禁止事項




 ……絶対、ENEDってロクな組織じゃない。

向かいに座って食事をとる男の様子を眺めながら、アキラは心の中でそう切り捨てる

──昔、自分と男が居たという名前だけしか知らない研究機関を。

 幼い頃の記憶など、ほとんど覚えていない。それどころか好き勝手に改竄されて、

重要な部分は『消されて』いるらしい。アキラが知らぬ間にこの体へ施された、悪夢の

ような実験の機密保持の為に。

 そのことだけとってみても、とてもまともな組織とは思えない。加えて、日常生活で

この相棒──nの偏りまくった知識を目の当たりにすれば、アキラの眉間に深い皺が

寄ってしまうのも仕方ないだろう。

 まず第一に、現代人が生きていく上で不可欠なものの一つ──金の使い方、を全く

知らない。

『ものを買う』という行為を、生まれてから一度もしたことがないのだ。nが育った環境を

考えれば、仕方ないことかもしれない。まあ、ここらへんはまだ良い。実社会にも

そういう人間は少数ながらも存在するのだから。

 他にも数えだしたら切りがないほど細々した問題はあるが、大部分はアキラの許容

範囲ゾーンにギリギリで引っ掛かっている。遭遇するたび多少の頭痛を覚えないでも

ないが、まだ環境のせいで納得できるはずだ……たぶん。

 だが、食に関してだけはアキラも目眩を感じずにはいられない。

トシマの映画館でソリドを袋ごと食べようとした時は、どこの箱入り息子かと呆れ

つつも微笑ましく感じて笑ってしまったけれど。一緒に旅するようになった今なら、

あれは序の口だったと断言できる。

 とにかく、nは何でも口に運んでしまうのだ。まるで赤ん坊が指に触れるものを口内に

入れ、それが何か確かめるように。流石に一度食べ物でないと認識したものは二度と

入れないが、ちょっとでも目を離すととんでもないものがnの唇の端から覗いていて、

アキラが卒倒しそうになったことも一度や二度じゃなかったりするのだ。

 このnの奇行を窘める度に、アキラは真剣に考え込んでしまう。自分と出会う前まで、

いったいnはトシマで何を食べて生き延びていたのか、と。いやそれ以前に、戦場に

出ていた時などはどうやって栄養補給していたのだろう。

 二十世紀後半からレーション(戦闘用糧食)の主流はレトルトパウチに変わったとは

いっても、古き良き伝統の缶詰もいまだに現役だ。アキラ自身も軍事訓練で何度か

食べさせられ、開けるのにてこずった経験がある。

 パック包装すら開封法を知らなかったのに、はたしてあれが開けられたのだろうか。

アキラが教えるまで、缶切りも使えなかったnに。

(まさか、握り潰して開けたりとか)

nの半端ではない握力なら、それもアリかもしれない。スプーンを器用に使う彼の

大きな手を見つめながら、アキラはふと更に嫌な想像をしてしまう。

 ──もしかして、補給は点滴と錠剤だけとかいうオチじゃないよな。

いくらなんでもそれは……と思いつつも、今までENEDがしたことを顧みると、強ち

アキラの推測が間違っているとも言い切れない。

「──アキラ?」

 眉間に皺を寄せたまま、黙って考え込む恋人を不審に感じたのか。nが身を屈め、

アキラの顔を覗き込むように伺う。それはまるで、大好きな母親の不興を恐れる

幼子のように。

「どこか、痛いのか」

 透明な双眸に微かな不安の色を乗せ、nはアキラの頬をそっと撫でる。痛いほど

真摯なnの視線で、アキラは漸く我に返って盛大に首を振った。

「大丈夫だから。なんでもないよ、n」

 安心させるように、柔らかく微笑めば。nはホッとしたように表情を緩ませる。再び

食べることに専念し始めた彼に倣うように、アキラも自分の皿へ意識を移した。

 少し冷えてしまったけれど、黄色い半月にかかる赤のコントラストは色鮮やかで

食欲をそそる。人気の無くなった宿の厨房を借りてアキラが作ったのは、彼自身も

好きなオムライスだ。『食べたことがない』というnの為に拵えたのだが、思ったよりは

上手く出来たようで、心なしかnの食べるペースもいつもより速い。

 無心にスプーンを口へ運ぶ彼にアキラはたまらない愛しさを感じながら、自分も

オムライスをつつく。久しぶりに過ごす穏やかな時間と幸せな気分の両方を噛み

締めていると、また視線を感じて顔をあげた。

「n……?」

 気がつけば、nがこちらをじっと見ている。不思議に思ってアキラが訊ねようとした、

その時。

 ──ぺろ。

視界いっぱいにnの顔が広がった、とアキラが認識した瞬間。ピリ、というお馴染みの

刺激が走り生暖かく湿ったものが唇を掠める。

 束の間、ぼんやりと惚けていたアキラは状況を理解した途端、ボッと顔から火を

吹いた。

「なっなっっ……nっ!」

 何してんだ、と咎めようとするけれど。舌が縺れに縺れて、うまく言葉にならない。

狼狽するアキラとは対象的に、当のnはいつも通りの態度で訥々と返事を返した。

「唇に、ケチャップがついてた」

 だから舌で拭った、と無邪気に答えるnに毒気を抜かれて、アキラはがっくりと肩を

落とす。

 けっして悪気があるわけじゃない……ただ、ほんのちょっと年相応の常識が欠落して

いるだけで。むしろnとしては、善意のつもりなんだ。

 必死に自分へ言い聞かせてみるものの、アキラの胸の動悸は収まるどころか

ますます激しくなるばかりで。ついキョロキョロと回りを見回して、誰がいなかったか

確認してしまう。

 幼い子供なら可愛いの一言で済む行動も、やってるのが三十近い男とそろそろ

成人に達する青年ではそうはいかない。土地と宗教圏によっては、冗談ではなく命の

危険だってある。特に二人が追っ手を撒くため好んで渡り歩くような、政情が不安定で

政教分離が進んでいない国では尚更。

 注意深く辺りを見回してみたが、夕食時をかなり過ぎた今はやはり人気は感じられ

ない。幸いなことに、この食堂にはアキラたちだけのようだ。

 ふーっと息を吐き出し、アキラは緊張を解く。

 周囲に人が居なくて、本当によかった。

心の中でしみじみと呟いて。アキラはすぐに神妙な顔つきになって、「n」と恋人の

名を呼ぶ。

「……いまの、絶対人前でやっちゃ駄目だ」

 いつになく真剣な目で、アキラが念を押せば。『どうして?』とでもいうような不思議

そうな顔で、nが首を傾げる。しばらく考え込むような素振りをみせた後、nはポツリと

呟いた。

「なら、二人だけの時はいいのか?」

「うっ……」

 咄嗟に言葉に詰まり、アキラはしかし「二人きりなら、な」と動揺を押し隠して答える。

アキラなりの精一杯の答えに満足したのか、nは花が綻ぶように笑った。つられるように、

アキラも少しだけ口元を緩める。

 数時間後、言質を取ったnにベッドで散々いいようにされ、あとで激しく後悔すること

になるとも知らずに。





翌日から二人の約束事に禁止項目が一つ増えたのは云うまでもない。