白い月


 

『大事な人が、いたんだ───      

  俺を《友達》だって、云ってくれた奴。

  俺に本を読んでくれた、優しい人。   

  俺を抱き上げてくれた、強い人。     

   俺に手を差し伸べてくれた、暖かな人──。

  

  みんな、俺を《好き》って云ってくれた。

  《側にいるよ》って、約束してくれた。  

  すごく、すごく嬉しかった。         

  俺も、みんなが《好き》だった。      

 

  でも───誰も、思い出せない。      

  大好きだったのに、顔も声も名前すらも。

  何一つ、思い出せないんだ。         

 

 

  ワスレタクナンカ──ナカッタノニ。

 

 

 「…なんでかなぁ」

 ポツリと。

呟かれた言葉が、空気に溶ける。

 必要最低限の物しか置いてない、寝るためだけの小さな部屋で。

同室者の頼りなげな声に、悟浄は読みかけの雑誌から顔をあげた。

 

 連日の野宿から解放され、漸くたどり着いた町の草臥れた宿屋。

ベットと温かな食事に、ほんの一時間前までは煩いほどはしゃいでいたくせに。

 部屋を割り当てられ悟浄と一緒に戻ったとたん、悟空は奇妙な行動に出た。

窓側のベットに蹲って、空に浮かぶ満月をじっと見上げている。

 悟浄が今まで一度たって見たことがないような、せつない光を大きな双眸に宿して。

 その、あまりにも悟空らしくない──けれども心を鷲掴みにされる光景に、悟浄は

声を掛けることさえ出来ず。

 微かな苛立ちを感じながら、手近にあった雑誌に逃げた。其の姿を視界に入れない

ように。

 けれど、気取られぬ程度に意識を悟空に向けながら。

 

 「…んだよ、サル」

 漂う雰囲気が息苦しくて、悟浄はわざとからかうように呼びかける。

だがいつもなら『サルっていうなぁ〜!エロ河童っ!』と反応が返ってくるのに。

 悟浄の声も聞こえていないのか…悟空は背を向けたまま、膝を抱えていた。

 「どうしたってんだよ」

 立ち上がり、悟空のベットに近づく。

どっと勢いよく腰を下ろすと、悟浄の重みでスプリングが耳障りな悲鳴をあげた。

 いつまでも応えない悟空に苛ついて、悟浄は煙草を取り出し火を付ける。

 ジッと火が灯る音と、くもりはじめた紫煙に悟空は漸く悟浄に振り返った。

 「…俺さ、昔の記憶ないじゃん」

 「……あぁ……?」

 いきなり何を言い出すのだ、このお子様は。

あからさまに訝しがる悟浄の視線に、めげることなく悟空は続けた。

 「でもさ、この頃少しだけ思い出すことがあるんだ。」

 三蔵が死にそうになった時、とかさ。

悟空の言葉に、悟浄の眉宇が歪む。

 どんな記憶か知らないが、人が──それも父親がわりの奴が死にかけた時に

蘇るんじゃ、ロクでもない思い出なんじゃないのか。

 そう云いたいのをぐっと堪え、悟浄は聞き手に回った。

 「五行山に閉じ込められる前…、すっごく好きな人たちがいたんだ。」

 ほんのりと、小さな口元に笑みが浮かぶ。

よほど良い思い出なのか、悟空の表情は明るい。

 ちくりと。

ささやかな痛みが走ったのは、きっと悟浄の気のせいだろう。

 「俺、本当にその人たちのこと好きでさ──、本当に大事な人だったって覚えて

いるのに……それなのに……」

 大きな黄金の瞳が、悲しげに揺らぐ。

 「思い出せないんだ。それが大切なことだって、ちゃんと知ってるのに…俺にとって、

それが宝物だったって覚えてんのに───」

 消え入りそうな、悟空の声。

震える細い肩に、悟浄は悟空が泣いているような錯覚を感じ、思わずその顔を覗き

込んだ。

 悟空は、泣いてはいなかった。

けれど、幼い顔を彩るのは──人生に疲れた年老いた老女のような、深い絶望。

 まるで、『あの日』の自分の様な……。

 「なんでかなぁ…。忘れたくなんか、なかったのに。」

 「悟………」

 「俺、500年前に何したんだろう?」

 何げない悟空の呟き。

しかし感情を削ぎ落としたその声はあまりにも冷たく響いて、悟浄の背筋を不気味な

悪寒が這い上がる。

 「もし…──、俺がしでかした『大罪』ってーののせいで、記憶を奪われたんなら……」

 …やめろ。そんな風に考えるな。

そう叫びたいのに。それなのに悟浄の喉はからからに渇いて、持ち主の意志を無視して

動かない。

 遮ることを、初めから禁じられているように。

 「俺が犯した罪って何だったんだろう…。それも、思い出せないんだ───」

 胸に巣くう蟠りをぶちまけ、悟空は静かに息をつく。

聞き終えた悟浄も、我知らず嘆息していた。

 知らなかった。いや、気づかなかったと云うべきか。

悟空の抱える『闇』が、こんなに根深いものだとは。

 半ば冗談だと思っていた500年の重みを見せつけられ、悟浄は唇を噛み締める。

 気づけなかった自分が、無性に悔しい。

でもそれよりも、気になるのは───

 「…なんで、俺にそんなこと話すんだよ…」

 お前が縋りたい相手は、俺じゃないだろう。

お前を魂の牢獄から助け出した、金色の鬼畜生臭坊主のはずだ。

 差し伸べて欲しいのは、俺の手じゃないだろ。

喉元まで出かかった言葉を、辛うじて飲み込む。

 これ以上云ったら、自分が惨めなだけだ。

憮然と呟く悟浄に、やや間を置いて悟空は応えた。

 「…だって…こんなこと三蔵に話したら、『猿が余計な事考えるな』って殴られそうだし…」

 その答えに、悟浄はくすりと笑う。

三蔵なら、そう云うだろう。

心配なくせに、何処までも素直になれない奴だから。殴ることでしか自分の愛情を表現

出来ない、紫電の瞳の不器用なあいつは。

 「八戒に云ったら、きっとすごく心配する…と思う」

 ───わかってるじゃないか。

悟空を溺愛している八戒なら、きっと全身全霊かけて慰めようとするだろう。

 蜂蜜よりも甘い言葉を囁いて、悟空の不安も寂しさも全部搦め捕って溶かしてしまう。

 自分には、逆立ちしたって出来ない芸当だ。

だから、悟浄は不思議に思う。

 諸手をあげて慰めてくれる奴が二人もいるのに、何故自分のところに来るのだ。

…変な期待を持っちまうじゃないか。

 「悟浄なら……───」

 俺なら………?

なんだって云うのだ?

 「悟浄なら、聞き流してくれるじゃん。」

 俺が弱音吐いても、『馬鹿』って笑って済ましてくれるだろう?

 云って彼は微かにはにかむ。

 それを微笑ましく感じると同時に、あぁと悟浄は合点がいった。

 悟空は、慰めて欲しかったのでは無いのだ。

『全くその気持ちが無い』というわけではないだろう。

でも欲しかったのは、自分の心を整理する時間と心の闇に向き合う猶予。

 そして、静かにその過程を見守ってくれる相手で。

それが───悟浄。

 納得出来てしまうと、一抹の寂しさが悟浄の胸に広がる。期待通り、とは

いかなかった…けれど。

 それでも、自分に打ち明けてくれたことで良しとしよう、今は。望みがないってなわけ

でも、なさそうだし。

 素早く気持ちを切り替え、悟浄はにぃっと人の悪い笑みを浮かべる。

 さて、どうやってヘコんでるこの子猿を元気づけようか。

 …やっぱり、ご要望通りにいきますか。

 「悟浄…?」

 「ばぁーか。」

 短く告げて、デコピン一発。見事にヒット。

『痛っ…』と赤くなった所を撫でる悟空に、悟浄はきっぱりと断言した。

 「奪われたんなら、取り返しゃいいだろうが。」

 きょとんと、つぶらな瞳が悟浄を見上げる。

 「お前のモンなんだろ?だったら、取り返せよ。テメーの力でさ…。それまで──」

 ぐいっと小柄な身体を抱き寄せ、耳元に囁く。

ありったけの想いを、ふざけた口調で見えない様にコーティングして。

 「付き合ってやるよ。俺がさ」

 コイツが行くってんなら、何処まででも。なんだったら、天竺のそのまた先まで。

 行き着く先が天国だろうが地獄だろうが、そんなことはどうだっていいのだ。自分が

ついていきたいのだから。

 「…………うん」

 鈍感なりに、悟浄の想いを感じ取ったのか。

ほんのりと耳まで朱に染めて、悟空はこくんと頷いた。

 「悟浄──」

 「…ん?」

 「……ありがと」

 照れたように、悟空が笑う。

黄金の瞳は、まだ過去の闇を消しきれてはいない。

 まだぎこちない、笑顔だけれど。

でも、自分だけに向けられたのが嬉しくて。

 悟浄は応えるように笑い、そして───

柔らかな頬に、掠めるように口づけた。

 


■あとがき■
すみません、遅くなりまして。
悟浄幸せ強化SS第一弾だったんですが、いかがもんでしょうか。
脳が夏コミ用のゲーム仕様になっていたので、今回はいつにもまして
辛かったです。だめっぷり全開ですね、私(T_T)。悟浄好きなんですけどね…
ついつい八戒さんのストレス発散の標的にしてしまいやすいので、いつも申し
訳なく思ってます。裏が出来たあかつきには必ず活躍していただきますので
今回はこれで許してください。


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