ぱちん、と乾いた音がして。

切り落とされた白い爪先が、剥き出しのコンクリートの床にはらりと舞った。



the forbidden fruit



 雨の降る日は、仕事もお休み。

それは、無軌道を絵に描いたようなトシマの処刑人たちが守る、数少ないルールの一つ。理由は簡単。外で濡れ鼠に

なったふたりに屋敷を汚されるのを、ヴィスキオ変態仮面もとい王子様が我慢できないから。土埃や血痕がよくて

泥の足跡がダメってのはどういう基準なんだと突っ込みたいが、とにかく嫌らしい。自分はぜったい掃除しないくせに、

中年オヤジは妙なところで神経質だ。

 だから今日は、朝からネコで遊ぶと決めていた。どんよりと重くのし掛かる雨雲が一日中晴れないことは、長い窖生活

で知っていたから。どうせ外には出られないし、無理に出ようとも思わない。それにつまんねーヤツを嬲って死体を作る

よりも、お気に入りのネコと気持ちいいことしてたほうが、ずっと楽しい。

 気位が高くてなかなか懐かないけれど、いま飼っているネコをグンジは大層気に入っていた。それそこ可愛がりすぎて

うっかりヤリ殺しちゃいそうなくらいに。

 力の差なんて嫌というほどわかっているだろうに、それでも全身を逆立て可愛らしく爪をたてようとするところ、とか。

どんなに苦痛に呻いても、意識があるうちはけして媚びないところとか。何度組み敷いても屈しない愚かな強情さが、

羞恥に歪む様が、グンジの本能を刺激する。

 はじめは好きなだけ嬲って、飽きたら殺すつもりだった。いままで捕まえて遊んだ、数え切れない玩具と同じように。

けれどいくら貪っても、弄っても、グンジが望むような果ては見えなくて。白い膚から薫る汗の匂いや、噛みしめた唇の

隙間からかすかに漏れる艶のある嗚咽や、とろりと潤む瞳に自分のほうが逆に溺れて、気がつけばがっちりと繋がれて

しまっていた。いまじゃサビシク独り寝なんて、絶対できないってほどに。

「ネコ、ネコ、ネッコちゃ〜んっ」

「ッ……よ……るなっ」

 すり寄る巨躯から逃げようと腰を浮かすネコを、強引に抱き寄せる。抗う四肢をあっさりと封じ、時々折ってしまいたい

衝動に駆られる細い首筋に軽く歯を立てれば。腕の中の躯がびくりと震え、碧の双眸がグンジを睨みつける。

 果敢に向かってくるその視線の強さに、ごくりとグンジの喉が大きな音を鳴らす。

 ああ、この目だ。やっぱり此奴はイイ。

ゾクゾクとした快感がグンジの背筋を駆け上がり、全身の細胞が目覚めていくような感覚にとらわれる。火種を投げ

込まれた竈がゆっくりと燃え盛るように、下肢に生まれた熱が昂ぶってゆく。まなざし一つでこんなにも自分をソノ気に

させるネコが、可愛いくも憎らしい。

 湧き上がる衝動のまま、グンジは羽交い締めにした細腰にぐりぐりと自分の腰を押しつける。密着した服の上からでも

わかるほどはっきりと主張するそれを感じ取り、ネコと呼ばれた青年はカッと頬を染めた。

「あ、アンタ……は、それしかないのかッ」

 顔を赤らめ忌々しげに吐き捨てるその口ぶりさえ、妙に甘く感じて。ヒャハ、と奇声をあげグンジは嗤う。

「ったりめーじゃん。腹もふくれたら、あとはヤるこた一つだろ〜」

「っ、俺に構ってる暇が……あったらッ、仕事いけよッ」

「ザーンネン、今日は雨でお休み〜」

 だから、たっぷり可愛がってやるよ。

低く囁いて、目の前にある柔らかそうな耳朶に噛みつく。びくびくと震えるネコの耳に舌先を差し入れて掻き回すと、くぅと

鼻にかかった小さな喘ぎが引き結んだ唇から漏れた。

 せつなげに眉を寄せ快楽をやり過ごそうとする獲物の媚態に薄く笑い、ほっそりとしたうなじに所有の痕を散らす。

更に弄ろうとふと視線を落とせば、骨の浮いた指が目に映る。

 しばらく切ってなかったせいか、白い爪先は長く伸びて本物の猫の爪のようで。ああ、そういやここ数日背中がヒリヒリ

してたなと思案して、グンジの口元が意地悪く歪んだ。夜明けまで続いた飼い猫の痴態をまざまざと思い出して。

 昨夜のネコは本当に愛らしかった。いつもの荒っぽい愛撫をほんの少し柔らかいものに変えただけで、ひどく戸惑った

ように身悶えて。反応が面白くて、気まぐれに優しく解して揺すったら、もっと続きを強請るように縋りついてきた。溢れる

嬌声を堪えるように、グンジの背を強く掻き抱いて。

 行為に没頭している時は気づかなかったけれど、自覚してしまうと傷口からむず痒いような疼きを感じる。前の傷が

消える間もなく新しく上書きされたから、すこし熱を持ってるのかもしれない。

 ちっとも素直じゃない飼い猫のおいたが妙に嬉しくて、グンジはにやにやと頬を緩ませる。

 ベッドでじゃれつかれるのは大歓迎だし、正直ちょっぴり懐いてくれたような感じがして気分がいい。けれど、背中が

ひっかき傷だらけになるのは勘弁だ。そう思い、乱雑にしまってあった道具入れに片手を突っ込み、中から爪切りを

取り出した。

「気持ちイーことの前にぃ、悪戯大好きなネコの爪は切っとかないとなぁ〜……俺、傷だらけになっちゃうって」

 暗に背中の引っ掻き傷を茶化して嗤えば。一瞬なんのことかわからず、ぽかんと見上げていたネコの顔色がばっと

火でも噴きそうな勢いで赤く変わる。昨夜の行為を指摘され固く身を強張らせたネコの手をやすやすと捉えて、グンジは

伸びた爪に刃を当てた。

 パチン、と乾いた音をたてて半月の形に切れた爪がはらはらと床に散る。

右が終われば、次は左に持ち替えて。下手に動かないようしっかりと抑えながら、掌に掴んだネコの手を見下ろす。

 綺麗な手だ。

女のように柔らかくも、小さいわけでもない。細みではあるが、筋張った節のある造りはどうみても男の無骨な手でしか

なくて。それでもグンジは、この手を綺麗だと思う。

 戦うことは知っていても、一度も人の命を屠ったことのない、無垢な掌。幾多の人間を殺してきたグンジだからこそ、

わかる。このネコは――アキラは人を殺したことがない。おそらくは、ただの一度たりとも。

 彼からは血の匂いがしない。自分のように罪を踏み越えた者が持つ、特有の澱んだ匂いも。

 正確な年はわからないが、アキラはすくなくとも3つ4つは下に見える。大戦末期、前線に送り込まれた少年兵のなかで

グンジたちの年代が一番最後に派遣され、その半年後に終戦を迎えた。それから推測すると、アキラは年齢的にちょうど

訓練期間中に大戦が終了した世代だろう。戦場に行かずにすんだ、幸運な――そしてある意味不運な子供たちだ。

 幼い頃から敵を殺すことだけを叩き込まれ、それ以外の選択肢を与えられず。ようやく使い物になりかけたころには

戦争は終わり、今度は『人殺しはイケマセン』と牙を抜かれて戦後の混乱した世間に放り出された。ろくなフォローも

されることなく。

 わずかな期間で正反対の価値観を強制されても、素直に受け入れられるはずがない。そうした鬱屈が生み出したのが

Bl@sterであり、イグラだ。

 ままごとのようなBl@sterはまだしも、イグラにまで流れてくるようなヤツは大概ゲームを始める前に殺人か、それに近い

ことに手を染めてる。そんな箍の外れた奴でなければ、いくら富や名声なんてエサをちらつかせても自分の命を賭けて

まで殺人ゲームなんてやってられない。

 そう考えるとアキラはかなり珍しいのかもしれない。ひとりで闘えないほど弱いわけでも、生き抜くための覚悟がない

わけでもなく。それでいて、このトシマでイグラに参加しながら無傷のままでいるヤツなんて滅多にいない。ていうか、

ありえない。この汚濁の中で狂気に蝕まれることもなく、清浄な気配を保ち続けるなんて。

 爪を切り終えたアキラの指を自分の手で包みこんで、グンジは食い入るようにそれを眺める。

 いくら貶めても辱めても、あと一歩のところでするりと逃げてしまう、孤高のネコ。

自分と同じところまで墜ちてほしいのに、けれど握ったこの手はいつまでも白いままで、容易には染まってはくれない。

 どうしたら。どうしたら、コイツの全部を俺のものにできるんだろう。躯だけじゃなくて、この薄い胸の奥にある心まで一つ

残らず自分のものにするには、どうしたら……。

 ――やめろ。考えるな。

 すぅ、と。我知らず頭に血が上っていたグンジの喉を、冷たいものが滑り落ちてゆく。

熱く滾りかけた感情を急速にさましていくその冷気に、ぶるりと肩を震わせグンジは頭を振ってらしくない思考を打ち切る。

 そうだ。こいつは俺のネコで、玩具で。それ以上なんて求めてない。俺が「もういいや」って飽きるまで、ただ気持ちヨク

啼いてくれりゃいいんだ。

 腹の底で燻るもどかしさを振り払うようにアキラをきつく抱きしめ、その指を口に喰む。

戸惑って逃げようとするそれに軽く歯をたてて阻み、舌を絡めて執拗に吸い付く。

「あっ……くっ……」

 蠢く舌が掻き立てる淫らな熱を、自由なもう一方の手で口元を抑えながらアキラは必死に耐える。

 急にがらりと雰囲気を変えたグンジの行動についていけなくて。けれどもその変化が気になるのか、当惑したような

眼差しでアキラは自分を縛める男を見上げた。

 無言で問いかけてくる視線を拒むようにグンジは目を伏せ、舌を使う。指から手首、二の腕、肩口と痕を刻みながら

一回りは小さい体をシーツに押し倒し、逃がさぬようのしかかる。身の内に蟠る熱をアキラにも分け与える為に。

「んっ……ァ……ッ」

 次第に大きくなる甘い声と熱い吐息に酔い痴れつつグンジは蕩け出した身体を荒々しくまさぐる。

 いまはただ、アキラと早く繋がりたかった。隅々まで貪って、気の済むまで鳴かせて。そして灼けるような肉の感触に

飲み込まれてしまえば、何も考えなくていい。何も知らなくて、いい。必要ない。
 


 はじめて胸に芽生えた、不可解な感情。それをなんと呼んでいいのか判らないまま、グンジは腕の中の存在に耽溺

していった。