■CALLING■



 ──n

それは、便宜上つけられた名前。

 親がつけてくれたという、本当の名で呼ばれた記憶はない。皆、nと呼ぶ。あるいは、

プロジェクトの名をとってPremier、と。

 その名を呼ぶとき、人は様々な色を瞳に映す。

一番多いのは、恐怖。次が、憐憫。蔑み。そして、憎悪。

 どんなに言葉や態度で取り繕っても、その目の奥に宿る光は誤魔化せない。声の

裏に潜む感情も。

 幼い頃から、それは常に自分を取り巻いていた。教育の過程で自我が消されてゆく

につれ、彼らの向ける様々な眼差しはやがて嫌悪へと姿を変え、日々増していった。

 それはまるで、この手が血で染まるのと呼応するように。

自分たちで造り出しておきながら、それが生み出す結果を一方では持て囃して、

けれどその裏では恐れ忌み嫌う。

 君は貴重な存在なんだよ、とやわらかく諭すのと同じ口で、化け物が、と忌々しげに

吐き捨てる。その声が、当の本人に届いているとも知らずに。

 そんな彼らに、名を呼ばれるたび。わずかに残った心が、冷たく凍りついてゆく。

光もなにもない、混沌とした暗闇が少しずつ身体を満たし、隅々まで絶望に染める。

 いつしか『名前を呼ばれる』という行為そのものが、ひどく疎ましく感じるようになった。

自分の名それ自体が不快で、穢れたもののように思えてならない。このままだと、

自分は本当に果てない闇の底へ沈んでしまう。その深淵に囚われてしまったら二度と

目覚めることはない。このまま死刑囚のように、ゆるやかに心が死んでいくのを待つ

のは嫌だ。

 だから、逃げ出した。あらゆるものを切り捨てて。

ただ一つこの手に残った、小さなぬくもりの記憶だけを頼りに。


「……n?」

 優しい声が、nを呼ぶ。束の間、過ぎ去った昔日に彷徨っていた意識が、自分を求める

半身の声で一瞬で現実に引き戻された。

ゆっくりと目を開ければ、心配そうに伺う翠の瞳と目が合う。時が流れ、幼い子供から

青年へと成長を遂げても、この瞳だけは変わらない。まっすぐにnを見つめ、言葉より

雄弁にささやく。ただお前が大切なのだ、と。

「もしかして、眠ってたのか?」

 無理に起こしてしまったのかと顔を曇らせるアキラに、違う、と呟いて首を振る。すると

アキラはほっとしたように薄く微笑む。

 静かに自分を見つめる、穏やかな眼差し。それが何より得がたいもののように思えて、

沸き上がる衝動のままに青年を抱き寄せる。

「n……?」

 涼やかで甘い声音が自分を呼ぶ。その身を案ずるように──労るように。

ただそれだけで、どうしてこんなにも胸が熱くなるのだろう。自分の名前など、この体に

流れる血と同じく疎ましいものでしかなかったのに。

 込められている思いが、違うからだろうか。アキラが自分の名を口にするとき感じる

のは、溢れるようなあたたかさだ。

 涸れない泉のように湧き出すそれは乾き切った心を潤し、nの胸にいくつもの花を

芽吹かせる。感情と呼ばれるその花はまだ小さいけれど、それでも誇り高く顔をあげ、

天に向かって咲き誇る。

 nを導いてくれる、ただひとつの光──アキラのために。

「おい、本当にどうか……──」

「アキラ」

 困惑する青年の頬を両手でそっとつつんで、吐息が溶け合うほどの距離まで顔を

近づける。今だけは、この瞳に自分だけしか映らないように。

「もっと……名前を呼んで」

 縋るように懇願すれば、翡翠の双眸が大きく瞠かれ、すぐにやわらかく細められる。

薄い唇がゆるやかに弧を描き、掠れた声が迸った。

「n」

「もっと」

「n、n……」

「アキラ、もっと」

「……n」

 請われるままアキラは何度も繰り返し、幼子をあやすようにnの髪を梳く。

その心地よさにうっとりと目を閉じると、記憶の中より低くなった声が小さく呟いた。

 ――ずっと側にいるから、と。


きっと。自分はこの言葉を聞くために、長い間あの闇の街を彷徨っていたのだ。

 そう感じた瞬間、nの頬を見えない雫がひとすじ零れ落ちた。