあの閉鎖的で澱んだ村に置いておきたくなくて強引に手を取ってしまった
けれど。それは本当にアサトの為になったのだろうか。
あの時の吉良は、あきらかにおかしかった。まるでなにかに操られたように、村も猫も
憎悪と殺意の闇で塗り潰されていた。あんな場所にアサトを一匹にしておけない、そう
判断したことはいまでも間違ってなかったと思う。でも、こうして傷だらけの姿を見ると、
コノエは自分の選択に疑問を持たずにはいられない。最善の道を選んだつもりでも、
それがアサトにとっても良かったとは限らないのではないか。
初めて会ったとき、もしコノエが引き返していれば。アサトはいまでも、村で静かに
暮らしていたかもしれないのだ。たとえ村中の猫に疎まれていても、裏切り者として
追われるよりはマシだったかもしれないのに。
もう二度と、アサトは吉良に戻れない。そしてそうさせてしまったのは、コノエなのだ。
「ごめん……アサト」
掠れがちな声で、喘ぐようにつぶやいて。褐色のふしくれた手をぎゅっと握り締めて、
コノエは何度も謝罪の言葉だけを繰り返す。
アサトを吉良の戒めから解放したい。自分が火楼を捨て、この祇沙の広さを知った
ように、アサトにも見てほしかった。世界は、村の外にも無限に広がっていることを。
吉良だけがこの世のすべてでないことを。
願ったのは、それだけ。けれどそれが、同胞から命を狙われ続けるという惨い代償を
必要とするものだったなんて。知らなかった、で済むことではない。
己の考えの至らなさが歯痒くて、悔しくて。そしてなにより、アサトの力になれないことが
コノエを激しく打ちのめす。
「コノエ…」
唇を噛みしめて項垂れるコノエを、低音の良く通る声が呼ぶ。
案じるような声音が耳に痛い。アサトを心配させないよう、顔を上げて笑わなければ。
そう思うそばから後悔が溢れ出してコノエの表情を強張らせる。だめだ。いまアサトを
見たら、きっと泣き出してしまう。
俯いたまま懊悩するコノエの眦を、あたたかく湿ったものが触れる。驚いて弾かれた
ように見上げれば、どこか寂しげに微笑むアサトがいた。
「……泣かないでくれ」
息が溶け合うほど間近でそう囁いて、無骨な指がそうっとコノエの頬をなぞる。
「俺は、大丈夫だから」
――だから、泣かないで。
側にいてくれるだけでいいのだと、やわらかく宥める声に想いを滲ませてアサトの腕が
コノエを抱き締める。コノエよりずっと大柄で鍛え抜かれた体は、けれどしなやかに
コノエを受け止め、優しく包みこむ。胸で燻る痛みを癒すように。
「こんな傷、なんでもない」
「アサ……ト」
「一緒にいると決めたのは、俺だ。コノエは悪くない」
きっぱりと言い切る声は力強く、僅かな迷いもない。おそらく本心からそう思っているの
だろう。揺らぎのないアサトの言葉が嬉しくて、けれどほんの少しだけ切なくて。堪えて
いた涙のひとしずくが、コノエの頬を滑り落ちる。
――救われていたのは、俺のほうだ。
アサトの胸に顔を埋めたままコノエは思う。
似たような境遇、そして自分以上に世間知らずなアサトをほっておけなかった。掟に
捕らわれるだけの一生から助け出したいと、強引なほどの積極さで藍閃まで――いや、
いままで連れ回した。危険なことだっていくつもあったのに、アサトなら自分から離れない
と心のどこかで過信して。実際、コノエがそう思い込んでも仕方ないほどアサトは側に
居続けた。
けれど本当は、コノエのほうがアサトに支えられていたのだ。隣にいるのが当たり前な
ほどひそやかに寄り添い、いつも温もりをくれた。寂しい時も、忍び寄る恐怖に体が竦んだ
時も、ずっとずっと。みずからの苦しみは、けしてコノエに見せることなく。
――強くなりたい。
全身を包むあたたかさに心まで満たされながら、コノエは切に願う。このぬくもりを守れる
ほどに、強くなりたい。すこしでもアサトの力になれるように。そしていつか、アサトが抱える
苦悩を取り除けるように。
その想いを生み出す感情をなんと呼ぶのか、まだ気づかないまま。
コノエは自分を抱くアサトの背に両手を回し、縋るようにしがみつく。睫に宿る涙を振り払う
ように、何度も瞬きながら。
小さな恋情3題 /01 隣に座っていい?
モモジルシ様よりお題をお借りしました