猫を拾った。
弱いくせに、生意気で、いっちょまえに威嚇する威勢のいい子猫を一匹。
連れて帰って毎日可愛いがったら、そのうち歯を立てなくなった。
それから、部屋にはずっと猫がいる。
ぽたり、と。冷たい雫が頬にかかる。
「……なぁに、泣いてんだよ」
気持ち良く眠っていたところをぶち壊され、かなり不機嫌な気分で目を覚ましたら。
夜明け前の薄暗い闇の中で、猫が泣いていた。惚けたような顔で、ここでない何処かを
見つめるようにして。
「わからな……い」
「はぁ〜?」
返ってきた答えが気に入らなくて、起き上がる。
人の安眠を妨害しておいて『わからない』っつーのはなんの冗談だ。そう思って剣呑な
視線を向けたら、子猫はびくり、と痩せ細った体を震わせて、でも逃げようとはしなかった。
もっとも逃げられる場所なんて、この部屋のどこにもないけど。
「わかんないのに、アキラちゃんは泣くわけぇ〜?」
自分以外のことに気をとられている猫にむかついて、嘲るように冷たく名を呼んで低く
嗤えば。猫はぐっと唇を噛み締め、けれどいつものように言い返すこともせず、またふいと
顔を逸らして天井を見上げる。隣にいるご主人サマのことなんざ、すっかり忘れたような
顔をして。
気に入らない。
壊さないように、大事に大事に飼ってやってるのに。
もう俺のモノなのに、俺以外のことに囚われて。
それが無性に許せなくて、腹がたって、強引に頤を掴んで引き寄せた。
「なぁ〜、ホントは理由があんだろぉ」
「……」
ひたと双眸を見据えたまま顎を掴む手に少しずつ力を込め、ゆっくりと締めつける。
徐々に強くなる痛みに眉を顰めながら、やっと観念したのか猫が苦しげな表情でぽつりと
呟いた。
「ゆ、夢を、みたんだ」
迫り上がる嗚咽を飲み込んで、子猫は訥々とした口調で続ける。
「誰かがベンチに座っていて、なにか話していて……光が眩しくて、よく見えないけど……
手が差し伸べられて」
途切れ途切れに出てくる言葉は意味不明で、俺にはさっぱりわからない。だけど喋る
うちに気持ちが高ぶってきたらしく、両目が熱く潤んで猫の頬を濡らした。
「もし……あの時、手を引いて逃げ出していたら──」
助けられたかも、しれないのに。
絞り出すような悲痛な声でそう言って、猫が泣く。声をたてることもなく、ただはらはらと
大粒の涙を零して泣き続ける。何かを悼むように──悔やむように。
この部屋に連れ帰ってから、猫の泣き顔なんてそれこそ毎日見てきた。いつも俺の気の
すむまで弄って、声が嗄れるのもかまわず鳴かせていたから。
けど、こんなのは初めてだ。
痛みに泣き叫ぶのとも、屈辱に震えるのとも違う。光の加減で蒼にも翠にもみえる瞳を
溢れる涙で煙らせ、見えない何かを想って静かに嘆く姿は、すごく奇麗で──でも、
寂しそうだ。
「なぁ〜、ソイツって子猫ちゃんの何?」
昔の知り合い?と聞いたら、すこし考えるような仕草をして、猫はふるふると首を振った。
「……わからない」
「わかんない奴の為に泣くわけ?」
「本当に……わからないんだ。どうしてこんなに悲しいのか」
俺の視線から逃れるように、猫は目を伏せる。その拍子に、溜まっていた雫が頬を滑り
落ちて、皺くちゃのシーツに吸い込まれた。
それから猫は一言も発することなく、ただ密やかに泣き続けて。俺も、しばらくは黙って
見つめていた。いつもと違う猫の様子が、もの珍しかったから。
でも流石にそれが三十分も続くといいかげん飽きるし、なにより無視されてるようで、
ムチャクチャ気分が悪い。
ガシガシと寝癖のついた頭を掻きながら、俺は大きく息を吐き出した。
「あ〜も〜、子猫ちゃんはホンット泣き虫だよなぁ」
そうぼやいて、やや乱暴に猫を抱き寄せる。
荒っぽい俺の仕草に怯え瞬時に体を強ばらせた猫を、逃がさぬよう深く胸元に抱いて、
その形の良い耳を舌でなぞった。
「そんな子猫ちゃんのために〜、俺が子守歌を歌ってやっから」
「……は?」
濡れた睫をパチパチと瞬かせ、何を言われたのか理解できないといった表情で猫が
俺を見上げる。
湿って赤くなった眦にちゅ、とキスをひとつ落として。見た目よりも柔らかい猫の髪を
梳きながら、耳慣れたフレーズを口ずさんだ。
俺が生まれるずっと昔──最初の大戦が始まった頃に流行ったその歌を聞いたのは、
もう随分前。俺に散々人殺しの訓練をした軍の教官が、自室で安酒と訃報とボロボロの
写真を手に握り締め、啜り泣きながらラジオから流れるその曲に合わせて歌っていたのが
最初だ。
しかめっ面しか拝んだことのなかった教官が厳つい顔を涙で汚しているのも驚きだった
けれど、スピーカーから聞こえてくる、優しく穏やかなメロディに乗せた歌声がひどく心地
よくて、その後もずっと耳に残っていた。
歌詞の意味なんて知らないけれど、いまでもこれだけは空で歌えるくらい好きで、
気に入ってる。
「……奇麗な……歌だな」
戸惑うような響きを微かに滲ませて猫がぽつりと呟く。吃驚して固まっていた身体も、
繰り返されるメロディに誘われるようにゆっくりと力が抜け、やがて俺の胸にそっと顔を
埋める。
歌の節に合わせるように背中を軽く叩いてやれば、いつしか猫の口元から安らかな
吐息が聞こえ始めた。
「ネコネコ〜……寝たのかぁ?」
軽く揺すってみるが、反応はない。
完全に寝入ってしまった猫を抱き締めたまま、俺もベッドに横たわる。コイツの寝息を
聞いてたら、なんだかすごく眠くなってきた。……そういや、気持ち良く寝てたとこを猫に
起こされたんだっけか。
「……思い出せない昔のことなんかさぁ、とっとと忘れちまえって」
──もう、俺のモノなんだから。
ゆるゆると溶けていく意識の片隅で俺は猫に囁く。どうせ聞こえてないのはわかっていた
けど、なんとなく言っておきたかった。
お前の頭の天辺から爪先まで、ぜんぶ俺の……俺だけのものなんだって。
──他のヤツには、血の一滴だってやらない
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