信
穏やかな日差しの昼下がり、というのは自然と人を緩ませる。 路傍の野良猫たちもまどろむ、うららかな午後。だが、そんななか約1名だけは周囲の緩んだ 空気にも脇目をふらず、一枚の紙を前にして懸命に知恵を絞っていた。 「うーんと……えと……」 いつになく真剣な表情で机に向かう悟空を見つけ、奇麗なお姉さんを漁るべく身支度を整えた 悟浄は出かけようとしていたのも忘れ、ひょいと覗き込んだ。 「なーにしてんだ、サル」 「……うわっ!」 息を吹きかけるように耳元で囁かれ、そわぞわと背筋を寒気が駆け上がる。まったく無防備な ところに不意打ちを食らい、悟空は素っ頓狂な声をあげ飛び上がった。 「っもうっ!変なことすんなよっエロ河童!」 「誰がエロ河童だよっこの馬鹿サルっ」 顔を真っ赤に染めて怒る姿に内心鼻血を噴きそうなくらい魅了されながら、表面は努めて 不機嫌を取り繕い、悟浄はごくさりげなく少年の体を羽交い締めにした。 途端に後方八時の方向から、体感温度にして10度は急降下した空気と、殺る気マンマンな 三蔵の怒気が背中にダブルコンボで突き刺さる。 だが悟浄はへこたれない。久しぶりに宿へありつけたうえに、水も漏らさぬ過保護ぶりで悟空を 守る保父が不在という千載一遇のチャンスなのだ。 悟浄はこの幸運をフル活用すべく、あくまでも表向きは喧嘩を装いながら、ねちっこい手つきで 悟空にじゃれついた。 「さっきから紙にナニ書いてんだよ?今晩の夕飯のリストか?」 「そんなんじゃねぇよっ!」 巧みに絡みつく悟浄の手に雁字搦めに戒められ、息苦しさから自由になろうと悟空は躍起に なって暴れる。 それを器用に封じ込め、悟浄は空いた手で──さっきまで悟空がにらめっこしていた──机の 紙片を掠め取った。 「えーと……『この前、18になりました』……なんだ、こりゃ?」 「あっバカ!!返せよっ」 「『俺は元気です』」 「返せっ……悟浄ぉっ!」 悟浄が紙に気をとられた隙に抜け出したのも束の間、手紙の下書きを奪われた悟空は、今度は 自分から彼にしがみつく。 「う゛ーっ……返せってばっ」 取り戻そうと必死に手を伸ばすものの、20p以上の身長差があっては届くはずもない。 それでも悟空は諦めず懸命に頑張ろうとするが、紙に指が届きそうになると悟浄の手が更に上へと 遠ざけるのだ。 「ホラホラッどうしたよコザルちゃん♪」 「っ!うるせーっ赤ゴキブリっ」 憎からず思う相手を独り占めできる嬉しさから、悟浄はますます軽口をたたいて悟空を煽る。 それに乗せられるように、悟空は騒ぐなという飼い主の注意も忘れて遮二無二取りすがった。 子猿が枝先の実を取ろうと無理に手を伸ばすような格好でしがみつかれ、悟浄の鼻の下が だらりと伸びる。密着する悟空の体を堪能するあまり、ついだらし無く相好を崩した悟浄に向け、 とうとうキレた三蔵の銃口が火を吹いた。 「てめぇら、いい加減にしろっ!」 大事な養い子に不埒な振る舞いをされ、火砕流のように怒りを噴出させる三蔵の小銃から ありったけの銃弾が悟浄にのみ降り注いだ。 「おわっ?!」 鈍い発射音をたてて突進してくる鉛の飛礫を、悟空を抱き締めたまま、悟浄は紙一重の神業で すべて避ける。 壁にめり込んだ銃痕に小さく舌打ちしながら、三蔵は照準を悟浄から外さずに怒鳴りつけた。 「くだらねぇことでギャーギャー騒ぎやがって!ちったぁ静かに出来ないのかっ!」 眦をきりりと吊り上げ、三蔵は全身から吹き出る怒りに任せて怒鳴り散らす。 その剣幕と眉間にピタリと合わされた銃口に数瞬怯んだものの、悟浄とておとなしく黙って やられるほどしおらしくはなかった。 「危ねぇじゃねえかっ!当たったらどうすんだよっ」 「当たるよう狙って撃ってんだよっ!貴様こそ避けんじゃねえっ!!」 「ハァッ?ふざけんなっこのクソ坊主っ」 無茶苦茶な三蔵の言葉に激怒し、悟浄も自らの獲物を呼び寄せ臨戦態勢をつくる。 まさに一触即発といった雰囲気の中。不意に、何の前触れもなく部屋の扉が大きく開いた。 「すみません、遅くなって……て、なに騒いでるんですか貴方たちは」 扉を開けた途端、肌を刺す不穏な空気を察して八戒の美麗な眉が歪む。彼の非難の視線も なんのその、相変わらず睨み合う二人の間を強引に横切り、八戒は抱えていた 荷物をテーブルに降ろした。 「はい、悟空。頼まれていた便箋ですよ」 どこまでも大人気ない三蔵と悟浄の態度に米神の隅に血管を浮き出させながらも、八戒は 努めて笑顔を取り繕い、悟空に頼まれていたものを取り出す。 いつの間にか飼い主と喧嘩を始めた悟浄の腕から抜け出し、悟空はトコトコと八戒の側に 近寄った。 「ありがとー八戒!」 満面の笑顔を惜し気もなく全開させ、悟空はお目当てのものを受け取る。悟空の笑顔に 敏感に反応して喧嘩を止めた二人を鼻で笑い、けれどすこし不思議そうに八戒は首を傾げた。 「でも悟空、封筒と切手は本当にいらないんですか?」 「ん、いいよ。どうせ宛て先はわからないし」 ニコニコと返され、八戒のほうもそれ以上は追求しない。それでどうやって届けるのか聞きたい 気持ちはあるが、本人が自分から話したがらないものを無理強いするほど八戒は悪趣味では なかった。その相手が、目の中に入れても痛くない悟空なら尚更に。 「俺、向こうの部屋で書いてくるね。こっちだと悟浄が邪魔すんだもん」 八戒のセンスが気に入ったのか、買い与えられた便箋を大事そうに抱えて、悟空は借り切った もう一つの部屋へと移動する。 去っていった後ろ姿を名残惜しそうに眺め、ため息をついて振り返った翡翠の双眸に、憮然とした 面もちの三蔵と悟浄の視線がぶつかった。 「……なんですか、二人して」 「なんであんなもん買い与えたんだ?」 「悟空が何やってるか知ってるわけ、八戒サン?」 それぞれの口をついた非常に恨めしげな台詞に、心底呆れたように『ハァーッ』と大きな息を吐いて、 八戒は肩を竦めた。 「今朝買い出しにいく前に頼まれたんですよ。昔大好きだった人に手紙を出したいから、奇麗な紙を 買ってきてくれって」 「「ナニっ!」」 聞き捨てならない言葉を耳にして、奇しくも二人の声が重なった。 「おいっ三蔵、オマエ悟空の記憶が戻ってるって知ってたのかよ?!」 飼い主のくせに、と非難の色を言外に乗せ悟浄は三蔵を睨む。悟浄の言い草にムッと顔を顰め、 反論しようとする三蔵を遮って八戒は続けた。 「別に記憶が戻ったわけではないですよ。顔も名前も思い出せないけど、今の自分の ことを知らせたいんだそうです」 淡々と告げられ、三蔵の胸に奇妙な安堵感が沸き上がる。さりげなく横目で盗み見れば、悟浄の ほうも同様な表情を浮かべていた。 「でも……羨ましいですよね」 あからさまにほっとする二人に苦笑しながら、八戒はぽつりとつぶやく。そんな彼を訝しむ眼差しに 答えるように、だってね、と悟空が消えた扉を見やった。 「悟空にそこまで想ってもらえるって、すごく羨ましいじゃないですか」 「……は?」 「記憶を奪われても、顔も名前も思い出せなくても、悟空の心の中には大切な人への想いが 残っているんですよ。そこまで強く存在を残せるなんて……僕、妬ましくて嫉妬しちゃいますよ」 「……」 「もし、いま悟空が何処かに連れ去られ、僕たちのことを忘れてしまったとして──あんなふうに 悟空に想ってもらえる自信、ありますか?」 モノクルの奥で見透かすように輝く瞳の強さに、三蔵も悟浄も我知らず唇を歪め押し黙る。 悔しいが、八戒の言うとおりだ。悟空の中で、そこまで自分が『特別』だとは思えない。 ……そういう存在になりたい、とは常々願ってはいるけれど。 「ま、幸いというか、今現在悟空の側にいるのは僕たちですからね。時間もたっぷりあることですし、 過去の亡霊に負ける気も譲る気もありませんよ、僕は」 部屋に充ちた深刻な雰囲気をなぎ払うように、八戒は口元に不適な笑みを浮かべきっぱりと 言い切る。 その豪胆さに呆れたのか、あるいは毒気を抜かれたのか。幾分憮然としながらも、二人は静かに 武器をおさめた。 「夕飯までには悟空も書き終わるでしょうから、それまではそっとしときましょう」 有無を言わせぬ八戒の提案に、返事はない。けれど、反対の声もあがることはなかった。 「……と。よし、できたぁっ」
最後の一文を書き上げ、悟空は歓声をあげた。 やり遂げた興奮のまま、悟空は自分の手紙を推敲する。お世辞にも奇麗な字とは言い難かったが、 時間をかけて書いただけあって誤字も脱字も見当たらない。 「ん、大丈夫」 チェックし終わると、悟空は手紙を丁寧に折る。 何度か折り直しを繰り返して、手紙は瞬く間に紙飛行機へと姿を変えた。 それを大事そうに抱え悟空は窓へ近づく。 やや立て付けの悪いガラス戸を大きく開くと、手にした紙飛行機を勢いよく外へと投げた。 「ちゃんと届けよ〜っ!」 悟空の声援を受け、浅葱色の飛行機が夕焼けに染まる茜色の空に舞い上がる。 悟空の想いを乗せたそれはどこまでも飛び続け、やがて地平線を這う夕日の中へと溶けていった。 その後を、いつまでも見送る悟空の手に小さな泣き声とともに生暖かいものが触れる。 視線を落とすと、いつのまに入り込んだのか、ジープが不思議そうに彼を見上げていた。 その愛嬌の有る姿にクスリと笑い、悟空はジープを抱き上げる。気持ち良さそうに頭を擦り寄せる それを優しく撫でながら、悟空は未練を振り切るように踵を返した。 飛行機の消えた空を、一瞬だけ振り返って。 「……相変わらずバカだな、あのチビは」 言い付けどおり茶を運んできた従者は、玉座の上で含み笑いを漏らす主に首を傾げた。
「何を読んでおいでですか、観世音」 「あぁ?」 訝しげに問われ、美貌の神は顔をあげる。 その濡れた口唇には、人の秘密をみつけた時のような少々意地の悪い笑みが刻まれていた。 「なぁに、アイツら宛の恋文だよ」 「……は?」 まったく要領を得ない答えに、従者の細い目が点と化す。 訳がわからない、というふうな従者の困惑顔がおかしくて、女神はますます唇を歪めた。 「五百年越しの、長くて短いラヴレターが地上から届いたんでな……まぁ、保護者達も心配で おちおち眠れねーだろうから、あとでアイツらのとこに持っていってやるさ」 そういってどこか楽しげに笑う女神の手には、折り目のついた浅葱色の紙が握られていた。 |
なんだがオチのない話ですみません。ちなみに「信」ちゅうのは中国語で手紙のことでございます。