忘れられるはずがない
 
 諦められるはずがない

 『裏切ったら、殺してもいい』なんて

 そんな凄い殺し文句で口説かれて

 忘れられるわけがない──アイツを
     

      

いま、そこにある幸福



 その、背中を見つけた瞬間。

俺の中でずっと抑えてきた感情が、堰を切ったようにとめどなく溢れ出した。

 懐かしさと、切なさと、それ以上の愛しさと。幾つもの想いが複雑に絡み合い、彼へと

向かう。

 潤みそうになる眦を必死に堪え、俺は努めて静かに彼の名を呼んだ。情けないほど

動揺していることを悟られないよう、低く抑えた声音で。

「……アキラ」

 俺の声に、傍目にもはっきりわかるほど大きく肩が震える。ゆっくりと振り返った姿に、

俺はまた泣きそうになった。

 記憶の中より鮮やかな彼は、背格好こそ変わらないものの、あの日より少しだけ

大人びた雰囲気を纏っていて。驚いたように見開かれた双眸が、俺の胸をさらに

締めつける。あの地獄のようなトウキョウの闇の中で、この瞳を何度思い出しただろう。

 真っすぐで、一点の曇りもない澄んだ眼差し。光の加減で時折青く輝くそれは、

この5年間ずっと焦がれ続けたものだ。……いや、違う。一日だって忘れられなかった。

 もう一度。もう一度、この瞳を見る為に。その為だけに生きてきた。彼の──アキラの

側に立つために。

「俺のこと、待っててくれた?」

 少しからかうように悪戯っぽく笑って訊ねてみれば。かぁっと耳まで赤く染めて、

アキラは照れた顔を隠すように俯く。こういう、冷めてる癖に妙に初なとこは変わって

ないんだ。すっごく些細な事なんだけど、なんとなく嬉しかった。

「アキラ」

 触れると消えてしまうのじゃないか、と恐る恐る差し出した手で、柔らかなアキラの頬に

触れる。

 じんわりと指先から伝わる、アキラの温もり。
 
 幻ではあり得ない熱は、彼が生きている証。

そして、俺がトシマと兄貴の呪縛から本当に解放された証なんだ。

 そう思ったら、もう我慢なんかできなくて。俺は強引にアキラをかき抱いた。

「リンっ……?」

 いきなりな俺の行動にうろたえるアキラを、逃さぬよう更に強く抱き締める。

以前は見上げていた──けれど、今はすっぽりと腕の中に収まってしまう体を深く懐に

抱き込んで、アキラの髪に顔を埋めた。

「会いたかった」

 鈍色の髪から香る彼の匂いを胸いっぱい吸い込み、俺は睦言を紡ぐようにアキラの

耳元へ唇を寄せる。

「俺さ、ずっと……アキラのことばっか考えてた」

「……」

「アキラに会えたら、いろんなこと話そうと思ってたんだ。今でのこととか、それから……

アキラ自身のこととか」

 何が好きか、とか。

 どんなものが苦手なのか、とか。

考えてみたら、俺はアキラのこと殆ど知らない。兄貴を倒すことに精一杯で、他のことに

目を向ける余裕なんてなかったから、それは仕方のないことかもしれない。

 けど、あのとき別れてから俺はすごく後悔したんだ。こんなに長く会えなくなるのなら、

もっと聞いておけばよかった、って。おなじくらい、俺のことも知って欲しかったって。

アキラが俺のコト、片時も忘れられなくなるくらいに。

「でも、アキラの顔見たらさ……なんか、話したかったこと全部吹き飛んじゃった」

 辛かったことも、会えない間に積もった想いも。

現実のアキラを前にしたら、瞬く間にすべて溶けて消えてしまった。まるで春の光が、

雪を解かしてしまうように。

「あーもう……俺、いまなら死んでもいいや」

 長い旅が終わる嬉しさから、感極まってそう口走った俺の言葉に。腕の中のアキラが

ぴくりと身じろいだ。

「……馬鹿野郎」

 ボソ、と低くと呟いて。

それまで黙って抱かれていたアキラが、意外な力強さでぐいと俺の肩を押し出す。

戸惑うように顔を上げた俺の目に映ったのは、少々おかんむり状態のアキラだった。

「今まで待たせといて、帰ってきた途端『死んでもいい』ってなんだよ」

「あ……えと」

「俺が、この5年間どんな気持ちでお前を待ってたと思ってんだっ」

「えっ、いや、それは俺もいっ──」

「人の話は最後まで聞くっ!」

「ハ、ハイ」

 鬼気迫る表情で叱責され、俺はおとなしく口を閉じる。静かになった俺を見上げ、

アキラはふっと表情を緩ませた。

「俺は、リンを信じたかった。あのとき行かせたのは、間違いじゃないって。でも周囲が

どんどん様変わりして、俺だけが取り残されていくような感覚を感じるようになって

……途方に暮れた」

 眉をきつく寄せ、アキラは目を瞑る。

たぶん、俺と別れた日から今までのことを思い出しているのだろう。どこか思い詰めた

ような表情が、俺の心臓をキリキリと締めつける。

 こんな寂しげな顔をさせたかったんじゃない。アキラには笑ってほしいんだ。

だって笑ってる時のアキラは、ホントにすごく綺麗だから。

 俺の複雑な胸の内を知ることもなく、アキラは淡々と続けた。

「もしかしたら、俺はまた間違えてしまったんじゃないかって……ケイスケの時のように、

取り返しのつかないことをしたんじゃないのかって。信じていたいのに、けれど後悔する

ことを止められなくて──」

「アキラ……」

「だからお前が帰ってきてくれて、本当に嬉しかった。なのに『死んでもいい』なんて、

そんなこと……」

 冗談でも、軽々しく言うな。

最後の方は消え入りそうなくらい、小さなものだったけれど。アキラの言葉が痛くて、

俺は項垂れる。

「ゴメン」

 こてん、とアキラの肩に頭を預けて。反省する俺を、優しい腕が抱き締める。

随分ちいさくなったけど、まごうことなくアキラの腕だ。俺を絶望の中から引き上げて

くれた、唯一無二の。

「5年も待たせたんだからな、責任とれよ」

「……えーと、ローンでもいい?」

「バカ」

 俺の軽口にクスリと笑うアキラの頬を、両手でそっと包んで。

俺は誘われるように深く口接けた。
 
 
 
 
 
 
 

 何度も、傷ついて。

 何度も、大切なものを失って。

名も知らぬ誰かの大切なものを奪い、実の兄でさえも手にかけて。

 片足すら失って──それでも、俺は。

やっぱり、生きていたいと思う。俺の闇を溶かしてくれた、この優しいぬくもりの側で。