■harmonieux
市の軒先で最後まで粘っていた客の相手を終えると、トキノはほっと息をついた。
客の波が捌けてしまった昼間の市場はやや閑散としていて、店を構える商売猫たちの
姿もまばらだ。みな遅い昼飯を食べに出たり、夕方の混雑にむけて品物を仕入れに
出たりと、各自おもいおもいに過ごしている。
トキノも軒に『準備中』の札を掲げると、鞄の中から昼食用に携帯した木の実を取り
出して膝の上にひろげた。
包みをあけた途端、甘酸っぱい匂いがふわりと薫り、鼻腔を優しく擽る。よく熟れた
果実の芳香に鼻と耳をひくひくと動かし、つやつやとした木の実の表面にトキノが牙を
立てようとした、まさにその瞬間。
「トキノーッ!」
「……んぐっ」
突然大声で名前を呼ばれたせいで、つるんと手が滑りトキノは自分の舌を噛んで
しまう。舌の根から脳天を突き抜ける激痛に、涙目になりながら顔をあげれば。通りの
向こうのほうから駆けてくる親友の姿をみとめ、軽く目を瞠った。
「コノエッ」
「トキノ、久しぶり!」
慌てて店の前に出たトキノに、走ってきたコノエが勢いよく飛びつく。少しだけ背の
伸びたその体をなんとか受け止めたトキノは、くるくると喉を鳴らして額を擦りつける
友をまじまじと見つめた。
「ホントにコノエだ……いつ藍閃に戻ったの?」
「ついさっき。今日は市の立つ日だって聞いたから、トキノがいるかと思って――」
「この、馬鹿猫ッ」
子供のようにはしゃいでまくしたてるコノエの背後から、突然氷刃のように冷たい叱責が
振り下ろされる。凄みのある声に二匹ともびくっと全身を強張らせ、示し合わせたように
恐る恐る声の主を見上げた。店の前で怒気を滾らせて仁王立ちする、一匹の銀色の雄を。
「あれほど一匹で先走るなと言っただろう。お前のその耳と頭は飾りか、この馬鹿猫が」
立派な尻尾を苛々と揺らしてコノエのつがい――ライが尊大に顎をそらす。ぞっとする
ような光をたたえた青い隻眼に貫かれ、喜色を示していた鉤尻尾が見る間にへたりと
萎んだ。
「う、だ、だって、トキノに会うのは一年ぶりだし……」
「そうやって浮かれて周囲が見えなくなったあげく、いつもいつも厄介事に巻き込まれる
のはどこのどいつだ? 少しは成長しろ」
弱々しいコノエの反論をライは理路整然とした口調でぴしゃりと打ちすえる。しゅんと
目に見えて落ち込む親友と、そのつがいに挟まれたトキノはとうしていいのかわからず、
オロオロと狼狽えた。
「あの……」
「まあ、久しぶりではしゃぎたいのもわかる。こいつと積もる話をしたいなら、さっさと
補充を済ませてこい」
なんとか助け船を出そうとトキノが口を開きかけた矢先、先ほどとはうって変わった
穏やかな声音でライがコノエを促す。その言葉にパッと顔を輝かせ、こくこくと頷いた
コノエは「ちょっと待ってて」と言い置いて近くの店に走っていった。
堅苦しい空気がすうと消えて、ほっとしたのも束の間。強面のライと残されたトキノは
別の意味で青くなる。
村を飛び出したコノエの保護者として知り合って数年経つが、ライと二匹きりになるのは
これが初めてだ。いつも親友を通していたから会話もなんとか成立していたけれど、いざ
こうなってみると気まずい。
このまま黙ってコノエが戻るのを待つのは、辛い。なにか話題はないだろうか。乾いた
笑顔の下で、トキノは真剣に考える。話のきっかけ……と言えば、やはりコノエのこと
だろうか。そもそもライのことは、凄腕の賞金稼ぎということしか知らないし。
ぐるぐると思案しながら、とりあえずトキノは口をひらいた。
「あの、その……コノエ、すごく明るくなりましたよね」
「――年相応の落ち着きがない、の間違いじゃないか」
「え、あ、は、はは」
冷静なライの切り返しに、一瞬息を詰まらせたトキノは引きつった笑顔で誤魔化す。
これはかなり手強い。まあ、商売猫の話術に簡単にのってくるようでは、荒くれ者だらけの
賞金稼ぎの世界で生き残るの難しいだろうが。
「で、でもッ、火楼にいたころはもっと……こう、なんていうかピリピリした感じだったんです。
自分以外、誰も信じてないような感じで」
再び途切れた会話の糸口を繋ごうとして、トキノは以前のコノエの様子を話す。自分の
知らない頃のつがいの様子に興味がひかれたのか、薄青の瞳を僅かに見開いてライは
トキノの声に耳を傾けた。
「俺、ときどき刀匠に頼まれて行商のついでに武器を届けたりするんです。それで、ある時
その刀匠の猫が『本当に良い剣は鞘に収まってる』って言ってて」
俺、そのときはよくわからなかったけど、と前置きして。トキノは思いついたことを口に
乗せる。
「今なら、なんとなく理解できるような気がするんです。研ぎたての刃物みたいだった
コノエが変わったのって、ライさんと出逢ったからですよね」
蕾が花開くように強く、綺麗になった親友。固い蛹のようだった彼を羽化させたのは、
まぎれもなくこの白銀の猫だ。それは間違いない。
揺るぎない確信を持ってトキノは断言した。
「ライさんがコノエの鞘なんですね、きっと」
「本当に良い剣は鞘に収まってる、か」
「ライ?」
市から宿へと向かう途次、珍しく並んで歩くライの呟きにピクンと耳を震わせ、コノエが
不思議そうに見上げる。絶対の信頼に彩られた無防備なその顔に、なんでもないと苦笑
しつつライは胸の中で先ほどのトキノの言葉を思い出していた。
コノエが変わったのはライと出会ったからだと、あの仔猫はえらく自信を持って告げた。
本当にそうだろうか。抱え込んでいた様々な不安が解消され、生来の気質が表に現れた
だけではないのか。
そう疑問を投げかける一方で、トキノの言うとおりだったらいいと強く思う。
コノエを変えられるのは、自分だけでいい。この寄る辺ない仔猫と共に生き、闘い、成長
するのはライだけの特権だ。
数年前の自分からはとても想像できない心境の変化に、まだ少し戸惑いながら。
けれど、そのうつろいすら嬉しいとライは思う。こんな感情、一匹でいた頃には知らな
かった。全部コノエが教えてくれたのだ。
「……鞘を手に入れたのは、むしろ俺のほうだな」
「ライ? なんか変だぞ、さっきから」
どうかしたのか、と。歩みを止めたコノエの、こぼれ落ちそうな琥珀の瞳が訝しげに
揺れる。二つ杖の童話に出てくる『太陽』のようなそれにたまらない愛しさを感じて、
ライはそっと身を屈め口づけた。
唯一と決めたつがいの存在を確かめるように、深く。