とける意識で聞いた言葉
俺のつがいは、意地が悪い。
それはもう、初めて出逢った時からわかってる。問答無用でいきなり襲いかかってきた
ことを夜盗みたいだと詰ったら、それがどうしたと鼻で笑われた。他にも数え上げれば
多すぎてキリがない。なんでそんなのとつがいになったのか、と問われると自分でも
悩んでしまうが――たぶん、惚れた弱みというやつだ、うん。
あと付け加えると、けっこう短気だ。常に不機嫌な表情で誤魔化しているけれど、
好き嫌いも激しい。関心のないことには寛容というか見向きもしないが、自分の領域に
すこしでも入る事柄は絶対に譲らない。もちろん仕事中に個猫的感情て突っ走るなんて
ことは絶対しないけど。
つまりはワガママなんだよな。それにすごく強情っぱりで、とんでもなく負けず嫌い。
付き合いの薄い猫相手なら誤魔化せるけれど、昔からライを知っているような猫には
バレバレだ。
そう、たとえば――
草木も眠る夜半の、宿の食堂で。いくつもの空の酒樽に囲まれてコノエは深々と
ため息をついた。
「は、……俺の、勝ちだな」
卓からよろよろと起ち上がったバルドが、高らかに――呂律が微妙にあやしいが――
告げる。それに異を唱える声はない。唱えたくても、したたかに酔い潰れて意識さえない
のだから。
喧嘩の切欠は、いつものこと。新年の祝いの料理だと出されたものにまったく手を
つけないライを、バルドがちくりちくりと弄りだして。仔猫の時分のことまで持ち出す彼に
切れたライがバルドの口車に乗り、「おとなの証明」――酒の飲み比べを始めてしまった
のだ。コノエが止めるのも聞かずに。
小さい頃なんて、誰だって恥ずかしい過去の一つや二つは持ってるものだ。
絶対に話す気はないが、コノエにだって方向音痴以上に知られたくない秘密がある。
バルドもこうしてライを弄って遊んでいるけれど、刹羅に戻れば同じようにからかわれる
ネタを山ほど持ってるはずだ。『シェリル』ちゃんなんて呼ばれていた猫に、隠したい
過去がないとはいわせない。
だいたい、やたらと昔を懐かしむのは年のいった猫の手慰みみたいなもの。
適当に聞き流せばいいのにとコノエは思うが、弄られる当猫にとっては我慢ならないの
だろう。まあ、その気持ちは理解できなくもない。コノエも鉤尻尾のことを話題にされたら、
平静でいられる自信はない。
それにしてもライも大概馬鹿猫だ。あのバルドが正々堂々勝負なんてするわけないじゃ
ないか。案の定、ライ側の酒樽には純度の高いマタタビ酒がいくつも紛れ込んでいた。
同じくらいの酒量を呑んでいても度数が違うのだから、酔いの回りも当然ながらライの
ほうが圧倒的に早い。随分頑張ってはいたものの、三つ目の酒樽が空になるころ
突然糸が切れた猫形のように卓に突っ伏してしまった。
「ラーイ、ライちゃーん……だめだ、こりゃ」
バルドが大声で呼びかけ肩を揺するが、いっこうにライが起きる気配はない。
完全につぶれている。しかたねぇな、とにやついた顔で触れようとしたバルドの手を、
静かな声が制した。
「いい、俺がつれてく」
伸ばされたバルドの手をさりげなく払いのけたコノエは、突っ伏したライを抱き起こして
肩に手を回す。大丈夫かと危ぶむバルドに平気だと返して、巨躯を引きずるようにして
食堂を後にした。
酔っぱらいを運ぶなんて重労働、本当はコノエだって気は進まない。しかも相手は
自分より一回りはでかい大型種で、それを抱えて階段を昇らなきゃならないのかと思うと
うんざりだ。けれどこのまま放置して自分だけ部屋に戻るのも気が引けるし、バルドの
ちょっかいのネタを増やすのはコノエとしてもなんとなく気分が悪い。
悪い猫ではないのだが、彼はことライに関しては妙にしつこいところがある。いくら
親代わりといっても、自立して縄張りを持つ年頃の成猫になれば、肉親の間でもある程度
距離をおくのが普通だ。けれど絶縁していた時期が長かった為か、バルドの中では
ライは仔猫のままで止まっているらしく、昔の調子でなにかにつけては絡み、無遠慮に
境界線を踏み越えてしまう。
彼のそういう部分が(過去のいきさつは仕方なかったと割り切れても)未だにライに
頑なな態度を取らせていると、バルドははたして気づいているのだろうか。二匹の間に
入って板挟みになることの多いコノエとしては、少しは自重してほしいところなのだが。
たぶん無理だろうな、と思う。一度零れた水がもとに戻ることはないように、違えて
しまった道がひとつになることはない。既にライが雄としても闘牙としても藍閃で名が
通るほど成功し、先達として教えることが何もなくなった以上、こういう形でしか彼は
関わる術を持たないのだ。あの不幸な出来事がなければ、もうすこし違った関係を
築けたかもしれないけれど。
これからも付き合いを続けるつもりならばライが譲歩するしかないだろう。――いや、
バルドにからかわれても問答無用で剣を抜かなくなっただけ、大した進歩だ。以前なら、
絶対、確実に斬りかかっていたはず。そう考えると、ライもすいぶん角が取れて丸く
なったと思う。
「っと」
蹌踉けながらもなんとか階段を上り、あてがわれた部屋へと戻る。
綺麗に整えられた寝台にライを転がして、コノエは自分の装備を解き始めた。
あらかたを外して軽装になると、今度は倒れ込んだままのライのぶんを解く。
コノエのものより重いそれは戒めるベルトも複雑で、なかなかうまくいかない。時間を
かけているうちに目が覚めたのだろうか、ライの瞼がぴくりと動いた。
「……うっ」
「ライ? 起きたのか」
気配に気づいて顔を覗き込めば、貴石のような蒼い隻眼がゆっくりと瞬く。ひく、と
ライの喉が引きつるのを感じ、コノエは慌てて水瓶から器に水を注ぎ入れた。酒を
飲んだ後は、喉がひどく渇く。強い酒は特にその傾向が強いことを思い出したのだ。
「水、汲んできたけど、起きあがれるか?」
窺うように小声で訊ねると、ライがゆっくりと上半身を持ち上げる。シーツに肘をついて
起きあがった彼の口元に器を寄せ、薄くひらいた唇に少しずつ中身を注ぎ込む。
「大丈夫か」
反応の少なさに、ふと不安にかられてコノエはライの額に触れる。
目覚めたばかりの彼の眼は赤く濁ったままで、いつもの毅然とした雰囲気がない。
まだ酒が残っているのだろうか。そんな粗悪な代物は混じってなかったはずなのに――と、
案じるコノエの肩に、不意にとんと重みのあるものが落ちた。
「ライ、……アンタ、本当に大丈夫か?」
寄り掛かる体を支えようとコノエの手がライの肩にかかる。
すぐさまそれを掴まれ、あっという間もなくコノエは広い胸元に抱き寄せられた。
「コノエ」
うっとりするような美しい声が、自分を呼ぶ。耳を掠める熱い吐息が、間近に迫る
端正な顔がコノエの胸を波立たせる。
もう何年も一緒にいるのに、こうしてライに見つめられるとひどく落ち着かない。
尻尾の付け根あたりがむずむずとして、なんとなく恥ずかしい。あの蒼い瞳にすべてを
見透かされているような気分になって、頬が勝手に火照ってしまう。
わけもなく狼狽え、硬直するコノエをじっと見下ろしたまま、どこか虚ろな様子でライの
唇が動いた。
「おまえは、俺といて幸せか?」
ぽつりともらされた言葉が咄嗟に理解できなくて、けれど数秒遅れて胸にとどいた瞬間
コノエは目を瞠り、上擦った声をあげた。
「な、なんで急に、そんなこと」
いきなりそんなことを問われても、なんと応えればよいのかわからない。もごもごと
呟いて俯こうとするコノエの頬を両手で挟み、ライは更に顔を寄せて囁いた。
「……俺は、おまえが望む時に欲しい言葉を与えてやれるほど器用じゃない。寧ろ、
いつも足りなくて傷つけてばかりだ」
「……」
低い声に滲む、後悔の色。自嘲するような苦い響きが、コノエの心を締めつける。
それは、つがいになる前の――暗冬の時のことを言っているのだろうか。
出会ったばかりの頃は、それこそ毎日のように衝突していた。
ずっと一匹だったから、自分とは違う存在との距離の取り方がわからなくて、コノエは
ライの言葉に傷つき、ライはコノエに気持ちが伝わらず苛立っていた。相手を愛しいと
思う気持ちよりも、思いの通じない苦しさを先に知ってしまったから、よく見えていなかった
のだ。二匹の間に絆が生まれ、自覚するよりももっと前から結びついていたことに。
「大事にしたい。それは本当だ。おまえが俺にぬくもりを与えてくれたように、俺もおまえを
幸せにしたい。でも、どうすればいいのか今もわからない。俺は、おまえを――」
ただ困らせ、苦しめているだけじゃないのか。
鋭さの消えた隻眼が頼りなげに揺らめいて、コノエを映す。
まだ酔いが残っているからこそ聞くことのできる、ライの想い。せつなくなるほど純粋で
偽りのない感情がとめどなく流れ込み、コノエのなかを熱く満たしてゆく。
つきん、と鼻の奥に痛みを感じて。コノエは顔を歪める。
胸が疼いて、苦しい。眦が熱い。魂が震えるというのは、こういうことなのか。言葉に
ならない想いが、堰を切ったように溢れ出す。
「ばか」
こみあげるものを抑えきれず、泣き笑いの表情でそう呟いて、コノエはライに口づける。
啄むように何度も唇を重ね、白い首筋に額を擦り寄せ、くるると喉を鳴らす。
「アンタ以上に、俺を幸せにできる猫はいないよ」
頬に添えられた大きな手に指を絡めて、花が綻ぶようにコノエは微笑む。
どんな時でも側にいてくれた、唯一の存在。コノエの罪も弱さも、ありのまま受け止めて
くれるライがいるから、自分はいまここに居る。ライが必要としてくれるから、生きていたいと
思う。
だから、彼にも知って欲しい。コノエにとって一番大切で、かけがえのない存在なのだと。
すこしは伝わったのだろうか。かすかに息をのむ気配がして、やがて吐息とともに
低いささやきが零れた。
「……俺を幸せにできるのも、おまえだけだ」
「うん……知ってる」
そう応えると、生意気だなと楽しげに笑う声が耳を掠め、すぐにライの唇が重なる。
いつもより少しだけ熱いそれを、コノエは目蓋を閉じて受け入れた。睡魔に負けたライが
夢の世界に落ちてゆくまで。
安らかな寝息を聞きながら、コノエは目先で揺れる白い耳にそっと舌を這わす。
本当はもう眠ってしまいたいけれど、ライに毛繕いできる機会なんて滅多にない。だから
重くなる瞼と微妙な攻防をしつつ、小さくて可愛らしいそれを唇で挟み、舌先で撫でる。
明日目覚めたら、きっとライはすべて忘れているだろう。でも、それでもいい。
ライの気持ちはちゃんと届いたし、自分の気持ちも伝わったと思うから。
このうえもなく幸せな気分にひたりながら、コノエもまた夢の中に身を委ねる。
自分でも気づかぬうちに、新しい歌――母親に抱かれているような、深い安らぎに
満ちた歌でライを包み込んだまま。