■きのまよい■


 そう、いつものことだ。

自分を閉じ込めて離さない男が、返り血に染まった態で戻ってくることなど。処刑人などと

呼ばれ恐れられるこの男が、血を纏わなかった日などアキラが知るかぎり一度もない。

 けれど、その日だけは。その『いつも』とはあきらかに違っていた。





 重い扉が金切り声をたてて開き、ついで現れた血塗れの姿に体が竦む。

 男が帰ってくるこの瞬間だけは、何度見ても慣れない。戯れに傷つけられることが

なくなった今でも、血で汚れた男をみると震えてしまう。

見えない手で、心臓を鷲掴みにされたような錯覚さえ感じるのだ。捕まった時に受けた

恥辱と恐怖の記憶が、心に深く焼きついているせいかもしれない。

 全身を緊張で漲らせ、アキラは男を見つめる。その視線がある一点で止まり、驚きに

瞠いた。

「アンタ、それ……」

 ポタポタ、と床に落ちる紅い滴。男の体中にこびりついた、既に変色しつつある見知らぬ

誰かの血とあきらかに違うそれは、彼身のものだ。

 閉じ込められてから──いや、初めてこの男と遭遇したときから一度として見たことが

なかった負傷した姿に、アキラは声を失う。

 この男でも、怪我することがあるのだ。至極当たり前のことだが、トシマに入って以来

イグラの違反者を容赦なく、そして残酷に粛正する光景に慣れていたせいか、血を流す

男の姿はひどく違和感があった。アキラの胸に、恐怖とは違うざわめきを生むほどに。

 まじまじと自分を見つめるアキラに向かって、男はニッと不敵に笑った。

「んー……ネコってば、掠り傷が気になんの?」

「掠り傷って──」

 床に広がる血の量からみても、とてもそんなレベルの怪我ではないだろうに。

虚勢かと思ったが男の態度はいつもとまったく変わらず、捕らえどころがない。

 呆れと困惑の眼差しを向けるアキラの横に腰を下ろし、男は重たげなブーツを脱ぎ

ながら口を尖らせた。

「銃持ち込んだクソがいてさぁ、俺たちを見たとたん乱射しやがった。おかげでせっかく

捕まえた違反者の一人は逃がしちまうしぃー散々だっての」

 まあ、そいつはソッコー殺ってやったけどぉ。

そう言って怪我した腕を振り回す男を、アキラは慌てて止めた。

「と、とにかく手当しなきゃ駄目だ」

「あ?こんなん舐めときゃ平気ィー」

「馬鹿ッ、そんなに血が出てるのに平気なわけないだろッ」

 ひらひらと負傷した手を振る男の手を一喝して、アキラは立ち上がる。

 早く止血して消毒しないと。いや、その前に男の体についた返り血と傷口を洗い

流さなければ。このまま放っておいたら、傷口から雑菌が入りかねない。

 アキラは少し迷うような素振りで、部屋備え付けの内線電話のボタンを躊躇いがちに

押す。雑用係の黒服に手当に必要なもの一式を頼むと、豆鉄砲でもくらったような

表情で佇む男の手を引いてバスルームへと連れて行った。

「ほら、ここに座れよ。汚れを落とすから」

 有無を言わさず浴槽の縁に男を座らせて、シャワーのコックを捻る。ノズルに手を

当てながらぬるま湯に調節して、血で染まった金髪にシャワーを当てた。

「うわ……ッ」

「じっとしてろって」

 降り出した温水から逃げようとする巨躯を押し止どめて、いたるところに飛び散った

血を丁寧に落としていく。雨音に似た響きに混じって、茶色く汚れた水が浴槽の排水口に

勢いよく吸い込まれていった。

「子猫ちゃーん、まだー?」

「もうちょっとだから」

 自分もびしょ濡れになりながらアキラは男を洗い清める。粗方染みついた血を落とすと、

自分よりも一回りは大柄な男の体をバスタオルで拭いてベッドへと戻った。

 バスルームから出れば、何時の間に入ったのか頼んでいた道具がテーブルの上に

置かれている。真新しい包帯やガーゼ、そして消毒液と新品の薬の箱が整然と並ぶ様に、

アキラは安堵と僅かな皮肉を覚えて唇を歪めた。

 自分にとっては牢獄にも等しい場所だが、この館は無法地帯と化したトシマで最も物に

溢れた処だ。揃わないものはないと言い切っても、けして大袈裟ではない。外の世界でも

品薄な生鮮食品からラインのような麻薬、目を背けたくなるような痛ましい姿の奴隷まで、

なんでもある。

 皮肉な話だが、ここがアルビトロの『城』でよかったと思う。少なくともトシマでこの館

以上にまともな治療ができる場所はない。中立地帯のホテルにも一応品物は揃っては

いるが、医薬品はとんでもなく高価だし、アキラの持つタグでは到底足りないだろう。

 少々複雑な気分になりながら、アキラはそれでも慣れない手つきで手当を施す。

派手な出血のわりに、男の傷は思ったよりも浅い。これなら縫合は必要ないだろう。

 神妙な顔付きで包帯と格闘するアキラを、男が不思議そうに眺める。その唇が、不意に

動いた。

「子猫ちゃんさぁ、なんでそんなツラしてるわけ?」

「えっ」

 手当に没頭していたアキラは、降りかかった声に顔を上げる。いったい、この男は

なにを言っているのだろう。

 困惑するアキラに、男は「ホラ、その顔」と指をさす。

「ヘマしたのは俺じゃん。なのに、なんで子猫ちゃんのほうが、イタソーな顔すんの?」

 自分が怪我したわけでもねーのにさぁ。

男が零した、なにげない問い。けれどそれは思いのほか深く胸を抉り、虚を突かれた

アキラは絶句する。

そうだ。どうして自分は、こんなに必死になっているのだろう。この男がどうなろうと、全く

関係ないはずなのに。

 一度自覚してしまうと、次々と疑問が浮かんでアキラを翻弄する。千々に混乱する思考を

かき集め、自分なりに答えを探して。ようやく見つけた、それらしい理由をアキラは躊躇い

がちに口にのせる。

「……わからない」

「──ハァ?ボケてんのー子猫ちゃん」

「わからないけど……たぶん、アンタが怪我するのは……嫌なんだと、思う」

 漠然と胸に湧いた感情を、アキラは拙いながらも言葉として組み立て、声に出す。

 あの扉が開いたとき。血を流す男の姿に、まず息を呑んで。驚きの後に残ったのは、

むず痒いような痛みだった。

 この男は、自分を拉致して閉じ込めて。

 この身に幾度となく傷を刻み、心の奥まで踏み込み苛んで。アキラの矜持を粉々に

砕いた、許しがたい存在。憎しみ以外の感情など抱きようのないこの男に、けれど自分は

たしかに憎悪とは違うものを感じている。それがなんなのが、まだ理解はできないけれど。

 黙り込んだまま俯くアキラの頤に、男の堅く骨張った指が触れる。

くい、と顎を持ち上げられ、引き結んだ唇に男の口唇が噛み付くように重なった。

「んッ……」

 肉厚の舌がアキラの唇をこじ開け、歯列を割って中に潜り込む。押し戻そうとする

アキラの舌を搦め捕り、吸いつき、口内に溢れた唾液を男は貪るように啜る。

「ハッ……ァ」

 意識が落ちる寸前になって、漸く男がアキラを解放する。空気を求めて喘ぐアキラの

頬に、瞼に、男は口接けの雨を降らす。あたかも親猫が子の毛づくろいでもするように。

「ナッ……ニ、すんだよっ」

 荒い息をつき乍ら、顔中にキスをふりまく男をアキラは睨みつける。眦にうっすらと朱を

散らし濡れた眼で見上げるアキラに、男は口の端を吊り上げた。

「なぁ、子猫ちゃん。自分がナニ言ってっか、わかってる?」

 くつくつと楽しげに喉を鳴らして男がアキラの耳元に唇を寄せる。耳朶にかかる吐息に

ビクリと肩を震わせたアキラの喉を、男の熱く湿った長い舌が殊更ゆっくりと這う。アキラ

自身が気づかずにみせる動揺を味わうように。

「俺が怪我するのがイヤなんてさぁ、それって子猫ちゃんが俺にラブってことだよなー」

「……は?」

「子猫ちゃんでは、ようやく俺のこと御主人サマだって認めてくれたわけ〜?」

「バッ、そ、そんなんじゃないッ!」

 ヒャハ、とけたたましく笑う男の言葉を、アキラはぶんぶんと首を振って激しく否定した

けれど。男はまったく聞く耳を持たず、何が楽しいのかますます笑みを深め、アキラを

抱き締める腕に力を込める。真っ赤に色づいたアキラの顔のいたるところに、熱っぽい

口接けを繰り返しながら。

 強くなる男の束縛に、身も心も息詰まるような苦しさを覚えてアキラは目を閉じる。

 ただ、怪我を負った人間を放っておけなかった。それだけだ。男の言うような感情など、

持つわけがない。

 そう、気のまよいだ。何かに突き動かされるように、傷の手当をしてしまったのは。体に

回された腕を、触れ合った肌から伝わる温もりを心地よいと感じてしまうのも。

全部、気のせいなんだ。



 ――笑った男の顔に胸が熱くなった、なんて。