きみの弱さ



 夕闇が迫る街路に柔らかな人工の光が灯り、石造りの街を照らす。

 仕事を終えて店仕舞いを始めた市場から、家路へと足早に去っていく人波の中で。

ただ一人、それに抗うようにnは立ち尽くしていた。もっと正確にいうなら、困り果てて

いたのだ。

 無二の存在を、自分の不注意で見失ってしまったことに。

 目を離したのは、ほんの一瞬。

店の軒先に置かれた、アキラの瞳のような不思議な色合いの石細工に目を奪われ、

ほんの少し立ち止まっただけなのに。けれど振り返ったときには、隣にいたはずの

アキラは忽然と消えてしまった。

 咄嗟に辺りを見回したが、それらしい人影はどこにも見当たらない。

後を追いたくても市の立つ広場は様々な匂いの坩堝で、常なら感じるアキラの放つ

甘い匂いも掻き消されていた。

 途方に暮れたまま、nは通り過ぎていく人々の影にぼんやりと視線を落とす。

 まだアキラと再会する前、追っ手を撒くためこんな人込みを度々利用した。普通の

人間より印象の薄いnがひとたび気配を消して雑踏に紛れれば、まず捜し出すことは

無理だ。現に今だって、流れを遮るように突っ立っているというのに、誰も睨むどころか

不審そうに顔を向ける者もいない。

 見えてはいても、認識されない。

逃亡生活を続けるnにとって、それは必要不可欠な技能の一つ。あって重宝しこそすれ、

厭う理由などとこにもない。それなのに、何故か胸が痛む自分が確かにいて。

その事実に、ますますnの混乱は深まる。

 何故、こんなに心が軋むのだろう。去り行く彼らの無反応はごく見慣れた光景で

あるのに。

 自分は、この人々からすれば異質なモノ。

 同じ場所に居ても、交わることのない異物。

だから誰も気にとめない。誰もnに気づかない。これはこの体に流れる血と才の結果だ。

なぜなら彼は、人の手によって造り出された精巧なヒトガタなのだから。

 こうして行き交う人々からすれば、足元に転がるこの石ころや後ろの町並と大差の

ない存在でしかない。もし無理に価値を見出すとすれば血腥い戦場か、白い壁で

囲まれた実験室の中だけだ。

 幼い頃から感じてきたそんな当たり前のことが、どうして心を締めつけるのか。

 昔はこんなふうに考えることなどなかった。自分が『普通』でないことは言葉を覚える

よりも早くnの意識に溶け込んでいたから、違和感など感じるはずもなかった。また、

そうなるよう教育された。

 以前は疑問を覚える隙もなく当然だと思ったこと。

それが今は茨のようにnの心に絡みつき、針のように鋭い刺を突き立てる。

 疼くような痛みに目眩を覚えて、nはおもわず蹌踉めく。心に刻まれた無数の傷口から、

封じ込めたはずの絶望がじわりと滲む。

 だめだ。このまま飲み込まれてはいけない。

必死に抗うものの、溢れ出した虚無の闇は足の先から少しずつ体を満たして。抵抗を

示すnの心をあざ笑うように、ゆっくりと侵食していく。

 静かに、そして音もなく。

暗い混沌の闇がnのすべてを食い尽く、その寸前。

 ──声が、聞こえた。

「nっ……!」

 沈みかけたnの意識が、自分を呼ぶ声に引かれて急速に浮上する。我に返った、

その視線の先。モノクロに染まった視界のなかで、ただ一つ鮮やかな色を放つ其処に

焦がれた姿を見つけ、nは目を瞠いた。

「よかった……見つかって」

 安堵の表情を浮かべ、アキラが足早に駆け寄る。

「俺は、nみたいに匂いを追うなんて出来ないから、もし見つからなかったらって……

すごく焦った」

 よほど捜し回ったのか、語尾は途切れがちで吐く息も荒い。落ち着かせようと

伸ばしたnの手を搦め捕り、アキラはギュッと両手で握り締める。nですら微かに

痛みを感じるほど、力強く。

「……一人になっちまうかと思った」

 ポツリと漏らされた、弱々しいアキラの呟きに。nはようやく先程まで自分満たしていた

闇の正体を知る。

 あれは『恐怖』だ。アキラを失い、再び孤独になることへの。ひとりだけ取り残され、

終わりなき絶望に蝕まれることへの、本能的な恐怖。

「n?」

 ずっと沈黙したままのnを訝しんで、アキラが首を傾げる。心配そうに覗き込む彼を、

まるで何かに突き動かされるように、nは荒々しく抱き寄せた。

「なっ……」

「少し──こうしていてくれ」

 身じろぐアキラの耳元で囁いて、その身体を深く抱き締める。周囲の好奇の目も

気に止めることもなく、ただこの手に取り戻した存在をしっかりと確かめるように。

 胸に感じる、あたたかな温もり。アキラが生きている証であるそれは目映いほど

輝いてnの中に染み込み、いまだしつこく絡みついていた闇を跡形もなく消し去った。

 あれほどきつく戒めていた重みがすべて取れ払われ、すっと軽くなる。それでもnは

アキラを抱く手を緩めなかった。困惑するだけだったアキラも何かを察したのか、労る

ようにnの背に腕を回す。

 どれほど言葉を費やしても語ることのできない唯一の安らぎ抱いて、nは静かに

息を吐く。

 自分は、弱くなったのかもしれない。

 孤独を知って。

 そして、ぬくもりを得て。

 自分だけの世界に閉じこもっていた頃よりも、惑い悩むことが多くなった。

それはとても危険なことだ。迷いは隙を生み、心を鈍らせる。心が鈍れば、命を落とす

確立も高くなる。

 それでも、もうアキラを手放すことはできない。

失えば──きっと自分は壊れてしまう。今度こそ完全に。

 漠然とした、けれど妙に強い確信。不安にも似たそれを痛いほど感じながら、nは

腕の中のアキラにそっと口接けた。