掌に触れる、仄かな温かさに。
夢の淵に微睡んでいた少年は、静かに目を開けた。
視界に広がるのは、時の滞った日常(いつも)と変わらぬ、岩の牢獄。彼の肉体と魂(こころ)を縛る場所。
三方を堅い岩盤で囲われた薄暗い岩牢に、残り一方───太い鉄格子の透き間から西日が差し込み、
内部をくっきりと浮かび上がらせている。
(……………なんだろ?)
格子で区切られた此処は、生命の営みからも外れた空間の筈なのに。どうして、自分以外の『生』を感じる
のだろう?
冷たい床に身を横たえたまま、少年は己の左手に視線をずらした。
(…………………あっ………)
飛び込んできたのは、鮮やかな翆色の色彩で。
小さな小鳥が、少年の掌中で気持ち良さげにくるまっていた。
肌に触れる熱量の正体に、金色の瞳が薄く細められる。
こうして《命あるモノ》に触れるのは、いったい何年ぶりだろうか。
『お前は大罪を犯した。──故に、時が巡るまで此処に封印する』
もう顔も覚えていない《誰か》にそう告げられ、鎖に繋がれて以来…彼は気の遠くなる歳月を、暗く冷たい
此の場所で重ねていた。
それでもはじめのうちは、いつか外に出られる日を信じて昇る朝陽を数えて過ごした。
『誰かが助けてくれる』──そうを信じて。
だがそれも、千を越える頃になるとすっかり頭から抜け落ちた。
自分の精神(ココロ)を護る為に。
そうしなければ、とうの昔に狂っていただろうから。
少年の変化に気づいたのか、掌の小鳥が首を傾げて見上げる。くるくるとしたつぶらな瞳がせわしなく動く
様は、あまりにも愛くるしく。
少年の顔に、もう忘れて久しいはずの笑みがひとりでに広がった。
そっと、身体を起こす。逃げ出してしまうかと不安になったが、小鳥は少年の掌が気に入ったのか羽根を
擦りつけたり嘴でつついたりして楽しげに戯れた。
束の間、凍りついていた心がふわりと暖かく温む。
ずっと…ずっと昔。
少年はいま掌にある命と同じ空間で生きていた。
生まれたての彼に、世界は限りない愛情を注いでくれた。 光も水も風も───命あるモノすべてが、少年に
優しかった。
なのに…何故。
何故、こんなにも変わってしまったのだろう。
ぽつり、と。落ちてきた冷たい雫に小鳥が顔を上げる。
いつの間にか、少年の双眸から幾筋もの涙が滲みだして。 それが氷雨のように小鳥の上にはらはらと散る。
その冷たさに驚いたのだろうか。
或いは、果てぬ哀しみに染まることを恐れたのか、小鳥はぷるぷると翼を震わせ、少年の手から勢いよく
飛び出した。
「あっ……っ!」
離れていく温もりに、封じられた記憶の扉が僅かに開く。
眼窩に甦るのは──霞みがかった過去の残滓。
光の中にたたずむ複数の影と、伸ばされた…けれどけっして届くことはない、己の手と。
『…────……』
飛び立つ小鳥に、誰を重ねたのか
少年は必死になって『誰か』の名を呼んだ。
(置いて行かないでっ…て…ちゃんっ…………っ!)
自分に文字を教えてくれた、春の日差しのような優しい瞳の青年を。
呼び声に、少年は本から視線を外した。
「…………?」
きょろきょろと辺りを見回す。
だが周囲を見ても、誰もいない。
この小さな図書室には、自分ただ一人だけだ。
気のせいだったのだろうか。けれど、それにしてはいやにはっきりと聞こえたのに。
自分を呼ぶ、狂おしいほど強い呼び声。
もしかして、と思う。
生き別れになった双子の姉だろうか。
そう考えて───少年は首をふる。
違う。女の子の声ではなかった。
むしろ、もっと幼くて頼りない──子供の、声。
ふっと自嘲の笑みが少年の口元に浮かぶ。
相手が誰であろうと、関係ないことだ。
他人を気にしている暇など、今の自分には無い。
少年は早く大人になって、この孤児院を出ていかねばならないのだから。
(今日を生きるので精一杯なのに…僕以外の瑣末な事に、拘ってる時間なんでない)
救いが欲しいのなら、他を当たれ。
心の中で『声』の主に冷たくそう告げると、少年は読みかけの本に翡翠の視線を落とした。
胸の片隅に不可思議な痛みを感じながら。
『──ちゃんっ!───ちゃんっ!!』
今はもう顔すら思い出せない…けれども大切な人を、少年は必死に呼ぶ。
記憶を制御されているから正確な名前を呼ぶことは出来ないけれど──それでも、少年は呼び続けた。
だが、聞こえるのは静かな沈黙。
誰も応えてくれない寂しさに、少年は別の名を叫んだ。
いつも頭を撫でてくれた、暖かな手の持ち主を。
(一人にしないでっ……ん兄ちゃんっ………っ!)
ふいに顔を上げた弟に、爾燕は訝しげに首を傾げた。
「?どうした、悟浄」
傷の手当を止めて、その幼い顔を覗き込む。
しかし彼の声が聞こえてないのか、悟浄はただ空を見つめるばかり。
だが、その目だけがいつもの弟とは違っていた。
先ほどまで、母──異母弟にとっては養母だが───から手酷い虐待を受け、死んだ魚のように濁っていた
筈のその瞳が急に輝きを取り戻し、忙しなく瞬く。
それはまるで、何かを探しているようで…。
目の前の異母兄すら目に入らない様子で、悟浄は『何か』を求めて視線を彷徨わせる。
幾度も辺りを振り返り──けれど、目当ての物がないことを知ると、悟浄はまた俯いた。
ひどく失望したような…そんな色を双眸に宿して。
「悟浄…………?」
「………………なんでもない。」
心配そうな爾燕の問いかけにも、悟浄は黙したまま答えようとしない。
こうなってしまった弟には、いくら問い詰めても無駄だ。絶対に口を割らない。
素早く判断すると、爾燕は再び包帯を巻き始めた。
己が腕に増える白い布をぼんやりと見つめながら、悟浄は先程閃くように聞こえたモノを思う。
(───今、誰かが呼んだみたいだったのに…)
あれは泣き声のようだった。それも自分よりずっと小さくて弱い……。
なぜだろう。義母に折檻され、殴られたところがジクジクと痛くて堪らなかったのに。
あの『声』が聞こえた瞬間、痛みを忘れた。
かわりに、胸が潰れるほどの切なさが悟浄の心臓を締め上げる。
喉の奥に小石がどんどん溜まって、息が苦しくて仕方がない。
あれは、確かに悟浄を呼んでいた。
とても哀しげな声で、一生懸命叫んでいた。
それが痛いほど分かるのに──なのに、あれが『誰』なのかが分からない。
何か──大切なことを自分は忘れている。
それが自分にとってとても大事だと心で知っているのに、『ソレ』がなんなのか思い出せない。
きり、と。きつく唇を噛み締める。
もどかしい気分を抱えて、悟浄は目を閉じた。
(…兄ちゃんっ…ケ…兄ちゃん…っ)
迸る思いのままに、少年は力の限り叫ぶ。
だがやはり応える声はない。諦めを促すかのような寂寥とした風の音が聞こえるだけだ。
溢れる涙を拭いもせず、少年は格子の透き間から手を伸ばし続ける。
いままさに沈みゆく、遥か彼方の太陽に……否。
あの太陽に、ではなく。
あれ以上の眩しさで少年を照らしてくれた、黄金の太陽にむかって。
魂の絶叫が空を貫いた。
『助けてっ……──んっ……っ!!』
「………うるせぇ」
ぽつりと、少年は呟いた。
先ほどから、煩いほど聞こえてくる幼い声。
いや、自分が物心ついたころからずっと纏わり付いていると云っても過言じゃない。
それが、少年の心をきりきりと締め付ける。
(なんなんだ、いったい………)
自分は捨て子で天涯孤独のはず。こんなふうに呼びかける相手などいるわけがない。
それにこんな幻聴に惑わされるほど、肉親の情に飢えているわけでもない。むしろ他人との係わりなどただ
一人を除いて嫌悪しか感じない。
ましてや、自分にだけしか聞こえない『声』など気味が悪い───その筈なのに。
時折聞こえてくるこの『声』を聞くと…何故か心がざわめくのだ。
自分は何かとても大事なことを忘れているのではないのか。
己の存在に係わるような、とても重要なことを。
疑問は種となって少年の裡に埋もれ、それは芽を生やして彼の心を侵食していく。
なによりもどかしいのは『忘れている』ことはしっかりと覚えているのに、肝心のそれに関することが一切
思い出せないことだ。
思い出せないのなら、その程度の事柄だったのだと幾度か自分に言い聞かせてみたけれど。
けれど、胸の奥で燻る炎がそれを許さない。
思い出せない事が罪だとでも云うように、少年の心臓をじわじわと締め上げる。
何故、こんな思いを味わねばならない?
何故、自分はこんなにもあの『声』が気になる?
何故─────……
「紅流、どうかしたのですか?」
背後から掛けられた穏やかな声に少年はハッと振り返る。
養父であり師でもある人が、にこやかに微笑んでいた。
「なにか聞こえたのですか?」
柔らかな笑みを口に浮かべ光明は意味深な問いかけを養い子にかける。
わだかまる思いを話すべきか──ほんの一瞬迷うように紫電の双眸が揺れ、だが少年は首を振った。
「いえ、なんでもありません。お師匠様」
それだけ告げると、少年は目を伏せ再び箒を動かす。
耳にではなく、直接頭に響く『声』を振り切るように少年は竹箒の把を忙しなく動かした。
どれほど叫び続けていたのか。
誰も応えてはくれない現実に、少年はとうとう疲れ果て地面にうずくまった。
(なんで……みんな、いないの……?)
自分が、『罪』を犯したから?
だったら、どうしたら会えるのだろうか。
どうすれば、自分は彼等と会えるのだろう。
あいたいのに。
とても、あいたいのに。
一人はもう嫌だ。こんなに寂しくて苦しいのは、もう耐えられない。
どうしたらいい?どうしたら、『罪』を償える?
どうすれば、自由になれる………?
哀しみに覆われた幼い心に、果てのない闇が広がる。
その闇が、少年の耳元でそっと甘い毒を囁いた。
……──この命で贖えば。
罪を犯したというのなら、命をもって償えば罪は消えるかもしれない。
《死ぬ》ことは簡単だ。
少年は人とも妖とも違う。本来なら器など必要としない、大地の精霊なのだから。
もともと肉体に縛られた存在ではない。だから。
ただ願えばいい。仮初めの生の終焉を。
ただ一言、自分の存在を自分で否定しさえすれば全てが終わる。
孤独が躊躇う少年の心を押す。
乾いた唇が、ゆっくりと開き……──。
不意に、優しい風が頬を撫でた。
『………諦めるな』
低い囁きが少年の耳朶を掠める。
『おまえの《声》はあいつらに届いたから、いつか必ず逢える。
どれほど時間がかかっても、あいつらは必ずお前を見つけだす。
だから、もう泣くな。おまえは、一人じゃないんだ───』
繰り返し繰り返し、そう囁いて。
見えぬ手が、少年の涙を拭う。壊れ物を扱うような、優しい仕草で。
懐かしい、その温もり。
忘れられるはずがない、この暖かさは。
少年の、唯一の友。
(でもっ、───は?──には、会えないの…?)
『それは…───』
悲鳴のような少年の叫びに、《声》は躊躇する。
応えられない相手に、少年は必死に縋り付いた。
(そんなのやだ。──がいなきゃ…──に会えないなんて、やだよぉ………)
止まりかけた涙が再び溢れ、大きな黄金の双眸がまた熱く潤む。
《声》は途方に暮れたように、暫く黙り込んで。
幻の手で少年の髪を梳きながら、やがてためらいがちに言葉を紡いだ。
『…なら、いつかお前が自由になった時に俺の魂を探してくれ。この地上の何処かで
俺はお前を待っているから……ずっとずっとお前だけを呼び続けているから』
(おれが探すの?そしたら、また会える…?)
『ああ…お前なら、きっと俺を見つけられる』
(…わかった。おれ、ぜったい見つけだす)
『ああ…俺とお前と──…二人だけの約束だ』
(うん…約束)
漸く取りつけた言質に───否。
刻まれた神聖な誓いを胸に抱き締め、少年は表情を和らげる。
孤独は、今も少年の精神(ココロ)を苛み続けている。
けれども、それは永遠ではない。
どれほどかかっても、いつか終わる時が来るのなら。
信じてみようと思う。
いつの日か、この夜が明ける日を。
たとえ今がどれほど寒く、凍えそうであったとしても。
終わらぬ夜など、ないのだから……───
■あとがき■ |
蔵出し文その2です。最遊記を始めた頃に思いついたネタなのですが、その当時八空に異常に萌えていまして八戒さんに良い思いをさせようとない知恵を絞り…結局いいラストが思いつかなくてほっぽりだしておりました。当時は三空の「声が聞こえる」って設定が嫌いで、「絶対悟空は八戒や悟浄も呼んでたはずだ!ただ二人とも自分のことに精一杯で応える余裕がなかったんだ!!」と力説してましたねぇ…(遠い目)。いやぁ、バカ特出しで香ばしいですな。タイトルの『空』は遊佐未森のアルバムからの出典です。この歌詞の最後に『いつか貴方の心に届く日まで 歌っているよ こんなに澄んだ空続くようにと』というフレーズがあり、今回これをイメージしながら仕上げました。三人を想って歌う悟空と悟空を想って歌うナタクを思い浮かべていただけたら幸いです。 |