Rhapsodie



 たった一口、だ。この馬鹿猫が呑んだのは。皿になみなみとつがれたうちの、ほんの

僅か。せいぜい喉を湿らす程度の量のはず。なのに、何故ここまで酔っぱらえるのか。

完全に出来上がってしまった自らのつがいのへべれけな姿に、ライは本気で頭を抱えた。

「アサトぉ〜っ」

 ライが引き留めるよりも僅かに早く、コノエの小柄な体が――暫く見ないうちに一段と

逞しさの増した――黒猫へと突進する。鞠のようにはずむそれを受け止め、アサトは

戸惑ったような声を上げた。

「コノ、エ……?」

「あのとき、なんで急にいなくなったんら〜?」

「そ、それは、その」

 とろん、と潤んだ瞳に上目遣いで見つめられ、天鵞絨のような黒い尾が激しく揺れる。

熟れたクィムの実よりも真っ赤に頬を染め、しどろもどろになって言葉を探すアサトに

コノエはさらなる追い打ちをかけた。

「俺、アサトがいなくなってすご〜く寂しかったんだからな」

 恨みがましいその声音は、けれど聞く者には蜜のように甘く響く。

いまだに強い未練を残す相手に、うるる、と眦に滴を滲ませ縋るような表情で見上げられて、

どうして我慢ができるだろう。自制心は強いと自負するライでさえ、くらりと蹌踉めきたくなる

媚態に本能で生きる黒猫(ライ主観)が敵うはずもなかった。

「ッ、コノエ!」

 感極まったアサトが胸にある温もりを抱きしめようとした瞬間にはもう、コノエの体は

彼から離れ、ニヤニヤと薄ら笑いを貼りつけて二匹を見守っていたバルドへ飛びついた。

「バルドぉ〜」

「お、おう、どうした?」

 急に飛び込んできたコノエをなんなく抱き止めたバルドは身を屈め、首を傾げる。

すると

「いつも美味い飯作ってくれてありがと〜」

 と、舌っ足らずな声で囁き、コノエは目の前の髭面に唇を寄せた。

 ――が

「いいかげんにしろ、この馬鹿猫ッ」

 マタタビ酒の匂いの残る口唇がバルドに触れる寸前、もの凄い力がコノエの襟首を

掴んで虎猫から引き離す。仔猫のように持ち上げられたコノエが、うにゃと苦しげに

一鳴きして振り返れば。怒りが臨界点まで突き抜け無表情となったライが、氷のように

冷たい叱責を容赦なく振り落とした。

「これしきの酒で出来上がるな馬鹿がっ! だからお前には無理だと云っただろうっ」

「う゛……ラ、イ?」

「『う゛』じゃないッ。これ以上つまらん騒ぎを起こすな」

 部屋に戻るぞ、と。有無を云わさず細い体を肩に担いでライは宿の食堂を出る。

そのまま二階にある部屋まで戻ろうと階段を昇り始めた途端、おとなしく担がれていた

コノエが猛然と暴れ出した。

「やだ、もっと呑む! アサトと話すぅ〜!」

「ッ、止めろッ、この馬鹿ッ」

「いーやーだーっ!」

 バタバタと四肢を動かして抵抗するコノエをライが叱るものの、酒で理性のふやけた

仔猫はまったく聞く耳をもたない。

 階段の上という不安定な場所、しかも泥酔した仔猫の尋常でない暴れっぷりに、いかに

ライといえどもバランスを保つことが出来ず、ぐらりと大きく傾いた。

「あっ」

 止める間もなく二匹の体が宙を舞い、どすん、と派手な音を立てて床に倒れ込む。

たいして高さでは無かったけれど、咄嗟にコノエを庇ったライは受け身を取ることができず

全身を強かに打ち付けてしまった。

「……っ、の、馬鹿猫っっ」

 つがいの度重なる愚行に、衝撃から立ち直ったライは声を荒げる。

もう我慢ならない。他の雄猫といちゃついてライの忍耐の限界に挑戦したあげくの、この暴挙。

けして手だけはあげるまいと思って口で言い聞かせてきたが、コノエがそういう態度なら話は

別だ。

 きっちり体に躾けてやろう。勢い込んで身を起こしたライは、しかし自分に馬乗りになった

コノエの様子にぎょっと目を剥いた。

「ごめ……ごめんなさい」

 先ほどのやんちゃっぷりから一転、ぽろぽろと丸い滴を零しながら、へたりと耳を伏せた

コノエがライの首筋に顔を埋め嗚咽をもらす。すん、と鼻をすすり何度も「ごめんなさい」と

呟いて。許しを請うように頬へと口吻を繰り返すつがいの姿に、ライの中で燃え上がった

怒りの炎が急速に萎んでしまう。

「ライ、ライ……ぃ」

 頼りなげな仔猫の声。その切ない響きがライの心を激しく揺らす。コノエの豹変に、今まで

感じていた憤りがするすると解けて。その代わりに甘いような苦いような不思議な感情が、

湧き水のようにとめどなく零れ出す。

 駄目だ。卑怯だろう、それは。そんなふうに泣かれたら、もう叱れない。見てるこっちまで

胸が塞がれるような、そんな哀しげな泣き顔をされたら。もうお手上げだ。

 ――絡み酒に泣き上戸……酒乱だな、こいつ

 怒りの矛先を失い、かといって燻る不満も完全には消せず、ライは疲れたように息をつく。

自分が側にいる時は、まだいい。酔ったコノエが何かやらかしたしても、力ずくで止めて

みせる。だがライの目の届かないところで、こんな状態になったら。想像するだけで頭痛が

止まらなくなりそうだ。

 ――とにかく、金輪際酒と名の付くものは一切与えられん

泣きながら口づけの雨を降らすコノエをあやしつつ、どうしようもなくつがいに甘い自分を

自覚してライは口元を歪めた。