水風船




 もう子供じゃないんだから、ほっとけばいい。

呪文のように繰り返した言葉は、けれど無意識に惹かれる彼の本能までは止めることが

できなかった。



「おいっ、ユキヒト! どこ行くんだよッ」

 花火の音と夜陰に紛れて抜け出そうとしたユキヒトを、目敏く見つけた仲間が呼び止める。

感づかれたことを胸内で舌打ちしつつ振り返り、彼は素っ気なく答えた。

「トイレ」

 短く告げるとユキヒトはチームの面々に背を向け、暗い河原を足早に駆け上がる。声を

掛けられたときはひやりとしたが、誰か追ってくる気配はない。これなら人混みで迷ったと

誤魔化して帰っても大丈夫だろう。後で適当に詫びを入れればいい。幸いなことに、今日は

すぐ側の神社で縁日も催されているから、かなりの数の見物客がいる。戻れなくなっても誰も

怪しまない。

 仲間の輪から外れて夜の闇に包まれた途端、かすかな開放感とそれ以上の強い焦燥が

ユキヒトを急き立てる。

 先ほどから胸に流れ込んでくる、不思議な感覚。じわじわと心臓を真綿で締めつけるような

この寂しさは、ユキヒト自身のものではない。これは、アキラの感情。それが風に乗って漂う

彼の匂いに溶け出して、せつなくユキヒトを誘う。魂まで絡めとられるような、抗いがたい

ほどの強い力で。

 いつからこんな能力が備わったのか、それはユキヒトにもわからない。はじめはただ、

側にいると僅かに香る程度だった。ふと気がつけば、引きつけられてしまう不思議な匂い。

それがアキラのものだとユキヒトが認識するようになると、力は急速に開花した。

 多少離れていようが、雨などでかき消されない限りは自分でも驚くほど正確に彼の居場所が

わかるのだ。もちろん変化はそれだけではない。更には匂いに混じる微妙な質の違いで、

おおまかな感情すら読み取れるようになってしまった。

 アキラがどんなに表情を消して本心を押し殺そうと、いまのユキヒトにはあまり意味がない。

彼の体から立ちのぼる匂いが隠された気持ちを全部伝えるのだから。さすがに複雑に混ざり

合ったものは読みづらいが、怒りや哀しみといった感情なら顔を見なくても手に取るように、

いや頭で理解するよりも早く心が勝手に反応してしまう。こんなふうに。

 一歩進むごとに強まる匂いが、そこに含まれる心情の欠片がユキヒトを否応なく煽る。

ああ、まずい。これはあまりよくない匂いだ。きっとアキラは悪いことばかり思い出してる。

あいつは何でも自分の中に抱え込んで、限界まで溜めてしまうから。

 神社にひとり残したアキラが何を考え、なにを思っているのかまではわからない。けれど

ひどく心細く感じていることだけは、離れていても嗅ぎ取れる。

 はやくアキラのところに戻らないと。意識するよりも先に動く自らの体に、ユキヒトは眉を

寄せる。これでは仲間達に過保護だと笑われても仕方ない。けれど自覚があってもアキラに

関することだけは虚心ではいられないのだ、いつだって。

 本当は、打ち上げ花火が終わるまでほっておくつもりだった。久しぶりに仲間と騒ぐのも

楽しみだったし、なによりアキラ自身に腹を立てていたから、怪我をした彼を置いていく

ことにもさして躊躇しなかった。たぶんトウヤに嫉妬していたこともあるだろう。

 初対面ではあんな険悪だったくせに、最近のふたりは妙に仲が良い。根が素直ですれた

ところのないアキラを気に入ったのか、なにかにつけてトウヤは世話を焼きたがる。それは

あくまでも厚意からであって、自分が抱く感情とは違うと理解していても、目の前で見せつけ

られてはユキヒトも面白くない。ずっと目を逸らしていた――避けていた事実を、認めるしか

ないから。

 どうしようもなくアキラに惹かれていること、そして彼が他人を惹きつけてしまう性質である

ことも。それはまるで闇に浮かぶ誘蛾灯のように。

 トシマで初めて出会ったときから薄々感じていたが、どこにいてもアキラは目立つ。それが

整った容姿のせいか、それとも本人の持つ雰囲気だからかは区別がつかないが、黙って

いても自然と他人の目を引き寄せてしまう。ある種の人間にとっては凶暴な欲望を掻き立てる

ほどに。

 今まで奇跡的に無事だったのは、アキラ自身が他人に無関心で接触を拒絶していたからだ。

心の緒を固く結び頑強な鎧で隙間無く覆っていたからこそ、邪な関心を引いてもそれ以上

踏み込む者はいなかった。でも、いまは違う。

 ユキヒトと暮らすようになってアキラは変わった。ゆっくりとではあるが他人を受け入れ、

また自ら人の輪の中に入る――のはまだ戸惑いがあるようだが、とにかく努力の跡は窺える

程度には成長した。自分の殻に閉じ籠もることを止め社会に適応できるようになったことは、

ある意味喜ばしいことだと思う。だがそれは同時に、ユキヒトの心労と苛立ちを増やす結果に

なった。

 意識の垣根が低くなれば、それだけ警戒心も緩む。ただでさえよからぬ人間を引き寄せやすい

くせに、当の本人にその自覚は無いのだ。アキラが自分で選別できないのなら、側にいる

ユキヒトが気を配って危険から遠ざけるしかない。

 そうまでして彼を守ろうとする自分の執着が――歪んでいるとユキヒト自身も認める――仲間

意識をとっくに超越した、熱く激しい感情から生まれることに、もう随分と前から気づいていた。

気づいていながら、ユキヒトは知らないふりをしてきた。自分の性格上はっきり認めてしまえば、

引き返せなくなるのはわかりきっていたから。

 二年かけて築いた今の関係を踏み越えることは容易い。けれど崩したいのは「同居人」で

止まったままのふたりの距離であって、アキラの信頼ではない。それに、今の彼は生まれたての

雛と同じだ。殻を壊して躍り出た世界で、空白だった内側とは違う混沌の中で、自分を確立しようと

必死に藻掻き、学んでいる。無知を恥じ、無力な子供だった自分を恥じ、前へ進もうとしている。

ようやく自分の足で立つことを覚えたばかりのアキラに、肉欲を伴った好意をぶつけても多分まだ

理解できないだろう。まだ早すぎる。

 だから、もうすこしだけこの気持ちは眠らせておかなければいけない。ひとつきりのベッドで

ユキヒトとは一緒に寝られても、他の人間だとなぜ駄目なのかをアキラ自身が自覚するまで。
 



 闇を揺らめき照らす橙の光が細い背中に降りそそぐ。

別れたときと寸分変わらぬまま、彼はそこに居た。石組みのベンチに浅く腰掛け、どこか所在

なげに下を向いて座っている。賑やかな祭りの空気に馴染めず、親に取り残された子供の

ように。

 雑踏の中にあっても一瞬で捉えたその後ろ姿に、ユキヒトはほっと息をついて。気づかれぬ

ように前に回り込み、俯くアキラに囁いた。

「――なにしけた面してんだ」

 頭上から落ちた低い声にびくりと肩を震わせ、弾かれたように白い顔がユキヒトを見上げる。

驚きと困惑と、かすかな安堵の入り交じったアキラの表情を見た途端、ずきりと胸が疼いた。

 やっぱり置いていくんじゃなかった。こんな寂しげな顔をさせるつもりじゃなかった。じわりと

溢れ出した後悔を呑み込んで、有無を言わさずアキラを背負ったユキヒトは神社を後にする。

捻挫した彼の足で家まで歩いて帰るのは無理だ。それに、このまま祭りが終わるまで残った

としても、とても楽しめる気分ではなかった。

「……なんで、戻ってきたんだ」

 ふいに掠れた問いかけが背後から聞こえ、ユキヒトの体が反射的に強張る。まずい。

不安げな匂いに気を取られて、ただアキラのもとに行くことしか考えてなかった。どうしてと

問われても、咄嗟に上手い言い訳が思いつかない。まさか本当のことは話せないし。

 暫しの逡巡の後、戸惑いの滲んだ声でユキヒトは答えた。

「……おまえが寂しがってるのが聞こえたからな」

 呟いた言葉はまるきり嘘でもない。「聞こえた」のではなく「嗅ぎ取った」が正しいけれど。

そんなこと言おうものなら、いくらアキラでもドン引きだろう。よくて変態呼ばわりか。

 思ってもみなかったユキヒトの答えに、ぽかんと口を開けて。次の瞬間、猛烈な勢いで

アキラは首を振った。

「そ、そんなこと言ってないッ」

「いいや、言った」

 肉声ではなく、心の声で。隠しても俺にはわかるんだ。

喉元まで出かかった本音を、すんでのところで呑み込んで。ため息とともに呟いたユキヒトの

肩を掴んでアキラが怒鳴った。

「言ってないっ!」

「言った」

「言ってないったら、言ってな――」

「わかるんだよ、俺は」

 いつまでも平行線な押し問答に、いい加減うんざりしたユキヒトがきっぱりと言い切る。

 いくらアキラが違うと言っても、匂いは嘘をつかない。認めたくないならそれでもいいし、

ユキヒトの戯れ言だと思うなら無視すればいいのに。どうして自分に対するときだけは、

こんなにもガキみたいにむきになるんだ、こいつは。憮然とした表情の下でユキヒトは密かに

毒づく。まったく、始末が悪い。その気はこれっぽっちも無いくせに、期待だけさせるなんて。

 アキラがユキヒトにだけ過敏に反応する理由。それが無意識の甘えだと薄々知っているから、

無下にもできない。淡泊だ、年のわりに枯れすぎだと言われていても、ユキヒトだって男だ。

執着する相手に本人も気づかない部分で信頼され、自分には心を開いているのだと思えば、

嬉しくないわけがない。時期がくるまでゆっくり待とうと決めたにもかかわらず、つい揺らいで

しまう。まだ駄目だと自戒するそばから心が潤びて、余計なことまで口に出てしまうほど。

「離れていても感じるんだ。……おまえの感情が」

 だから、俺には誤魔化すな。どんなことでも受けとめるから。

今はまだ言葉にできない想いを重ねるようにユキヒトは廻した腕に力を込め、人気のない

夜道を進む。晩夏とはいえ、日が落ちるとさすがに肌寒い。ユキヒトは秋の匂いのする夜風

からアキラを庇いつつ、遠くで鳴り響く花火に促されるように家路を急いだ。
 


 ありがとう、という小さな呟きを背に受けながら。