■幸せのカタチ
――この涙は、どこからくるのだろう
つがいの頬を濡らす雫を舌先で舐め取りながら、ライは思う。
乳離れのできない仔猫でもあるまいに、こいつは本当によく泣く。
たとえば、激昂した時。
胸が塞がれるほど哀しい時。
我を忘れる怒りに呑まれた時。
嬉しい時ですら、コノエは眦を潤ませる。涙は弱さの証だと、そう父猫に刷り込まれていた
ライは泣きながら笑うコノエを見て初めて知った。喜びもまた猫の心を震わせ、涙を生む
のだと。そこに善悪の区別などつけられないことも。
賛牙の能力とは別の、普通の猫にはない力を与えられたコノエの感情は炎のようだ。
一時たりとも同じ形を保っていられない。自身のものだけでなく他猫や、時には既に
この世にいない者たちの思念に感応して激しく揺らめく。燃えさかるその炎で、我が身を
焼き尽くしてしまうのではないのかと危ぶむほどに。
コノエもそのことは理解しているのだろう。最近は意識して感情を抑制するようになった。
未熟な仔猫とからかわれても以前のように牙を剥かず、冷ややかに睨みつけるか風の
ように受け流す。おまえとつがいになって急に大人びてきたな、と虎猫などは残念そうな
口調でひやかすが、そうじゃない。
心を鎧で覆わなければ、無遠慮に流れ込んでくる他者の感情に振り回されてしまうから。
己のものではないそれに意識を乗っ取られる恐怖から身を守る為、仕方なく閉じているのだ。
そうでなければ、あの好奇心旺盛な仔猫が自ら見えない檻に捕らわれるはずがない。
虚ろから解き放たれた世界は、こんなにも眩く鮮やかに咲き誇っているのに。
それでも、ライと二匹きりの時は安心できるのだろう。コノエも普段は固く結んだ心を
紐解いて、素のままで寄り添う。むしろ常に気を張りつめている反動からなのか、驚くほど
幼い表情を見せるのだ。ライが向ける想いは、けして自分を傷つけるものでないと知って
いるから。
ただ、今日は日が悪かった。ひさしぶりに宿屋に泊まり、清潔なベッドで穏やかな眠りに
入った心地よさから、コノエは無意識のうちにライの夢へ同調してしまった。同じ寝台で
肌を合わせて寝たのも、力の発現を促してしまったかもしれない。或いはライ自身も危険の
少ない町の宿で過ごす夜に、ほんの少し気が緩んでいたのだろう。
ライの見た夢――それは幼い頃の、ありふれた日常だった。
何がきっかけだったかは覚えていない。けれど粗相をして、それを見咎めた父に怒鳴られ、
詰られ、折檻された。剣を習うようになる前のライはまだ幼すぎて両親の異常性に
気づかず、他の子供たちと同じように駄々をこねて父の怒りを買うことが多かった。
『それでもお前は刹羅の猫か』
聞き慣れた、醜くひびわれた怒声が鼓膜を突き抜けて。
次の瞬間には、小さなライの身体が横に勢いよく跳ね飛ばされる。家具にぶつかって床に
倒れた背中に、容赦なく食い込む足。ときには鞘に収まったままの長剣で打ち据えられる
ことも、そう珍しくない。一度火がつくと父の癇癪はどうやっても収まらず、服に血が滲むか
ライが気絶するまでまで止むことはなかった。
小さな背が青黒く腫れあがり、皮膚が切り裂かれても。どんなに泣き叫んでも、誰も
助けてはくれない。母もただ見ているだけ。だからライは耐えるしかない。父の気が済み、
躾と称した凶行が終わるまで。
両親が死ぬまで幾度となく繰り返した馴染みの光景は、しかしコノエには刺激が
強すぎたらしい。切り裂くような悲鳴で夢から引き戻されたライが目を覚ますと、
暗がりのなか傍らで眠っていたはずのコノエが全身を震わせて泣いていた。幼さの残る
整った顔を、怒りと悲嘆に歪ませて。
「ご、ごめっ……ライ、俺、……ッ」
潤んだ琥珀の双眸から幾筋もの雫を滴らせ、戦慄く唇が謝罪の言葉を繰り返す。
それだけでライは察した。さきほどまで自分が夢見ていた過去を、意図せずコノエも
見てしまったことを。
「ごめん、ごめん、ライ……っ」
溢れる嗚咽を押し殺す姿が、あまりにも痛ましくて。泣きじゃくるコノエを宥める為、
ライはそっと手を伸ばす。だが逆にその手を掴まれたかと思うと、ものすごい力で
コノエの胸に抱き寄せられた。
「っ、おい」
「助けられなくて、ごめん」
狼狽えるライの頭上で囁かれた声に、白い耳がぴくりと震える。
「俺も側にいたのに……止められなかった。ライが、あんなに苦しんでいたのに」
深い悔恨の滲んだ、苦い呟き。はらはらと止めどなく落ちる滴とともに、途切れがちな
コノエの言葉がライの胸にじんわりと沁みてゆく。
泣いていたのは惨い情景に怯えたからでも、隠していた瑕に触れてしまった後悔でもなく。
頬にかかるこの涙は、これはライのために泣いているのか。家の中で誰にも頼れず、
子供らしい感情すら殺さなければ存在を許されなかった、幼い自分の為に。
く、とライの喉奥から熱いものがこみあげる。瞼が、眦が小刻みに震え、熱を持つ。
だめだ。自制が効かない。様々な思いが、たった一つの受け口――コノエにむかって
溢れてしまう。
泣きたいような切ない感情で満たされ、ライは暫し目を瞑る。
ずっと昔、他の仔猫のように抱きしめてほしかった。
いらない子供ではないと、自分を否定しないでくれる相手が。いいつけを上手くできなくても、
それで泣いても怒らずに慰めてくれる相手が欲しかった。一時期似たようなことを言う
猫はいたが、彼はどちらかといえばライよりも両親を庇うような響きのほうが強かった。
厳しいがお前の為にしていることなんだ、だから恨むんじゃないと。
唯一自分には優しいと思っていたはずの猫の、その言葉を聞いた瞬間、幼かったライは
悟った。やはり弱いのは悪いことなのだ。弱いまま、ありのままの自分を無条件で
受け入れてくれるなんて、そんな都合の良い存在や楽な居場所はない。父が望むような
『刹羅の猫』でなければ、自分に価値はないのだ。
けれど、目の前の猫はそんな無価値だった頃のライの為に泣いて。
あのころ欲しくて仕方なかった、優しい言葉を紡ぐ。ただ、ライにむけて。いまだ癒せぬ傷を
そっと覆い、痕を埋めるように。
「コノエ」
掠れた声で名を呼び、ライは自分を戒める腕をゆっくりと外す。
離れゆく温もりを少し惜しく思いながら見上げたつがいの顔は、まだ悲しみで濡れていた
から。音もなく零れるそれに吸い寄せられたライは舌先で舐める。赤く泣き腫らした頬から、
潤んだ眦、瞼と口付けては溢れる涙を舌で拭い、吸う。
「泣くな」
もう大丈夫だから。いまはお前がいるから、痛くはない。苦しくもない。だから泣かないで
くれ。うまく伝えられない言葉のかわりに、抱きしめることでライは自分の気持ちをコノエに
注ぐ。
深すぎる悲しみは、それだけで大きな負荷になる。コノエの精神を蝕み、下手をすれば
寿命を削りかねない。早く止めて、ゆっくり眠らせなければ。ああ、けれど。
やわらかな頬を伝う涙をすべて受け止めながら、ライは密やかに思う。
――けれど、俺のために流されるそれは他のなによりも美しい、と