どうしても、あんたがいい



 そりゃ、腐っても雄だから。

雌を見れば、どうしたって緊張する。持って生まれた雄の本能なんだから仕方ない。

特に若い雌なんて、火楼を出るまで見たことなかったし。初めて触れた(正しくは触れられた

だけど)ときは、なんて柔らかくて華奢で儚いんだろう……と苦しいのも忘れ、まじまじと

見入ってしまった。そういえば、母さん以外の雌であんな間近に寄ったのは、後にも先にも

あれ一回きりだ。なんたって親猫よりもはるかに厳しく容赦のない保護者が、四六時中常に

監視の目を光らせているしな。

 だから、よく考えなくてもこの状況は非常に美味しいのかもしれない。あくまでも、

世間一般の雄としては。



「やーんっ、かしこまっちゃって可愛い〜!」

「あっ、姐さんズルイッ、自分だけ若い子ちゃっかり掴まえてっ」

「アンタはそっちの銀髪の色猫がいるじゃないの、ねえ坊や」

 鮮やかな紅を履いた唇から甘い息を零して、やや年嵩の雌がしなだれかかる。

たわわに盛り上がった乳をぎゅむと押しつけられて、目のやり場に困って視線を逸らすと、

今度は別の若い雌が極上の笑みを浮かべてコノエの頬に顔を寄せた。

「ホント可愛いわぁ……昨日の髭親父とはえらい違いだもの。お肌もスベスベだし、綺麗な

顔立ちしてるし、こんな若い旦那さんだったら毎日だっていいのに」

 ほぅ、と悩ましげな溜息をつきながら雌が腕にすがりつく。飾り立てた全身から、目眩の

するような甘い香の匂いを振りまいて。

 なめらかな白い肌を引き立てる華美な(そして少ない布地の)衣装と、計算しつくされた

その媚態はたとえ営業用だと解っていても非常にそそる。若くて健康な雄ならば、ほぼ

間違いなくこれで落ちるだろう。というか、綺麗に着飾った妙齢の雌に言い寄られてるのに

逆上せあがらないほうがおかしい。雄として駄目だろうそれは。

 だがしかし、なんでも例外というのはあるもので。

普段であれば滅多にお目にかかれない美猫なお姉さん達の熱い抱擁も、コノエにとっては

あまり歓迎できない代物でしかなかった。理由は簡単、自分の真正面に不機嫌全開で座る

白猫の、冷たい怒りにめらめらと燃え上がる青い目が怖くてたまらないからだ。

 さきほどから着飾った雌たちがコノエにくっついてはしゃぐたび、氷柱のように鋭く尖った

視線がグサリと突き刺さる。自分だって両手に花よろしく2匹の娼妓を侍らせているにも

かかわらず、つがいの仔猫が同じように扱われるのは大変お気に召さないらしい。

雌達がコノエに言い寄ったりスリスリしたり、素敵な膨らみをむにゅと押しつけちゃったり

すると、それはもう射殺さんばかりの眼で睨むのだ――当の雌よりも、慣れない状況に

困惑して赤くなっているコノエを。

 ああむかつく。俺がなにしたってんだよ、こん畜生。

心の中でそう毒づくものの、口に出すのはやっぱり怖い。理屈じゃなく本能が、これ以上

ライを怒らせるなとコノエに囁くのだ。後で心身とも辛い目に遭うのは自分だぞ、と。

 ――ああ、また睨んでやがる

恐る恐る視線を持ち上げた途端、不機嫌全開のライとばっちり目が合ってしまい、

コノエは逃れるように慌てて下を向く。好きでこうなってるわけじゃないのは知ってるくせに、

なんでそんなに怒るんだ。なんだか悔しくなって、コノエは手に持ったままだった小さな

酒杯に舌を浸した。

 冷たく澄み切ったそれを幾度か舐めてみるが、緊張しているせいかまったく味がしない。

極上のマタタビ酒らしいが、もとから飲み慣れないコノエに違いがわかるはずもなく。

それならばと大量にならぶ豪勢な料理をつまんでみても、口に残るのは砂を噛むような

味気なさだけだ。せっかくのご馳走なのにもったいない。

 大体なんでこんな状況になったんだ? と、うっすらと靄のかかり始めた脳をフル回転

させ、コノエはこれまでのことを反芻する。えーと、たしか……そうそう、発端はギルドだ。

 七日月ほど前、数年に一度回ってくる半強制の奉仕活動(要は格安料金でハンター

ギルドの回す仕事を引き受ける)で、娼館の護衛を頼まれたのだ。なんでも雌を狙う

悪名高き強盗団に目を付けられた、とかで。

 蝕の大打撃から幾度か時は巡り表面的には立ち直ったように見えても、各地の集落に

刻まれた傷はまだまだ根深い。半分以下にまで激減した雌の数は少しずつ回復しては

いるけれど、それでも『虚ろ』以前にまで戻るには十数年の歳月が必須だといわれている。

そんな状況下で、若くて子供の産める彼女たちは依然として貴重であることに変わりは

なかった。そして、とんでもない高値で取引される『商品』であることも。

 街の認可をもつ娼館だからこそ丁寧に扱われるし客もある程度節度を守るけれども、

盗賊に略奪され辺境の村などに売り飛ばされてしまえば、若い雌を待ってるのは今以上

の地獄だ。それこそ文字通り死ぬまで陵辱され、絶え間なく子を孕まされて一生が終わる。

 鳥籠のような娼館は、はっきりいって好きじゃない。けれどだからといって、此所にいる

雌たちが酷い目に遭うのを黙って見過ごすなんてできない。そう張り切るコノエの気持ちが

作用したのか、今日奏でた歌の威力は凄かった。いやもう本当に、自分でもびっくりする

ほど効果覿面だった。一個小隊並の数はいたはずの盗賊たち全員を、なんとライと数匹の

同業者とで一匹残らず殲滅してしまったのだから。

 護衛の目を瞠る働きぶりに娼館の主はいたく感激し、後始末を終えて帰りかけた

コノエ達を呼び寄せると、館でも一番良い大広間を用意して歓待した。

 安全な隠し部屋に避難していた娼婦たちも我先にと競って宴にあらわれ、まるで上客を

もてなすように接待してくれるとあれば、どんな雄だって悪い気はしない。

ましてここは数ある娼館でも高級な部類で、べらぼうな花代を取るだけあって雌達は

聞きしに勝る美形ばかり。かくして仕事を終えて気の緩んだ賞金稼ぎたちと、陽気な

娼婦たちの臨時大宴会が開催されることになったのだ――よし、回想終了。

「ねー、アタシと姐さんとどっちが好み?」

「うふふ、もちろん私よねぇ、坊や」

 大きな耳を伏せ、所在なげに(あえて保護者とは目を合わせず)黙ってマタタビ酒を

舐めるコノエを奥手の初心猫ととったのか、わらわらと集まってきた雌達が口々に甘い

言葉でからかう。いずれ劣らぬ花たちを仔猫一匹に持ってかれた親父たちのやっかみ

混じりの野次も飛んでくるが、それはこの際どうでもいい。そう問題は、このキラキラと

した雌達の熱い視線だ。

 ああ、この状況はまずい。ジリジリと狭まる桃色包囲網に、コノエのにぶにぶ防衛本能が

けたたましい警戒音を鳴らす。全身の産毛が近づく濃厚な雌の匂いに、ぞわわと細波の

ように毛羽立つ。

 ぐるりと取り囲む複数の眼は見覚えがある。獲物を嬲る歓びに沸く、猫の目だ。

本能に支配された獣の目だ。この場合の獲物とは、もちろんコノエなのはいうまでもない。

やばい。やばすぎる。保護者の勘気に怯えながらチビチビ酒舐めてる場合じゃない。

下手するとこんな衆猫環視の中でぱくりと喰われてしまいそうだ、色んな意味で。

 前後左右から押しつけられる美乳で窒息しそうになりながら、コノエはなんとか逃げ出す

算段を考える。用足しだと言ってそっと抜け出そうか。それで他の雄達と娼婦たちが

仲良くなるまで、どこか開いてる部屋にでも隠れていればいい。うん、名案じゃないか。

 とりあえず、まずはこの乳の谷間から抜け出さないと。そう思い、隙間をつくる為もぞもぞ

と手を動かせば。張りのあるまるみに指がぷにと埋まり、その途端

「キャッ、仔猫ちゃんったら意外と大胆〜」

「あん、ずるいっ、あんたばっかり! チビちゃん、私のも触ってよっ」

「そんな俎板よりも私のほうがいいに決まってるでしょっ、ねえ」

 と、全方向から一斉に湧き上がった黄色い歓声が縮こまるコノエの鼓膜を劈いた。

「……ッ」

 頭の天辺から折れ曲がった尻尾の先まで、ジーンと痺れるような衝撃が湧き上がり、

眼窩の奥で花火のように爆ぜる。

 耳の奥で雌たちの叫び声が幾重にも反響し合い、激しい目眩がコノエを襲う。視界が

小刻みにぶれ、チカチカと点滅する火花で目が回る。

「う、あ」

 口の中に酸っぱいものが込み上げ、咄嗟に口元を覆ったけれど。胃の腑から、なんとも

いえない不快感が食道を通って喉を迫り上がり喉元を塞ぐ。

 あ、もうダメ。吐きそう。いや吐く。

目の前が暗く翳っていくような、気の遠くなる感覚にコノエが意識を手放しかけた、まさに

そのとき。

 朦朧とする視界の端を、銀色の影が掠めた。

「っ、うわっ!」

 ぐい、と。ものすごい力が腰にかかりコノエの身体が浮く。水底から引き上げられる

ように雌たちの中から勢いよく引っ張り出され、吐き気も忘れて顔を上げれば。表情を

一切消したつがいの白猫が、冷ややかな眼差しでコノエを見下ろしていた。

「……ラ、イ?」

 たどたどしく名を呼ぶコノエには応えず、鋼のように鍛え抜かれた腕が、有無を言わさぬ

強引さで弛緩した体を抱き上げる。

「え、あの、ちょっ」

 驚きと、戸惑いと、僅かばかりの気恥ずかしさと。色々な感情が混濁しすぎて現状の

飲み込めないコノエを荷物のように担いだか思うと、ライは苛立ちをぶつけるかの如く

雌猫たちを隻眼で一閃した。

 腹の底が冷えるような、無言の威圧。仄かな殺気すら滲む怜悧な眼光に気圧され、

きゃあきゃあと騒いでいた雌だけでなくマタタビ酒でいい感じに出来上がっていた

賞金稼ぎたちもぴたりと沈黙し、硬直する。

 しん、と水を打ったように静まりかえった広間に、一歩踏み出したライの靴音が甲高く

鳴り響く。その瞬間、引き潮のようにさっと割れた室内のど真ん中を、姿勢良くかつ堂々と

通り過ぎてライは宴会場もとい大広間を出た。

 ふんだんに蝋燭を使い煌々と照らされた広間とは対照的に、わざと明度を絞った洋燈が

照らす絨毯敷きの回廊を、神経質な足音が谺する。迷路のように折れ曲がった幾つ目かの

角を曲がり、今晩の宿にと貸し与えられた部屋の前までくると、ライは扉を勢いよく蹴り

開けた。

 途端むっと鼻孔をつく花の匂いに、苦虫を噛み潰したかの如く顔を顰めて。凶悪な形相の

ままライは部屋の真ん中に設えた寝台へと近づく。宿屋の安物とは雲泥の差を見せつける

(使用目的から考えれば当然だが)豪華で頑丈なそれにどっかり腰を下ろすと、肩に担いで

いたコノエを自らの膝に乗せ、目の前でふるふると震える大きな耳に遠慮なく噛みついた。

「っ、痛ッ」

 尻尾とならんで敏感な場所に牙をたてられた痛みで、コノエはおもわず悲鳴を上げる。

しかし、耳に食い込む歯の力は緩まない。

「い、いたっ、いたたっ……ちょ、止めろって、ライッ」

 抗議の声にまったく耳を貸すことなく、反射的に身を捩って逃げようとする身体を逞しい

腕できつく戒めて。ライは荒々しい動きでコノエの肌に、耳に、尻尾に咬み痕と愛撫を刻む。

それはもう異常なくらい執拗に。

「や、……くっ」

 鋭い痛みと、その裏にひそむ仄かな快感に煽られたコノエの眦から玉のような涙が

滲む。いやだ、こんなの。そう伝えたいのに、喉元まで出かかった拒絶の言葉は密着する

巨躯から流れ込む激しい感情の波にすべて呑み込まれてしまう。コノエの思いとは裏腹に、

口を開けば意味を成さない悲鳴しか出てこない。

 ひく、と両耳を伏せて。理不尽な責め苦に耐える仔猫の頬を、ざらついた舌がそろりと

舐める。溢れる滴を拭うように、湿った熱がゆっくりと肌を這う。どこか宥めるような優しい

その動きにつられて、コノエは固く閉じていた瞼を開けた。

「ライ?」

 おそるおそる見上げれば、いくらか勘気の薄らいだ隻眼とぶつかる。複雑な感情を宿して

揺れる青へと視線を搦めてコノエは問うように首を傾げた。

 全ての音が消えたような静謐が、寄り添う2匹を包む。

なかなか喋ろうとしないライの腕にすり、と鉤尻尾が絡みつく。仔猫が甘えるような、それで

いて慰めるような、微妙な尾の動きと。口で問いつめるのではなく全身で何故、と訴え続ける

コノエの眼差しに観念したのか、ぼそりと呟いた。

「消毒だ」

「……消、毒?」

「雌どもにベタベタと触られていただろうが」

 憤懣やるかたないといった表情でライは再びコノエの頬や瞼を舌で丹念になぞる。

そこは雌たちが何度も接吻していた箇所で、鮮やかな紅の跡や香水の匂いがいくつも

染みついていた。そのひとつひとつをライは偏執的ともいえる丁寧さで消し、かわりに自分の

匂いを刻みつけていく。

 強まるライの匂いと舌触りの心地よさに、うっとりと目を細め喉を鳴らしながら。ふと、何か

思いついたようにぴくんと耳をたて、コノエは自分の寄り掛かる鍛えられた胸板へそっと手を

当てた。

 さわ。さわさわさわ。

細い指が、陰影のくっきり浮かぶ筋肉を確かめるように動く。

「……オイ、なにしてる」

 愛撫を再開したものの、自分の胸を触り続ける仔猫の様子が気になってライは舐めるのを

止め、掠れた声で尋ねた。

「固いし、厚いし、重いんだよな……これ」

「……なに?」

 白猫の質問には答えず、なにやら難しい顔をしてコノエはライの胸を凝視する。

 ぶつかると鼻がへこむかと思うほど痛いし、のし掛かられるとビクともしなくて同じ雄なのに

情けなくなるし、行為の時は重しがわりになって潰されそうになるし。よくよく思い返すと、

ろくな目にあってないような気がする。けれど。

「あっちのほうが柔らかくて甘い匂いがして触り心地もいいんだけど、俺はこっちのほうが

すごく安心するんだ」

 なぁ、それっておかしい?

こてん、と小首を傾げたコノエが真顔で問えば。白猫は一瞬だけ息を詰め、やがて呆れた

ような口ぶりで「馬鹿猫」と捨て台詞を吐いた後、ぷいっとそっぽを向いた。

 きりりとつりあがった眦のあたりを、うっすらと赤らめて。


 あ、もしかして勝った? なんて酔いの回った頭の隅で思いつつ。コノエはすこしだけ

背伸びすると、ライの頬に唇を寄せた。止まってしまった続きを促すように。