■pillow talk■



「アキラを食べてしまえたらいいのに」


 
 熱く蕩けた肌を甘噛みしながら、ぽつりと胸に浮かんだ想いを口に乗せる。

「……ナノ?」

「この目も」

 潤んだ瞳で戸惑うように自分を見つめる青年の眦を、そっと指でなぞる。このまま抉り

取って今すぐにも口に運びたい衝動を、溶け残った理性で抑えながら。

「舌も」

 薄く開いた柔らかな唇に、噛みつくようにキスをして。歯列を割って滑り込ませた舌先で

口内を嬲り、逃れようとする青年の舌を絡め取る。微かに漏れる吐息すらも惜しむように、

ふかくふかく貪りながら。

「指も、全部食べてしまえたら……ひとつになれるのに」

 案じるように頬へと触れる指を口に含み、強く吸う。母親に乳をせがむ赤子さながら、ただ

無心に歯み、ねぶり、啜る。心の奥底で凝る、仄暗いなにかに急き立てられるように。

 気が遠くなるほど長い間、凍りつていた感情が溶け出すにつれ、ふとした拍子に漏れ出す

もの。自分でもよくわからないソレは、時に嵐のように激しく渦巻き、出口を求めて荒れ狂う。

渇きを潤してくれる存在――アキラにむかって。

「……不安なのか?」

 かるく息を弾ませ、アキラの唇がささやく。

「――ふあん?」

 紡がれた言葉の意味がわからず、首を傾げる。

 不安。人間が持つ感情のひとつ。主として恐怖に付随するもの。知識としてはあるが、

実際にどんなものかよくわからない。誰も教えてはくれなかった。

「ここが」

 すっ、と。細くしなやかなアキラの手が、醜いひきつれや縫合痕の残る胸に触れる。

刻まれた傷をいたわるような指の動きが、心地よい。ずっとふれてほしい、と強請りたくなる

ほど。

「ざわざわして、息苦しくなる。すこしずつ心が蝕まれていくような、そんな感じ」

 訥々と、けれどわかりやすいように言葉を選んでアキラは説く。ざわざわして、息苦しい

――たしかに、そうかもしれない。ならば、自分はいま不安なのだろうか。普通の人間と同じ

ように。でも、何に?

「俺も、ときどきそうなる。こうしてナノに抱き締められてると、すごく安心するけど……ふっと

思うんだ。もし、この温もりを失ったらどうしようって」

 自らの弱さを口にするのは躊躇いがあるのか、ほんのりと頬に朱を散らしてアキラは小さな

声で呟く。

 誰よりも愛しいアキラの、恥じらう姿に堪らない衝動を覚えて。しかし同時に、思いがけない

驚きが胸に広がる。

 アキラが口にしたそれは、まさしく自分も感じていたもので。胸に凝っていた闇の正体を

はじめて理解し、そして抱いていた疑問がするすると解けていく。薄霧に包まれた視界が

晴れて、すべてが鮮明に見える。
 
 アキラを抱き締めるたび、熱く疼く心の裏で感じた一抹の苦しさ。幸せだと思うその一方で、

心臓を鋭い針で刺されたような微かな痛み。それは、失うことへの不安だったのか。

生まれたときから何ひとつ望むことを知らなかった自分が、はじめて手にした光を奪われる

ことへの。

 痺れるような甘い衝撃が、瞬時に脳天を突き抜ける。

ああ、本当に「人形」ではなく「人間」に戻ろうとしているのだ、自分は。普通の人間とおなじ

ように痛みを感じ、泣き、笑う。まだ泣くことはできないけれど、それでも以前なら知ることの

なかった「不安」という感情を、この肌の下に息づく心で確かに感じる。これが研究員たちの

云っていた、機械とヒトとの違いなのだろうか。

 溢れ出す感情に、意識が左右される。アキラと再会するまで殆ど体験したことのなかった

感覚に戸惑っていると、若木のような腕がそっと背に回された。ギュッと隙間もないほど

抱き締められ、淡い吐息が肩口を掠める。

「まだ、不安か?」

「よく……わからない」

「俺を食べて、ひとつになりたいか」

 わからない。自分のことなのに、なんと答えればいいのか本当にわからない。

「でも、ナノとひとつになったら、もうこんなふうに抱き締めてやれなくなるな」

 それでもいいか? と。闇の中でも仄かに輝く翡翠の双眸が、優しい光を宿して問いかける。

ただ静かに。

「……それは、嫌だ」

 アキラを食べてしまい気持ちは、いまも消えないけれど。

でも、このぬくもりをなくすのは、もっと嫌だ。首を振ってそう口を尖らせたら、アキラは少し

だけ目を見ひらいて、それからくすくすと笑った。我が儘な奴だな、と。

 そのまま腕の中で眠りについたアキラを見つめながら。覚えばかりの感情を、じっくりと胸の

中で反芻する。

 アキラが、全部欲しい。出来るのなら骨のひとかけらまで貪って、溶けあってしまいたい。

でも、そうしても飢えが満たされ消えることは、きっとない。この寂しさは一生自分が背負って

いかなければならないものだ。犯した罪とともに。

 けれど、どれほど苦しくて辛くても、この癒しの手を独り占めできるのなら。それも悪くない。



 重なる手に自分の指をしっかりと絡めて、握る。たとえ眠りの中でも離れることがないように。

 明日もこの熱が側にあることを祈りながら、ナノはそっと目を瞑った。