■幼年期の終わり




 その言葉に、ライは我が耳を疑った。思わずふりむいて聞き返してしまうほどに。

「なんだと?」

 自分でも驚くほど低い声音でコノエに問う。

いま、こいつはなんと言った。聞き間違いでなければ――

「だからッ、……その、宿、変わろうかって」

 注がれる鋭い視線に居たたまれず、叱られた仔猫のように鉤尻尾をせわしなく

揺らして。それでもコノエはけして顔を伏せることなく、まっすぐにライを見つめて

告げた。

「藍閃の街もだいぶん復興してきたし、いまは他にも空いている宿もあるだろ……

だから」

 震えるような声がつかのま途切れ、コノエの顔がくしゃりと歪む。僅かに言い淀んだ、

その隙を逃さずライは逆に聞き返した。


「ここに、なにか不満でもあるのか」

「ッ、違うっ!」

 ふるふると首をふってコノエは即座に否定する。

「そうじゃない。この宿は居心地がよくて好きだ。でも――」

 言い募ろうとするその先に、躊躇いでもあるのか。く、と形の良い唇を噛みしめ、

泣くのをこらえるような表情で俯き、コノエは沈黙する。

 萎れた花のように肩を落とすつがいの態度が理解できず、ただただライは茫然と

見下ろす。いったい、なにがどうしたのいうのだ。食事を終えて部屋に戻ってきた途端、

いきなり思い詰めた顔で爆弾発言をして、いまは勝手に落ち込んで。わけがわからない。

自分の知らないところで、何かあったのだろうか。それとも、ライ自身気づかぬうちに

コノエを傷つけてしまったのか。

 けれど、どんなに考えてみても思い当たる節がまったくなく。このままじっとしていても

埒があかない。そう判断したライはコノエの寝台に近寄り、項垂れる小柄な体を強引に

抱き寄せた。

 ハッ、と息を呑むような気配がして、腕の中のコノエが身を竦ませる。だが、抗う様子は

ない。ライの胸に頭を預け、雄にしては小さな体を更に縮こませる。

「なにがあった」

 さらさらと指の間をすり抜ける髪を撫でつつ、静かな口調でライは尋ねる。できるだけ

コノエを萎縮させないよう気を遣いながら。

「……」

「俺は、おまえの様に察しがよくない。言いたいことがあるなら隠さず言え」

 低い声音で、睦言を紡ぐようにそっと囁いて。へたりと伏せたままの薄茶の耳を、

肉厚なライの舌がゆっくりとなぞる。尖った先端から乳白色の付け根まで、形を

確かめるように幾度も繰り返し、執拗なほど丁寧にコノエの耳を愛撫する。昂ぶった

心を宥め、落ち着かせるように。

 性的な匂いのしない親愛の情を示す行為は、どこまでも優しくて。

張りつめていたコノエの緊張を和らげ、絡まった感情をゆるやかに解いてゆく。鬩ぎ合う

様々な思いをひとつひとつ剥がし、最後に残ったそれを、コノエは吐息と共に絞り出した。

「バルドは、本当の親みたいに良くしてくれる。でも、あんたにとっては、そうじゃない」

 告げる言葉はいつもと違って、ひどく弱々しい。けれど滲むようなその声はけして

闇に溶けることなく、ライの耳までしっかりととどく。

「本当は――すごく嫌、なんだろう? 刹羅でのことを持ち出されるのは」

 ――辛い記憶を、呼び覚まされるから。

 じわりと鼓膜に浸みこんだコノエの囁きに、青い隻眼が大きく瞠り、ライの頬が

引き締まる。

 なぜ、それを。そんなに顔に出ていたのだろうか。しかし容易く気取せるような、

あからさまな態度は特に気をつけて自制したつもりだったのに。

 虚をつかれ表情を強張らせた、ライの脳裏に。ふと、数刻前の遣り取りが蘇った。







 蝕の厄災から、一巡りの年と半分の歳月が流れて。

つがいの賞金稼ぎとなった二匹は、藍閃を旅立ってからはじめてバルドの宿を訪れた。

祭りの時期からずれていたこともあって泊まり客も少なく、バルドも快く受け入れてくれた。

 コノエと旅の必需品の補充がてら、少しずつ復興していく街をゆっくりと見て回って。

二匹が宿に帰り着いたときには、食堂は夕食をとる猫たちでごった返していた。

「よお、おかえり。遅かったな」

 注文の皿を運んでいたバルドが立ち止まり、空いているほうの手でコノエを手招く。

ちょうど客が帰って空席となったテーブルに座らせると、「ちょっと待ってろ」と言い

置いてバルドは厨房の奥へと姿を消した。

「ほら。今日のスペシャルメニューだ」

 両手に大皿をかかえて戻ったバルドが、どんと食卓に料理を置く。

よく焼けた鉄板の片方にはジュウジュウと湯気を立てる肉と甘く煮た温野菜、もう

片方の器には牛酪をぬった麺麭や果実を使った焼き菓子がたっぷりと盛られていた。

「腹へってるだろ? どんどん食えよ」

 バルドの豪快な笑顔に促され、コノエが香ばしい匂いのする鉄板に手を伸ばす。

熱々の鶏肉のかけらを噛みしめた途端、じわりと濃厚な肉汁が口に広がり、あまりの

美味しさにごろごろと喉を鳴らした。

「すごくうまい」

「そうか。ほら、こっちもどうだ」

 褒めるとバルドは嬉しそうに笑い、今度は菓子を勧める。クィムよりもっと小さな赤い

実を詰めて焼きあげたそれはカディルよりも甘く、よほど気に入ったのかコノエは次々に

口へ運んだ。

 旺盛な食欲をしめすつがいを眺めながら、ライは果実水で割った酒をゆっくりと飲み干す。

相変わらず料理に手をつけることはほぼ無いが、バルドも諦めたのかとくに何も言わない。

そのかわり、あれこれとコノエに勧めてはいちいち感想を聞く。鬱陶しくないのかとライは

思うが、ちゃんと受け答えしているところをみると苦ではないらしい。

「……ん、どうした。野菜は苦手か?」

 粗方消えた鶏肉の横、ほとんど手つかずで残っているのを目敏く見つけたバルトが

コノエに尋ねる。うぐ、と軽く噎せた仔猫は気まずそうに目を泳がせた。

「え、いや、その……苦手っていうか」

 ごにょごにょと呟いて、恥ずかしさからコノエは頬を染めて下を向く。その様子にピンと

きたのだろう。バルドは意地の悪い笑みを浮かべ、まったく減っていない緑色の根菜を

指さした。

「ああ、これか。子供は大抵嫌がるよな」

 慣れたら美味いのに、と追い打ちをかける虎猫の言葉に薄茶の耳がへにょりと萎え、

鉤尻尾が所在なげに揺れる。

 ものごころついた頃には既に虚ろの被害が蔓延し、辛うじて採れる木の実や植物を

乾燥させて作る粉が主食だったコノエにとって、藍閃に溢れる野菜の大半は未知の

食べ物だ。特に苦みのあるものは苦手で、口に入れてもなかなか飲み込めない。

けれど、そのことをライは一度も咎めたりしたことはなかった。

 たしかに栄養はあるだろうが、それ以外食料がないわけでも、食べなければ死ぬ

わけでもない。ライ自身が食に関心が薄いこともあり、無理に直そうとは思わなかった。

嫌がるものを強要する気はないし、そのうち慣れていけばいい。

 だが、世の中にはそう思わない猫もいる。まるで獲物をみつけた獣のようにキラキラと

目を輝かせ、バルドは羞恥で縮こまるコノエへ躙り寄った。

「ほら、口あけな。ソースが染みてるから苦くないって」

 具を掬い取ったスプーンで唇をつつかれ、頬を引きつらせたコノエが小さく呻る。

ライが制止の声をあげようとした矢先、観念したようにコノエは口をあけ、目を瞑って

それを呑み込んだ。

「ん、ぐっ」

 汁が咥内に滲むのが、よほど嫌なのだろう。ほとんど噛まずにコノエは口の中の

ものを無理矢理嚥下する。ごくん、と喉を鳴らし涙目で震える仔猫の様子にバルドは

声をあげて笑った。

「いや〜、可愛いなアンタ! ライも小さいときは、よくそうやって食べてたよ」

「……ライも?」

 微かに残る味を洗い流すように、壺の果実水をがぶ飲みしていたコノエの耳が

つがいの名に反応してぴくんと揺れる。つりこまれるように身を乗り出す仔猫に、

懐かしむような口調でバルドは続けた。

「まだライがこれくらいだったころ、うちで預かったことがあってなぁ。夕飯に根菜の

シチューを出したら、今のアンタみたいにベソかきながら食べてたよ」

 懐かしい情景を思い出してか、いきいきと話し続けるバルドの目が熱を帯びる。

その声音に混じる、どこか押しつけがましい響きを感じ取ったライはすっとを眇めた。

 ――ああ、またか。

うんざりしたように軽く眉を顰め、にやにやと笑うバルドを静かに睥睨する。いつもこうだ。

この雄は、なにかと云うと昔のことを持ち出してくる。過去しか残っていないのだから

仕方ないが、すぐに刹羅でのことに結びつけて話されると鬱陶しくてかなわない。

 幼い頃の自分がバルドの世話になっていたのは、事実だ。親らしい愛情を示さない

両親から、たびたび庇ってくれたことも。けれど度重なるバルドの苦言が、更なる折檻を

引き起こしていたことは解っていたのだろうか。

 今の話にしてもそうだ。まだ小さなライに苦手な食べ物があることを知ったバルドは、

食事を工夫することを母に勧めた。だが母からそのことを伝え聞いた父はひどく怒り、

ライをこっぴどく叱った。誇り高き刹羅の猫が、食べ物の好き嫌いなどなにごとか、と。

長いあいだ息子を怒鳴りつけても父の怒りは収まらず、とうとう鍛錬用の杖を取り出して

ライを激しく打ち据えた。あまりの激痛に耐えきれず幼いライが気を失うまで、何度でも。

 ああ、くそ。無表情のまま、ライは胸内で悪態をつく。せっかく綺麗さっぱり忘れて

いたのに、いらんことまで思い出してしまった。

ふっと息をもらしてライは再び器に酒をそそぐ。ほのかに甘いそれを一気に呷ると、

波立った心がいくらか静まるような気がした。

 忘れろ。もう昔のことだ。戯れ言にいちいち腹を立てても意味がない。こちらを

窺うように話し続けるバルドを一顧だにせず、今度はゆったりとしたペースでライは

酒杯を重ねる。

 まったく反応を返さない曾ての弟子の様子に、かすかに落胆の色を浮かべて。

バルドは諦めたように肩をすくめ、再びコノエとなにか話し始める。自分から関心が

逸れたことに安堵しながら、ふとまた視線を感じてライは酒器から顔をあげた。

 ――なんだ?

 てっきりとバルドとの雑談に興じていると思っていたコノエが、もの言いたげな

眼差しで自分を見つめている。目が合うと、ライを避けるように伏せてしまうけれど。

だが顔はバルドのほうを向いていても、此方を窺うような気配をわずかに感じる。

 常ならぬコノエの態度を訝しく思いながら、しかし途切れることのない二匹の長話に、

問いかける切欠が掴めない。そのうち酔いが回り始め、いつしかライの頭からは

コノエの視線のことはすっかり抜け落ちてしまった。







「バルドに悪気がないのは、わかってる」

 黙り込んだライを前にして。慎重に言葉を選びながら、コノエはぽつりぽつりと自分の

胸の内を呟く。ずっと秘めていた気持ちを。

 そう、バルドに悪意はない。彼がライを大切に思ってることは本当だし、心配もしてる。

けれどバルドがライに向ける感情は、いまでも複雑な色で混ざり合い、暗く澱んでいて。

けして、優しく綺麗なものばかりではない。強い光が濃い影を生み出すように、深い情も

過ぎれば容易く憎悪に姿を変える。彼自身が、そうと自覚していなくても。

 当のバルドは意図せずとも、彼が話題にする『昔』は郷愁よりも苦い記憶をライに

思い出させる。いわば美しい姿の下に無数の毒の棘もつ花のようなものだ。曾ての

弟子が嫌がることを知っていていながら、それでも彼はコノエに話すことを止めない。

バルドにとっては夢に見るほど懐かしい思い出でも、ライもそうだとは限らないのに。

 彼の口から溢れる刹羅での日々は、時に鋭利な刃となってライの古傷を容赦なく

抉りだす。コノエが初めて出会った――ライとバルドが再会した二年前よりは随分と

少なくなったけれど、愉しげに過去を持ち出すバルドの言葉は、未だ辛い記憶を

忘れられないライを苛み、じわじわと苦しめる。

 何も気づかなければ、コノエも流してしまったかもしれない。或いは、いつまでも

昔のことに拘って大人げないと、ライの頑なな態度を責めただろう。しかし幸か不幸か、

コノエにはリークスから受け継いだ感応力がある。自分が知りたいと思わなくても、

普段どんなに意識して遮断していても、時にライの感情に共鳴し、またバルドの

胸内が垣間見えてしまう。二匹が語りたがらない忌まわしい過去さえも。

 断片的にしか見えなかった以前とは比べものにならないほど強い力は、コノエが

望まずとも心の隅々まで見透かしてしまう。胸底に仕舞い込んで当の猫すら忘れ去った

深い闇を引き摺り出し、いま目の前で起きているかの如く鮮やかな幻影を作りあげ、

まざまざと見せつける。

 バルドの胸に息づく昏い闇を知り、それによって引き起こされた出来事を視てしまったら。

そのせいで、まだ仔猫といっていい時分から独りきりで生きざるを得なかったライの

苦労を知ってしまったら。とてもじゃないが「ほほえましい」なんて到底思えない。悪気が

ないからといって許されることではない、けして。

「ただ懐かしいだけなんだ。でも、バルドが喋る『昔』は良いものだけじゃない。ライが

思い出したくないことまで蒸し返して、触れられたくない部分まで踏み込むだろう? 

……それが嫌なんだ」

 ライは、もう仔猫じゃない。虚ろの蝕む祇沙を自らの知恵と力で生き抜いてきた、

立派な雄だ。いくら親代わりだといっても、いつまでも子供扱いして上から目線で

侮っていい謂われはない。

「ここは好きだけど、ライが不快な気持ちを我慢するくらいなら、野宿だってかまわない。

何処だっていいんだ、俺は」

 ――アンタと、一緒にいられるのなら。

せつないまでの想いを、琥珀のまなざしに、囁く声音に込めて。祈るようにコノエは

ライを見上げる。愛しい闘牙の答えを待つように。





 戸惑いがちに紡がれるコノエの告白を、ひとことも聞き漏らさず受け止めながら。

胸の奥から突き上げてくる熱い衝動に、つかのまライは目を瞑る。動揺を抑え、

いま心を満たす感情を見誤らないように。

 弾ける炎のように、噴き出す湧泉のように止めどなく溢れるこの熱の名を、自分は

もう知っている。歓喜だ。かつて感じたことのないほどの喜びが、津波のように体中を

駆け巡る。すこしでも気を抜けば、みっともないほど顔が緩んでしまいそうだ。あまりにも

幸せすぎて。

 初めて自分から欲しいと望み、ようやく手にした『生きた』ぬくもり。どんなに強く

抱きしめても、けしてライから逃げず、拒まず、消えることのないこの温かさに幾度も

救われた。自分と共に生きたいと、こうして側にいてくれるだけでいい。充分だと、そう

思っていた。

 ああ、けれど。一途に向けられる想いの、なんと甘く心地よいのだろう。まだ幼いが故に

雑じり気のない、純粋な愛しみに溢れた心が眩いほどの輝きを放ちながら流れ込み、

ライを満たしてゆく。

 誰よりもライがいとしくて、大切なのだ、と。

衒いもなくそう囁く心の声が、ライの胸内に優しく降りそそぐ。乾いた大地を潤す恵みの

雨のように。

 ――ああ、本当に自分は愛されているのだ。

 ライの独りよがりでも、コノエの勘違いでもなく。目には見えなくても、たしかに

繋がっている。こんなにも強く。

 感動にうち震えるそのいっぽうで、ライは自らの中で進むもう一つの変化にも気づく。

バルドの言動が、以前ほど癇に障らなくなってきたことを。再会したころは、あの雄の

すべてに怒りがわいた。声を聞くのも、視界に入れるのさえ厭わしかった。なにもかも

『なかったこと』にして接する傲慢さが、たまらなく憎かったのだ。

 たが、今となっては何も感じない。あの滾るような怒りはなんだったのかと、ライ自身

首を捻るほどに。いまだ無遠慮に過去へ踏み込んでくる無神経さにはうんざりするが、

それだけだ。誰の心にも闇があると知った現在は、バルドの過ちを愚かだと断罪する

ことはできない。完璧な猫など、いないのだから。誰でも、時には間違うこともある。

違うのは、その過ちを正せるかどうかだ。

 自分には、コノエがいた。もう戻れないところまできていたライを、命がけで引き留めて、

闇から掬い上げてくれた。共に戦い、共に生きると約束してくれたから、自分はここに

いる。唯一と決めた賛牙の前に。



「この――馬鹿猫」

 どんなに抑えても溢れてしまう愛しさを声に滲ませて、コノエを呼ぶ。伏せたままの

薄茶の耳を軽く甘咬みしながら、手繰り寄せるように細い体を抱きしめ、ライは密やかに

ささやいた。

「あいつの云うことは気にするな。……俺にとっては過ぎた昔のことだ。普段は思い出す

ことなどほとんどない、な」

 消してしまうこも、切り捨てることもできないけれど。

もう惑うことはない。いずれは思い出という闇に埋もれ、溶けていくモノ。いつかは

忘れ去るであろう、過去だ。

「おまえが気に病むことはない」

 きっぱりと言い切って、ライの整った唇がゆるやかに弧を描く。

戻らない時に未練はない。望むのは、この腕にある現在と、二匹で紡いでゆく未来だけ。

それを守る為なら、どんなことでもする。




 そう強く誓った瞬間、自らの中で長く引き摺り続けてきたひとつの時代が終わったことを、

かそけき終焉の響きを、ライは確かに聞いた。




 幼年期の終わりを告げる、その音を。