■叶うのならずっとずっと


 我ながら、過保護だという自覚はある。それがコノエの為にならないという罪悪感も。

だが自らのつがいに関することだけは、一歩たりとも譲る気などライにはなかった。


 賞金稼ぎで身を立てようというなら、柄の悪い場所――酒場や賭場での情報収集は

ほぼ必須と言ってもいい。あらゆる職種の猫が集まるうえ、まわった酒で口が普段よりも

ずっとなめらかになるからだ。斡旋所の情報は正確ではあるが、確実性を求めるあまり

どうしても古いことが多く後手に回ることもままある。一刻を争うような獲物相手の場合、

真偽のほどは怪しくても生きた情報に勝る切り札はない。それで成果が左右されることも

少なくはなかった。

 だから、この世界で生きていくのなら嫌でもそういう場所に慣れなければ到底やって

いけない。損得の計算や駆け引き、得た情報の取捨選択は経験を積まなければ身に

付かないのだから。それはライ自身が一番よく理解している。だが、嫌なものは嫌なのだ。

コノエを酒場へ連れて行くことは。





 宿での居残りを言いつけた途端、琥珀の双眸が大きく瞬いた。

『なんで俺は駄目なんだよ』

 ぷぅっと頬をふくらませたコノエが恨めしげにライを睨む。

普段から仔猫扱いするなと怒るくせに、仕草はいつまでたっても幼さが抜けず、妙に

愛らしい。おまえがそんなだから心配で連れて行けないのだという本音を喉奥で飲み込み

顰めっ面のままライはきっぱりと言い切った。

『この前無理やりついてきて、酒場に入って数秒で絡まれたのをもう忘れたのか、

この馬鹿猫』

『うっ……』

 唸るコノエに口を挟む余裕すら与えず、低く硬質な声音で一息にたたみ掛ける。

『それでなくても、おまえは考えてることを顔に出しすぎる。そんなことで情報屋と駆け引き

などできるものか。おとなしく留守番していろ』

『ッ、なんだよ! ライの馬鹿っ』

 反論の隙などひとつもない物言いに打ち負かされて、とうとうコノエが癇癪を爆発させる。

手慰みに弄っていた枕をライに投げつけると、仔猫は全身の毛を逆立てたまま頭から

毛布を被ってふて寝してしまった。






 宿を出る前の遣り取りを思い出したせいか、固く引き結んだライの唇から溜息が零れる。

コノエとの口喧嘩など日常茶飯事だが、今回は自分のほうが分が悪いだけに気が重い。

聞き込みを終え、宿へと戻る足取りも自然と遅くなってしまう。

 機嫌直しに買った土産のクィムで誤魔化されてくれればいいが、最近は知恵がついて

きたのかこの手もだんだん効かなくなってきた。成長するのも善し悪しだ。

 ライとて自分の行動が正しいとは思ってない。本当にコノエのことを思い、また唯一の

つがいとして共に生きるのならば、様々な経験を積ませなければならないことは理解

している。何も出来ない仔猫のままにしておくのはライの傲慢でしかない。

 それでも、敢えて意図的に遠ざけてしまうのは愛しさと――その奥に隠れた嫉妬の

せいだ。ああそうだ。認めてしまおう。コノエの世界が広がることをライは望んでいない。

狭量だという自覚はあっても、自分以外の者がその内に入ることが我慢ならないのだ。

できることなら今のままで時が止まればいいと思うほどに。

 時間を留め置くことなど、ただの猫の身にできるはずもない。

けれどもし叶うのならば、コノエが心身ともに自立し成猫になるのを少しでも引き

延ばしたい。唯一の存在に無条件で頼られる心地よさを手放したくないのだ。その思考が

醜く歪んだものだとしても。

 せめてつがいの賞金稼ぎとして名が通り、ライからコノエを掠め取ろうなどという愚挙を

実行する者がいなくなるまで。どうやっても二匹の間に割り込むことは不可能だと、そう

周囲に認知させるまでは自分の掌に秘めておきたい。子供じみてはいるけれど、それが

ライの偽らざる本心だ。もちろん一言だってコノエに告げる気はないけれど。
 
 

 上の空で歩いていたにもかかわらず迷うことなく辿り着いた今夜の宿を前にして、

ライはばさりと尻尾を揺らす。躊躇いが、建物に入ろうとする身体を引き留める。だが

顔を合わせるのが気まずいからと、ここまできて引き返すわけにもいかない。それに

置いてけぼりにしたコノエのことも気になる。

 まだむくれているだろうか。言い争ってから、さほど時間も経ってない。熱しやすく

冷めやすい性格だが、こんな短い合間では怒りは収まっていないだろう。たぶん今晩

一晩は続くであろうコノエの『口きかない』攻撃にげんなりしながら、ライは宿の

カウンターを素通りして階段を上る。

 どうせなら昼寝でもしてくれてると入りやすいんだが――などと、珍しく弱気なことを

頭の隅で願いつつ覚悟を決め、部屋の扉を開けた。

「……」

 薄青の隻眼が虚をつかれたように大きく見開く。

ライの懊悩とは裏腹に、開け放たれた窓から差し込む日に照らされた室内には誰も

いなかった。コノエがふて寝していた寝台も、流水のような皺だけが残るのみで。肝心の

仔猫は、鉤尻尾どころか影も形もない。蛻の殻だ。

 すっ、と。血の気のひいたライの中で、思考がぐるぐると暴走を始める。

 まさか、あれほどきつく言いつけておいたにもかかわらず外に出たのか、あの馬鹿猫は。

知り合いなど一匹もいない、ついでにいうなら初めて訪れた街に。猫にあるまじき極度の

方向音痴で、呆れるほど世間知らずで、目を離すと厄介事ばかり呼び寄せるくせに。

 怒りのあまり、瞬時に氷点下まで急降下した感情に押し流されそうになったライを、

ひとすじの糸ほどの理性が辛うじて繋ぎ止める。とにかく落ち着け。部屋から無くなって

いる物がわかれば、どこにいったかも或る程度予測がつく。春といっても、まだ外はさほど

温んではいない。遠出するつもりなら外套や武器を持って行ってるはず。逸る気持ちを

抑えつつライは視線を素早く部屋中に走らせる。

 コノエの装備は脱いだ状態のまま寝台の横に転がっていた。荷袋もある。外套も扉に

掛けられたままだ。まだ汚れも落としていない長靴は脱ぎっぱなしで、ろくに揃えてもいない。

 この様子ならたぶん宿からは出ていないようだ。裸足で出歩ける場所など限られている。

厠か、なにか食べ物を貰いに食堂へ行っているのかもしれない。どこから探そうかと

思案するライの鼻腔を、ふと嗅ぎ慣れた匂いが掠めた。

 甘い果実によく似た、コノエの体臭。それが寝台から開きっぱなしの窓へ細々と続いて

いる。大股で部屋を横切り、今にも消えそうな残り香を辿ってライは木枠を掴んで窓の

外へと身を乗り出した。

 下から吹き上げる強い風にもかまわず、コノエの匂いを追う。

もうほとんど霧散しかけてはいたが、外壁から屋根へと伝っていった跡があった。

なぜ屋上に? いったい何の用があってコノエはここをよじ登ったのか。不審に

思いながらもライはコノエの後に続いて壁を這い上がり――目に飛び込んできた

光景に、おもいっきり脱力した。

「……この、馬鹿猫ッ」

 怒りを滲ませて唸るライの気も知らず、見つけたコノエはすやすやと寝息をたてて

丸まっている。時折びくりと耳と尻尾を震わせ、こてんと寝返りをうつ小柄な体の下に

敷いてあるのは、野宿の時に使う携帯用の毛布だ。荷袋の中まで確かめなかったから

気づかなかったけれど、こんなものまで持ち込んでいるということは初めから此処で

昼寝するつもりだったのだろう。

 もしかして浚われたのか、とか商売敵に襲われたんじゃないのか、とか。本気で心配した

自分が無性に阿呆らしくなって、崩れるように膝をつきライはしゃがみ込む。その拍子に

長い銀糸の一房がふわりと風で揺れ、惰眠を貪る仔猫の頬を掠めた。

「んっ」

 肌を擽るそれに揺り起こされたコノエの睫が微かに震えて、琥珀の双眸がゆっくりと

瞬く。

「ライ……?」

 ぼんやりと宙を見上げた瞳が、ライを捉える。

喧嘩したことを思い出してつい身構えたライとは対照的に、ふにゃりと表情を崩して

コノエは手を伸ばした。

「おかえり」

 差し出された腕が、絡めとるように逞しい長身へと巻きついて。コノエはすりすりと

ライの肩口に頬を擦りつけ、甘く蕩けるような声で囁く。

 あれほど癇癪を起こしていたのが嘘のように機嫌がいい。くるくると可愛らしく喉を

鳴らして、全身でライに甘えてくる。まるで何事もなかったかのように。

 おかしい、これはどう見ても

 ――寝ぼけてる

それはもう、完璧に。呆れて声も出ないライを抱きしめたまま、いまだ夢見がちな仔猫は

その存在を確かめるように鼻先を厚い胸板に押しつけ、くんくんと忙しなく動かす。ひとしきり

嗅ぎまくり、つがいの匂いと体温に安心したのだろう、やがて小さな寝息を洩らしながら

微睡みの海に沈んでいった。

「この、馬鹿猫が」

 斜めに傾斜のついた屋根の上、がっちりと首を羽交い締めにされて四つん這いという、

不安定かつ苦しい体勢に眉を寄せつつライは舌打ちする。引きはがそうと手を掛けるが、

巻きつく腕は細いわりに存外力強く、なかなかはずれない。無理に力を入れると、均衡が

崩れてコノエ共々下に転げ落ちてしまいそうだ。

 とうとう外すことを諦めたライはコノエの腰に腕を回し、抱き込むようにして敷布の上に

身を横たえる。仕事の情報を手に入れた以上、今日はもう出掛ける用事もない。夕飯の

時間までは暇だ。だから、たまにはこの馬鹿猫の昼寝につきあってやろう。もちろんコノエが

目を覚ましたら、言いつけを破ったお仕置きは既に決定事項だが。 

 ――こいつが起きたら

さて、どうしてやろう。とりあえず今夜は寝かせずに啼かせ続けてみようか。それともどこまで

我慢できるか試してみるか。そんなことを考えながら、ライは片肘をついてゆっくりと傾いてゆく

陽の月を静かに眺めた。