奇跡のring




 白い壁と、消えることのない白い光。

 頭の天辺から褄先まで無数に繋げられたコードとモニターに映し出される数値。そして、

管を通って体に注入される様々な薬物と効果を確かめる為の実験。

 それがナノの世界のすべてだった。すくなくとも、その日までは。



「――検査は終了だ、ナノ」

 スピーカーから溢れた無機質な声を合図に、傾いていた台がゆっくりと元に戻る。回りを

取り囲む大人達の手で体に刺されたコードをすべて外され、ナノは静かに身を起こした。

 冷たい台の上で裸のまま、次の指示を待つ。どんなことがあっても、みずから行動する

ことはない。常に「誰か」の命令で動く。そうなるよう物心つく前から「教育」された。いまナノを

チェックする男女――ENEDの研究者たちによって。

 いつ自分が生まれたのか。正確なことはわからない。推定で十年ほど前、選抜された

一組の夫婦が親だということしか資料にはない。出生時からの生体データは膨大なほど

記録されていたが、国籍や血筋を辿れるようなものはすべて抹消済みだ。だが、何故

造られたのかということなら理解していた。

 『Nicole』という驚異のウイルスに完全適合した実験体。何千何万いう失敗の果てに

生まれた、唯一の成功例。それがナノ――Nicole・Premier。

 他にもウイルス保菌者はいるが、ナノほどNicoleが馴染んでいる者はいない。未だに謎の

多いウイルスは、しかし絶大な恩恵を彼の肉体に与えた。

 普通の人間よりもずっと強靱な体。野生動物なみに発達した鋭敏な感覚。現在確認されて

いる致死率の高い病原菌や、生物兵器への優れた耐久性。生殖能力の低ささえ目を瞑る

なら、まさに人類が思い描いた超人そのものだ。

 生み出した科学者たちでさえ予想しなかった成果の結晶。それ故にナノは生まれてすぐ

親から引き離され、厳重に隔離されたこの研究所で育った。接触する人間も厳選され

行動も制限された。それだけでなく、思考のすみずみまで管理できるよう自我の発達も

抑制されたのだ。あらゆる手段を用いて。

 だからナノは逆らわない。どんな非道な扱いを受けても、どれほど激痛を伴う実験を

されても涙ひとつ浮かべない。もっと幼いころは泣いていたような記憶があるが、いまは

眉一つ動かすことはない。

「今日の実験は終わりだ。部屋に戻りなさい」

 白い被験者の服を着せられたナノは、指示通り研究室を出る。

勿論ひとりで戻ることはない。必ず研究員の誰かが同行する。わずかな変化すらのがさず

監視するように。いたるところにカメラの設置された、清潔で無機質な廊下をナノは黙って歩く。

付き添う男性職員も終始無言で、けして声をかけることはない。規則というのではなく、

怖れているのだ。自分たちが造り出したはずのナノを。

 まだ子供で従順だといっても、彼がNicole保菌者であることにかわりはない。血液の

接触以外で感染することはないと理解はしているが、それでも生理的な恐怖は消えない

のだろう。この男だけが特別なのではない。此処では、ほとんどの人間が同じような反応を

する。それが普通なのだ。

 このまま部屋に戻り、食事を取って、簡単な検査のあと眠る。

いつもとかわらないはずのナノの一日は、次の角を曲がったところでささやかな変化と

出逢った。

「あら、もう実験は終わったの?」

 穏やかな声が頭の上から落ちてきて、ナノは顔をあげる。

見上げた先には年齢不詳の女が立って、薄い縁なしの眼鏡ごしにこちらを見つめていた。

「あ……副所長!」

 急に現れた白衣の女に、付き添っていた研究員は弾かれたように姿勢を正す。

この研究所の科学者たちを事実上統括している存在が目の前にいるのだ、畏まるなという

ほうが無理がある。緊張する職員は一顧だにせず、女はゆっくりとナノに近づく。さほど

高くない背を屈めると、短く刈り込まれた金茶の頭を撫でた。

「今日はどうだった」

「問題ありません」

 叩き込まれマニュアルどおり、ナノは機械的に答える。

子供らしい高い声音でありながら、一切の感情の欠落した人形のような口調が不快だったの

だろう。側に立つ研究員の顔にあからさまな嫌悪の色が浮かぶ。見慣れた表情だ。この

研究所で働く人間なら誰もが一度はナノに向ける、蔑みの眼。

 だが中には、この女性科学者のように時折変わり者もいる。

いくらナノがウイルス適合者で実験体だと解っていても、まだ十歳そこそこの少年が大人でも

根を上げるような過酷な実験を受けることに幾許か良心が咎めるのだろう。まるで普通の

子供を相手にするように話しかけ、気安く接するのだ。こんなふうに。

「そうだ。あなたに見せたいものがあるのよ」

 ついてきなさい、とにっこりと微笑んで白衣の女はナノの手を取り、部屋とは別方向に歩き

始める。研究員が慌てて引き留めたが、女はまったく意に介すことなくそのまま進んだ。

 迷路のように長い通路を何度も曲がり、設置された幾つものゲートでチェックを受けて。

手を引かれて向かった先は、ナノが日常生活する棟とは別の真新しい研究棟だった。

 ほとんど音のしない自動ドアが開き、電子パネルで照らされた薄暗いモニタールームが

現れる。

「あ、副所長――と、ナノ?!」

 女と共に入ってきたナノを見て、中の職員のひとりが声を上げる。

それに気づいた主任らしき男が眉を顰め、連れてきた女へと向きなおった。

「困ります。ここはまだ設備が万全ではないのですよ」

「この子なら大丈夫。教育は完璧よ。他の被験者のように突然暴れることなどないわ」

「しかし、ナノを勝手に連れてきては……」

「いいじゃない。ただ見せるだけよ」

 苦言を遮り、女はきっぱりと言い切る。

直属の上司よりもっと上の人間にそう押し切られては、反対する余地がない。男性職員は肩を

竦め、ナノを大きなガラスの前に促した。

「見てごらん、ナノ。ここにいる赤ん坊はみんな君の兄弟たちだ」

 どこか誇らしげに響く声を無視して、ナノは強化ガラスの向こうを見下ろす。

 ズラリと並んだ保育器と、その中で眠る嬰児。それらは皆ウイルスの受容体を生まれ

ながらに持つ子供たちだ。ナノの誕生以降ひとりとして完全適合者が現れないことに業を

煮やしたENEDは、寄せ集めた子供へ無差別にウイルス投与するよりも、現段階で判明

している適合因子を遺伝子操作して掛け合わせ、提供された母胎に戻して生産する道を

選んだのだ。

 この赤ん坊たちは、その記念すべき最初のナンバーズとして数ヶ月前に生まれた。

近い将来ここにいる嬰児たちの中から、第二第三のNicole・Premierが必ず誕生する。

男性職員の熱弁を聞き流しながら、もっとよく見ようとナノはガラスにぺたりと張りつく。

彼が興味を示したことに、科学者たちは目を瞠った。

「あらあら……やはり血の中のNicoleが呼び合うのかしら」
 
食い入るようにカプセルを凝視するナノの背後で少女の様な笑い声と、それに追従する

ような複数の苦笑が響く。普段なら少し哀しくなるそれも、今日のナノには不思議と気に

ならない。目の前に、もっとよいものがあるから。

 自分の仲間になるかもしれない、生まれたての子供たち。弟妹ともいえる赤ん坊たちを

熱心に眺めるナノの紫の瞳が、ふと一点で止まった。

 三列に並んだ保育器の、一番奥。最も端に位置するカプセルの中で眠っていた赤子が、

ぱちりと目を覚ます。常人ならば遠くて見えない距離だが、異常に発達したナノの双眸は

その動きをひとつも逃さず捉える。

 まだ眠り足りないのだろうか、大きなあくびをもらして赤子がふにゃふにゃと身じろぐ。

薄い色彩の両眼が不思議そうに回りを見廻し、そして。厚いガラス越しにナノと目が合うと、

小さな体を揺らして嬉しそうに笑った。









 ――眠れない。

規定通りの時間にベッドに入り照明も消されたのに、ナノの目は冴えたままだった。

 いつもなら瞼を閉じればすぐに闇が広がり意識が溶けていくのに、今日はどれほど待っても

眠くならない。不思議なほど精神が高揚して、安息を拒むのだ。

 ナノは体を起こし、ベッドから降りる。トイレにいくふりをして監視カメラの死角に入ると、

壁の換気用ダストの金具を外して通気口にすばやく身を押し込んだ。

 大人では窮屈すぎる細い通路も、幼いナノには充分な幅があり楽々と進んでいく。蜘蛛の

巣のように建物中へ張り巡らされたそれを迷うことなく通り抜け、目的の部屋へと無事辿り

着いた。保育器が並ぶ、あの新生児室へと。

 ナノは昼間見た監視カメラの位置を頭の中で確認しつつ、目当てのカプセルに忍び寄る。

幸いなことに見張りはひとりもいない。モニタールームですべて数値化して管理できるぶん、

可視での監視が疎かなのはナノが暮らす研究棟と変わりなかった。もっとも、その杜撰さの

おかげでこうして入り込めるのだけれど。

 薄暗い室内を這うように進み、ようやく目的の保育器に辿り着く。ナノがそっとガラスに

顔を近づけて中を覗くと、驚いたことに赤ん坊は起きていた。やっとすわったばかりの頭を

ゆらゆら動かし、眼に映るものにむかって玩具のように小さな手を伸ばす。そしてナノを

みつけると、花が綻ぶように無邪気に笑った。まるで彼が訪れるのを待っていたように。

 じん、とナノの胸が熱くなる。

 この世の綺麗なものだけを集めて作ったような、愛らしい笑顔。裡から輝くように

つややかなバラ色の肌は、指で触れたくなるほど柔らかそうだ。ガラスで遮られているから

叶わないけれど、きっと顔を埋めれば甘い匂いがするだろう。

 おぞましいウイルスを植え付けられ、いずれは生体兵器となる運命を持つ子供。自分と

おなじもののはずなのに、この子はどうしてこんなにも光り輝いているのだろう。赤子を

見つめるナノの胸が、かすかに疼く。

 この痛みはなんだろう。せつないような、嬉しいような。心の深奥からとめどなく溢れる、

熱い気持ち。正常な情緒の発達を故意に阻害されたナノには、いま自分の心をざわめかせる

感情が理解できない。わからないけれど、でも目が離せなくてカプセルの中で笑う赤子を

ただ見つめ続ける。

 常識で考えれば、この月齢の乳児が他者を認識し笑うことなどあり得ない。これは、

ただの反射。笑っているように見えてるだけ。頭に詰め込まれた知識はそう教えるけれど、

それでもこの子は自分を見ているようにナノは思う。

 光の加減で青にも緑にも輝く、宝石のように美しい双眸で。


 ――いつか。この赤子がもう少し大きくなって再びまみえた時、またこの綺麗な目で

ナノを見て笑ってくれるだろうか。そうしたら、この生きながら乾いていく侘びしさも消える

かもしれない。

 この子が、自分の仲間になってくれるのなら。

 その空想は今まで想像したどれよりも楽しくて、心が浮き立って。

自分でも気づかぬうちに、ナノは笑っていた。それは笑顔というには曖昧で、ぎこちない

ものだったけれど。