heatstroke





 ――暑い。

何度目になるかわからない呟きを口の中で転がして、アキラは壁に目をやる。

 リモコンの設定温度は二十四度。ベランダの室外機も獣のような呻り声をあげてガンガン

稼働してる。けれど部屋の温度計が指し示す数字は、二十八度のあたりで上下運動を

繰り返すばかりで。

 じっとしていても、額にはいつの間にか汗が滲み出してしまう。ついさきほどシャワーを

浴びて着替えたのに、もうシャツは湿りはじめていて少し気持ち悪い。

 観測史上始まって以来の猛暑は、彼岸を過ぎてもいっこうに緩む気配はなかった。

真夏日と熱帯夜が続き、ニュースでは毎日のように熱中症での死者の数を声高に叫ぶ。

連日この暑さに晒されているにもかかわらず、大戦前に製造されたエアコンが今も

壊れずに動いているのは奇跡に近いのかもしれない。快適というにはほど遠いけれど。

 室内ですらこれなのに、真っ昼間の外に出るなんて無理だ。確実に倒れる、いや死ぬ。

だから勘弁してくれ。

 そう云って――せっかくの休みなのに何処にも行かないなんてヤダ、とごねるリンを

――最近覚えた上目遣いの懇願で説き伏せたアキラは、家でいちばん涼しい居間の

ソファに寝ころび、残りあと一日となった休暇を満喫していた。

 ふたりで出掛けることを楽しみにしていたリンに悪いと思うけれど、流石にこの暑さは辛い。

日が落ちて少しマシになったら、リンと買い物にでも出ようか。満腹で眠くなり始めた頭の

隅でそんなことを考えていると、ふとアキラの目の前が暗く翳った。

「はい、アキラ」

 昼食の片付けを終え、麦茶を手にして台所から戻ってきたリンがもう一方に持ったアイスを

差し出す。オレンジ味のそれを受け取るとアキラは億劫そうな手つきで袋を開け、かちかちに

凍った先端を口に含んだ。

「んっ」

 途端にきん、と痺れるような痛みが歯茎から脳へ駆け上がる。

だがそれをやり過ごすと、心地よい冷たさが口内に広がり、ほのかな甘みが暑さと冷房で

乾いた喉をやさしく潤してゆく。

 ――生き返る。

 じんわりと体に浸みる涼に、うっとりと目を閉じて。アキラは頬張ったアイスキャンディを

無心に舐める。よく冷えたそれは、力を入れて噛みついても薄い歯形がつくだけで、食い

千切るにはまだ固い。仕方なく口を窄めて氷を溶かしていると、ふとこちらを凝視するリンと

眼があった。 

「……なんだよ」

 自分を見つめる熱っぽい青い双眸に、なんとなく居心地の悪さを感じてアキラはおずおずと

問う。

 リンの、このまなざしは少し苦手だ。瞳を通して心の奥底を見透かされているような、ひどく

落ち着かない気分になる。なにも疚しいことなどないのに、どうしても気後れしてしまう。まるで

叱られるのを畏れる子供みたいに。

 微かに警戒の色を浮かべたアキラの様子に、クッと喉を低く鳴らしたリンは肩肘をついまま、

屈託のない顔で笑った。

「んー、色っぽいなぁって」

「は?」

 咥えていたアイスから、思わず唇を離して。脈絡のないリンの台詞にぱちりと瞬いたアキラは、

怪訝そうに眉を寄せる。わけがわからない。いったい何を言ってるのだ、この真っ昼間に。

 もしかして、暑さで頭が沸いてしまったのだろうか。そんな微妙な表情で自分を見上げる

恋人にむかって、華やかな美貌の青年はふっと口の端を歪めた。

「どこにも行けなかったけどさ、こんな明るいうちからアキラのやらしい顔が拝めるなら、

うちで過ごすのいいかなって」

 やっぱり棒アイスって男の浪漫が詰まってるよね、と。

意味深な言葉を呟いてリンは悪戯っぽく笑う。そして、わけがわからず戸惑うアキラに顔を

近づけたかと思うと、薄く開いた唇を舌先でそっとなぞった。仄暗いなにかを呼び起こすような、

ゆっくりとした動作で。

 蜜で濡れた口唇を撫でる淫靡なその動きと、誘うような視線に鈍いアキラも漸く何を指して

いるのか思い至った。

「っ、リンッ!」

 理解した途端カッと頭に血がのぼり、頬が朱で染まる。

咄嗟に離れようとするアキラの頭部に素早く手を回すと、リンは深く唇を重ねた。

「ん、……ぅ」

 するりと歯列を割って入り込んだ舌先が、オレンジの味が残る口蓋を撫で、逃げる舌を

絡めとる。熱くぬめるそれは、まるで意志を持っているかの如くねっとりと口内をくまなく

探り、侵す。執拗に口腔を嬲って官能を掻きたて、怯え後退るアキラの理性をゆっくりと

溶かしてゆく。ささやかな抵抗すら封じ込めて。

「は、ふっ」

 貪るように塞いでいたリンの唇が、わざと湿った音をたてて離れる。長く激しい口吻に

心だけでなく体の力まで根刮ぎ奪われ、戒めの解かれたアキラはかくんと膝から崩れ

落ちた。

 床にへたり込んだアキラの手から、食べかけのアイスキャンディがするりと滑る。

フローリングの床にぶつかる寸前でそれを器用に受け止めたリンは、蕩けた表情で

ぼんやりと視線を彷徨わせるアキラの前にすっと差し出した。

「落としたよ」

 はい、と。にこやかに微笑みながら眼前に出された、橙色のキャンディにあらぬものを

想像してしまい、アキラは一気に現実へと引き戻された。

「い、……いらないッ」

 ぶんぶんと首を振り、ぷいとそっぽを向く。冗談じゃない。

あんなことを云われて意識してしまったら、もう口にできるわけない。食べ続けるなんて

無理だろう、普通。

「ふーん……じゃ、勿体ないから俺が貰うね」

 あまりの恥ずかしさで消え入りそうになっているアキラの前でリンは食べかけのアイスを

口に運ぶ。わざと見せつけるように舐める彼の舌の動きに昨夜の愛撫を思い出してしまい、

アキラはますます真っ赤になってリンから逃れるように俯いた。

 直接見えない所為だろうか。小さく笑うリンの声と、粘つくような水音がやけに耳に響く。

それが余計にアキラの羞恥を煽り立て動揺を誘う。体温が上がり、引いていたはずの汗が

また滲み出す。頬だけでなく、全身が焼けるように熱くてたまらない。

 ――ああ、くそ。

身の奥に灯された炎にジリジリと炙られ、アキラは舌打ちする。

 これ以上暑いおもいをするのが嫌で、うちで過ごすと決めたのに。

結局、家も外も同じだ。エアコンの前に陣取っても、いくら冷たいものを食べても、直ぐに

熱くなってしまうのだから。

 リンが側にいるかぎり。抵抗なんて、はじめから無意味だ。

半分自棄になりながら、それでも自分の意志でアキラは顔をあげて腰を浮かす。暢気に

アイスを舐め続けるリンの顎を強引に引き寄せると、噛みつくように――強請るように唇を

重ねた。



 お前が火をつけたんだから責任はとれ、と。期待に潤んだ目で誘惑、もとい脅しながら。