絶対領域



「悪いな、俺たちまで送ってもらって」

 後部座席に座ったアキラがそう声を掛けるとトウヤはバックミラーをちらりと見て笑った。

「気にすんな。どうせ一緒の方向なんだからよ」

「そうだな。酔っぱらいを運ぶのを手伝わせたんだから、これくらい当然だ」

「ユキヒト……ッ」

 窘めるように隣の男を呼ぶアキラを視界の隅に捉えつつ、トウヤはハンドルをきる。

以前はバイクばかり乗っていたが、後遺症の残る腕では繊細な操作は無理だ。その点、

車は障害の程度に合わせてカスタマイズできるので運転も苦ではない。もっとも、仲間内の

集まりがあると必ず送迎役にされてしまうのが難点だけれど。

 今日も帰り際に捕まり、泥酔した仲間のひとりを押しつけられてしまった。助手席まで

運ぶのに苦労していると、見かねたアキラが手伝ってくれたのだ。ユキヒトのほうは呆れた

ように眺めてるだけだったけれど。

 トシマで出逢ったころはいけ好かないヤツだと思い込んでいたが、うち解けてみると

アキラは気のいいやつだ。寡黙で感情の起伏が少ないせいかユキヒトと似たような印象を

受けるけれど、彼と違って皮肉屋なところもすれた部分もない。社交性もあまりないが、

困っている者がいれば迷わず手を差し伸べるし、誰に対しても真摯に対応する。取っつき

にくくみえるのは、ただ不器用な性格だから。それさえわかれば、根拠のないわだかまりが

溶けるのに時間はかからなかった。

「ほら、着いたぞ」

 車窓を流れていた景色が止まり、古ぼけた灰色のビルが街灯の光に照られてぼんやりと

浮かぶ。一年ほど前からアキラとユキヒトが同居しているアパートだ。

築年数はかなり経っているが頑丈で、家賃も近隣の物件と比べれば幾分安い。他に頼れる

近しい身寄りもなく、蓄えもそうないふたりにとって寝るところがあるだけで充分だった。

「乗せてくれて助かった。ありがとう」

 車が止まった途端、さっさと降りたユキヒトの後を追うようにドアから出ようとしたアキラが

振り向いて、小さく礼をいう。その声に呼び起こされたのか、助手席で泥酔して眠っていた

仲間が目を覚まし、もぞもぞと起き出した。

「へぇ〜……ここがユキヒトたちの家かぁ」

 酒で赤く濁った双眸を瞬かせて、青年は窓越しに建物を見上げる。そう言えば、彼は

工場の社員寮住まいで、ふたりのアパートにくるのは初めてだ。

「いいなあ、俺も早く金貯めて部屋借りたいよ。うちの寮、辺鄙なところにあってさぁ、

すっごく不便なんだよ」

 普段はアキラ(と側にいるユキヒト)の放つ独特な雰囲気に気後れしてろくに口もきけない

くせに、アルコールで正常な感覚が鈍っているのか、しきりに青年は「羨ましい」を連発して

絡む。酔っぱらいの愚痴など放っておけばいいものを、アキラも律儀に答えるものだから

二人の会話はなかなか途切れない。

 ――なんとなく、まずい方向にいきかけているような。

いつまでも喋って引き留める青年と、暢気に話すアキラを交互に見つめるトウヤの背を

嫌な汗が流れる。本音を言うと、ここにはあまり長居したくない。もっと正確には、あの部屋

には入りたくない。なるべくなら。

 しかしトウヤの願いもむなしく、アキラは決定的なひとことを口にした。

「なんなら、今日は泊まってい――」

「いやっ、此奴は俺が責任もって送りとどけるからッ」

 最後まで言わせないようにアキラの申し出を遮り、トウヤは窓から身を乗り出す青年を

車内へと無理やり引き戻す。冗談じゃない。あれを見せるわけにはいかない。

「うちは狭いけど、1人くらいならべつに」

「いやいやいや、ホントにおかまいなく」

 不満げな呻り声を上げる青年を押さえつけ、引きつった笑顔でトウヤは首をふる。

とにかく、はやく此処から離れなければ。別れの挨拶もそこそこに、トウヤは半ば強引に

発車する。助手席の青年はなにやら文句を言っているが、まるっと無視した。

こいつだって、あの部屋に入ってアレを見たら酔いも吹っ飛ぶはずだ。それどころか

居たたまれなくなって、のこのこ上がり込んだ自分の迂闊さを悔やむだろう。トシマでは

そう珍しくはなかったけれど、内戦が終わり落ち着きを取り戻しつつある現在では、あれは

刺激が強すぎる。

 再会した当初の不協和音も薄れ、漸くアキラも仲間内に馴染んできた。せっかく

うまくいってるのだ。わざわざ波風を立てる必要はない。そうだ、俺はなにも見ていない。

知らない。知りたくもない。

 セミダブルのベッドに並んだ、ふたつの枕の意味とか。たまにアキラの襟足にちらりと

見える、赤い鬱血痕とか。吃驚して振り返ったときにかち合った、ユキヒトの底意地の

悪そうな微笑みの真意なんて理解したくない。

 知らない、なにも見ていないんだ。そう自分に強く言い聞かせて、トウヤはアクセルを

思いっきり踏み込んだ。考え出すと止まらない妄想を吹っ切るように。



「どうしたんだ、トウヤのやつ」

 慌ただしく去っていったトウヤの様子が気になるのか、部屋に戻ってもアキラは

訝しげに窓の外を見つめる。彼に背を向けたまま、冷蔵庫からペットボトルを取り出し

一口飲んで

「……まぁ、気を遣ってくれたんだろうな」

 と、ユキヒトが小さな声でぽつりと呟けば。よくわからないといった表情でアキラが

振り返り、首を傾げる。どうやら本当に理解してないようだ。この部屋を、正確にはベッドに

ふたつ並ぶ枕を見られたなら、どんな反応をされるのか。

 本当にアキラは鈍い。鈍すぎる。よく今まで何事もなく育ったものだとユキヒトは思う。

Bl@sterの個人チャンプという肩書きがあれば、色々とよからぬ理由で近づく人間も

多かったはず。それなのにここまで世間ずれしてないということは、やはり本人の資質の

問題なのだろう。頭は悪くないのたが、ひとりでいることに慣れきっていた為か一般的な

ことに疎いのだ。

 最近は――トシマで出逢った頃よりも甘さが消え――随分と大人びてきたけれど、

こうして無防備な顔をすると途端にアキラは子供っぽくなる。ユキヒトと暮らすようになって

昔よりずっと人と接する機会が増え、社会に適応できるようになっても根本的な部分は

かわらない。自分が他人からどう見えるかということに無頓着なのだ。それはユキヒト

自身も似たり寄ったりで、とてもアキラに説教できる立場ではないけれど。

 けれど、もう少し危機感を持たせたほうがいいかもしれない。そうは思うものの、今の

ほどよい距離感はとても心地よくて。これを壊してしまうのは正直惜しい。本人がわかって

いないならいいか、とつい先延ばししたくなるのだ。それに、見た目より初心なアキラを

からかうのは実に楽しい。特に、冷たく整った顔立ちが自分の言葉で恥じらう様子は、

たまらなくそそる。あまりしつこくやると臍を曲げるので控えてはいるが、狼狽えるアキラは

可愛いと思う。もちろん彼には絶対内緒だけれども。

「それより、明日は早いんじゃなかったのか」

 ユキヒトがさりげなく話題を逸らすと、はっとしたような表情でアキラは時計を見上げた。

仕事があるから早めに戻ってきたつもりだったが、もう日付が替わりかけている。

 慌てて寝る支度をしてベッドに滑り込んだアキラにつられるよう、ユキヒトも後に続く。

電気を消して布団に潜り込むと、ふと強いにおいがした。なにか、と考えるまでもない。

これはアキラの匂いだ。

 暗闇で視界が遮られるぶん、嗅覚が敏感になっているからだろうか。

それともアルコールがなんらかの作用を及ぼしているのか、隣に横たわる体から誘う

ような甘い香りがする。嗅いでいるだけでじわりと頭の芯が痺れるような、腹の底が熱く

なるような不思議な匂い。雄の本能を強烈に刺激するそれに、ユキヒトは抗えない。

いつも。

「ッ、なにす……っ!」

 眠ろうとした矢先に背中から抱き竦められ、抗議の声を上げたアキラの唇が塞がれる。

ユキヒトの冷ややかな外見とはそぐわない、吐息さえ奪いつくすような激しいキス。

無理な体勢の口づけは苦しくて、けれど啄むように触れる唇はとても気持ちよくて。

突然の行為に強張ったアキラの体から力が抜けてゆく。

 苦しい、と訴える拳で漸く離してやると、潤んだ双眸がユキヒトを睨めつけた。

「……、俺はっ、仕事が――」

「だから、よく眠れるようにしてやる」

 そう言い切って、寝間着代わりのシャツの裾から手を潜り込ませて胸をまさぐれば、

ツンと尖ったふたつの膨らみが肌を這う指先に引っかかる。それを指のはらで潰す

ように捏ねてやると腕の中の体が面白いように跳ね、アキラの引き締まった臀部が

ユキヒトの下肢を擦りあげた。

「なんだ。誘ってるのか」

「ち、ちが……ッ」

 弱々しく首を振り離れようとするアキラの腰を捕まえ、力任せに引き寄せる。下着越しに

握った徴は、まだたいした反応はない。けれど掌で包んで指を絡めてやれば、引きつった

悲鳴と肉が脈打つ動きが伝わり、ユキヒトは口元をゆるめた。

「ユキ……ヒトっ」

 うっすらと笑う気配を感じ取ったのだろう。噛み殺そうとしても止まらぬ嬌声の狭間で、

アキラが非難まじりの叱責をとばす。自分では怒っているつもりだろうが、艶の滲んだ

声音では逆効果だ。強請っているようにしか聞こえない。そうユキヒトが耳元で囁くと、

泣きそうな顔でアキラが否定した。

「ち、ちがッ、俺は」

「気持ちいいんだよな、本当は」

 こうやって指で弄られ、擦られて。

ユキヒトの言葉を肯定するように、掌で扱かれたアキラの肉茎は熱を持ち、続きを

待ちわびているかの如くふるふると小刻みに揺れる。どこに触れてもやわらかく蕩ける、

しなやかな躯。既に何度も快楽を受け入れ、肌を重ね合う悦びは肉体だけでなく

心にも馴染んでいるはず。それなのに、彼はいつだって身の内に灯る情欲に怯え、否定

するのだ。体のほうはこんなにも素直なのに。

 本当に、強情な。幼さと隣り合わせのアキラの矜持は、ときにユキヒトをひどく苛つかせる。

破壊衝動というのだろうか。滅茶苦茶に壊して、汚したくなる。それが、いまだ完全には

消えない非Nicoleへの羨望なのか、それともアキラへの執着なのかわからないけれど。

「隠すな……全部、俺に見せろ」 
 
 激しく胸を突き上げる暗い衝動をなんとか抑えこみ、ユキヒトは止めていた愛撫を

再開する。耐えようとするアキラの理性を崩すように唇を貪り、優しく雄茎を扱き、刺激に

ひくつく臀孔を指で撫で、解す。直ぐにでも貫きたい、犯したいという本能の叫びを

噛み殺して。

「ん、あッ、ハァ……キヒ、トッ!」

 白い喉を仰け反らせてアキラが呻く。

欲望という炎でさんざん炙られたそれに、ユキヒトを拒む色はない。あるのは自分を

征服する雄を待ち望む、淫らで愛らしい響き。はやくグチャグチャに乱してほしいと懇願する

甘い声に、ユキヒトの眦がさがる。もやもやとした苛立ちが晴れ、かわりにあたたかなものが

胸を満たしてゆく。

「アキラ」

 先ほどとは違う、やわらかな声音でそっと名を呼べば。涙で濡れた瞼がふるりと震え、

白緑の瞳がユキヒトを映して瞬く。

 自分だけが映るそれに、泣きたくなるような安堵を覚えて。そんな己の浅ましさを心の

どこかで嗤いながら、それでもユキヒトは腕の中の存在に溺れずにはいられなかった。