かすれた声で呼ばれたら




 彼の有り様を、疎ましいと思ったことは一度もなかった。




 つい人の顔色をうかがってしまうのは、争うことが嫌いだから。

穏やかで優しい性格は時にもどかしさを覚えることはあっても、けして嫌いではなかった。

黙って立っているだけでも他人と衝突しやすい自分にとって、彼は身構えることなく付き

合うことのできる唯一の親友だったから。面と向かって聞いたことはないけれど、彼もそう

だと思っていたのだ。すくなくとも、あの日までは。

 それなのに、どこで間違ってしまったのだろう。

様変わりした彼の双眸に宿る、強い光。目眩がするほどの激しい怒り滾らせて、彼は

全身で叫んでいた。おまえが憎い、と。この手で殺してしまいたいと。

 侮ってなどいない、嫌ったことなどないと、いくら弁明しても既に離れてしまった心に

届くはずもなく。気づいたときには、すべてが遅かった。幼い頃からいつも側にあった

温もりは、最悪の形で失われてしまった。永遠に。





 声が、聞こえる。

 深くはてのない暗闇で眠るアキラを揺り起こす、静かな歌声が。

低く緩やかな調子で奏でられるそれに、凪いでいた心がざわりと疼く。いやだ、目覚め

たくない。身を灼くような悔恨や絶望も届かないこの深淵で、ずっと微睡んでいたい。

それなのに闇の中まで響く歌声は、抗いがたいほどの強い力でアキラを夢の世界から

引き摺り出す。

 尽きることのない哀しみが待つ、現実へと。


 覚醒の余韻に浸りながら、ゆっくりとアキラは瞼を開ける。

視界に広がるのは灰色の壁。一切の内装を排除し、剥き出しのコンクリートが天井まで覆う

薄暗い半地下の部屋。何日か前、決死の覚悟で逃げ出した牢獄――グンジの私室。また

連れ戻されたのだ、自分は。ひそやかな落胆と、それと同じ重さの安堵を覚えてアキラは

目を瞑る。

 あの日、ここから抜け出した時はまだ希望を捨ててはいなかった。はぐれてしまった

ケイスケを見つけ、ふたりでトシマを脱出するのだと、そう思っていた。中立地帯に向かう

途中の路地で、変わり果てた彼と再会するまで。

 返り血で汚れた頬を無造作に拭いながら、ケイスケは嗤っていた。

どす黒く染まったおおぶりのナイフを握りしめたまま、何がおかしいのか肩を震わせて。

自らが手に掛けた死体を踏みつけ、薄ら笑いをはりつけた顔はまるで別人のように醜悪で、

吐き気がした。

 信じられない。これがあのケイスケなのか。気弱で、でも日だまりのように温かく優しい彼が

こんな惨いことをするなんて、信じたくない。悪い夢を見ているのだ、きっと。

 けれど、振り向いてアキラを見つけたときの、あの顔。憎悪の光を宿し、赤く澱んだ瞳と

ぶつかった瞬間、認めるしかなかった。ケイスケがラインに取り込まれてしまったことを。

もう自分の声がとどかないほど、深いところまで。

 だから容赦なくぶつけられる怨嗟の言葉に心をズタズタに引き裂かれ、絶望に打ちひしがれる

頭上でナイフが煌めいてもアキラは動くことができなかった。残酷な現実を受け入れられず、

かざした刃がゆっくりと自身の胸に吸い込まれていく様を、ただ茫然と見つめるしかなかった。

 もし、あのとき自分を追ってきたグンジが現れるのが、一瞬でも遅れていたなら。ケイスケの

ナイフは、確実にアキラの心臓を貫いていただろう。振り落とされた切っ先を、グンジの鉤爪が

間一髪で薙ぎ払ったから僅かに頬を切り裂いた程度で済んだのだ。

 自分以上の力を持つ処刑人の登場で、いささか分が悪いと悟ったのか。飛び退いて距離を

取ったケイスケがグンジを挑発するようにナイフに着いたアキラの血を舐めたとたん、異変が

起きた。顔中の血管を浮き上がらせ、狂ったように胸元を掻きむしりながら彼はのたうち回って

暴れ、そして。

 苦悶の表情で全身を激しく痙攣させたかと思うと、プツリと繰り糸が切れたように動かなく

なった。濁った双眸を、これ以上ないほど大きく見開いたまま。

 最初は、なにが起きたのかわからなかった。

けれども地面に伏したまま急速に熱を失っていく躯が、呼吸を止めた唇が、容赦のない事実を

アキラに突きつける。たった今、ケイスケの命が喪われたことを。原因がなんなのか、はっきり

したことはわからないが彼は死んだ。自分の目の前で。

 それから先は、よく覚えていない。グンジが恐慌状態に陥ったアキラをケイスケの遺骸から

引き離し、荷物のように担がれたところまでは辛うじて意識があるものの、その後どうなった

のかまるで記憶がないのだ。

 切り裂かれたはずの頬が手当をされ、痛みも熱もほとんどないところから察すると、すでに

数日は過ぎているのだろう。

 ……ケイスケは。ケイスケの遺体は、まだあの路地に野晒しにされたままなのだろうか。

考えまいとしても、心は自然とあの瞬間に引き寄せられしまう。ケイスケの最後が瞼に焼き

ついて離れない。どうして、ああなる前に彼を止めることができなかったのだろう。トシマに

来なければケイスケが死ぬことはなかった。こんな場所で最期を迎える理由などなかったのに、

そうさせたのはアキラだ。

 自分が、ケイスケを死に追いやった。

 揺るぎないその事実が、アキラの胸を深々と抉る。眦がじわりと熱をもって潤み、こらえ

きれない嗚咽が喉をついて溢れだす。

 震える吐息を聞きとがめたのだろうか、細波のように響いていた歌声が途絶え、かわりに

大きな影がアキラを覆った。

「ねこ〜、起きたのかぁ」

 呼ばれ、思わず見開いた双眸に映ったのは端正な顔。間近に迫るグンジに息を呑み、

アキラは凍りつく。

 息が苦しい。心臓が激しく脈打ち、早鐘のように煩く鳴る。この部屋で行われた恥辱の記憶は

まだ鮮明で、グンジを見るだけで体が竦んでしまう。

「ん……もう熱はないみてーだな」

 のばされた大きな手が額に触れ、咄嗟にアキラは目を閉じる。

予告なく肌に置かれたグンジの掌が、たまらなく恐い。これは幾度となく身を切り裂いた鉤爪と

おなじ。自分を苛むもの。拷問の始まりを予感し、体が勝手に震え出す。

 けれど、今日はいつもと違った。

傷つけることしかできないはずの手が、労るように頬を撫でる。汗で張り付いた髪の毛を払い、

傷に障らぬよう皮膚をなぞる指先のおもいがけない優しさが、畏れしかなかったアキラの

胸に戸惑いが生まれる。なぜ急に態度を変えたのだろうか。この男はアキラのことなど拾った

玩具程度にしか思ってなかったはずなのに。

「外は危ないからなァ、もう逃げんじゃねーぞ」

 ねこはー弱っちいからな、と。アキラを覗き込んたままグンジが喉の奥で小さく笑う。

 狂気の消えた瞳は驚くほど透き通っていて、じっと見つめられると落ち着かない。恐怖とは

別の不可解な感情がアキラの心をざわめかせ、抗う気力を萎ませてしまうのだ。

 大人しくされるがまになっていることに満足したのか、グンジは上機嫌でアキラの世話を

やく。肌に浮かんだ汗を拭い、乾いた唇にペットボトルの口を寄せ、ゆっくりと中身を流し込む。

与えられる水を少しずつ飲み干しながら、ふと目覚める直前のことがアキラの頭を過ぎった。

 そういえば、浅い眠りの中で聞いた歌声のことが気になる。あれは、もしかしてグンジが

歌っていたのだろうか。

 パイプベッドとクローゼット以外ろくな家具すら置いてないこの部屋には、当然ながらテレビも

ラジオもない。意外に思えるが、それらから出る音をグンジが好まないためだ。隣のキリヲの

部屋なら小型のテレビはあるが、分厚い壁で遮られた此方側まで音が洩れることはまずない。

 つまりどう考えてもこの男しかいないのだけれど、耳に残るあの歌声と目の前のグンジが

どうしても結びつかない。あの優しく切ない声の主が、こいつだなんて。

「ん? どうした」

 アキラの物言いたげな眼差しに気づき、不思議そうにグンジが顔を寄せる。頬にかかる

吐息にギュッと身を強張らせながら、アキラは消え入りそうな声で呟いた。

「……うたが、きこえた」

 躊躇いがちにもらした言葉に、傍目にもはっきりわかるほどグンジが動揺する。いつもの

彼とは違う、ぎくしゃくとした不自然な動きが靄のように曖昧だったアキラの疑念を確信に

変える。やっぱり、あれは。

「さっきの――アンタが、歌っていたのか?」

 たどたどしい口調で訊ねると、見下ろす榛の目がすこしだけ狼狽えたように泳ぐ。まるで

母親に悪戯が見つかった子供のような、どこか頼りなげな表情でグンジは唇をとがらせた。

「……ッ、んだよ、下手だって言いたいのかよ」

「な、ち、ちがうっ」

 ふて腐れるグンジに慌ててアキラは首を振る。

違う、誤解だ。貶すとか、そんなつもりで言ったんじゃない。ただ――

「もっと……聞きたい」

 きれぎれの声で、アキラは胸に浮かんだままを口にのせる。

何故そう思ったのか自分でもわからない。処刑人を相手にこんなこと強請るなんて、おかしい。

自分は、どこか壊れてしまったのだろうか。

 己の突拍子もない言動に、まずアキラ自身が驚いて。それからグンジが目を丸くして、

戸惑ったような表情でアキラを見つめる。おもえば彼が今までアキラから引き出せたのは

拒絶と悲鳴、それと苦痛の滲んだ嗚咽ぐらいで、まともな会話などした覚えがない。必要性も

特に感じてはいなかった。数日前にグンジのもとから逃げ出すまで、アキラは人の形をした

玩具でしかなかったから。

 はじめて『アキラ』という存在を知ったような、そんな驚きの宿した瞳が激しく揺れ動き、

そして。なにかを確かめるようにグンジの手がアキラの頬に触れる。

 ゆっくりと輪郭をなぞる、固く節榑立った指。沢山の人の血を浴びて、その命を容赦なく

引き裂いてきた手。このトシマでは死神に等しい、処刑人の掌。それなのに自分に触れる

それは、なぜこんなにも優しくてあたたかいのだろう。

 ふいに泣きたくなって、胸の奥からこみあげるものを堪えるようにアキラは目を瞑る。

小刻みに肩を震わせながら耐えていると、しなやかで逞しい腕がアキラを捕らえ、強引に

抱きあげた。

「もう逃げねーっつうなら、歌ってやる」

 照れくささを隠すようにグンジがぶっきらぼうに呟き、アキラの耳をかるく喰む。

くすぐったさに身を捩りながら、それでも小さく頷くと頭の上で微かに笑う気配がして、やがて

低い歌声が部屋に響き始めた。

 微睡みへと誘う静かな旋律に包まれてアキラは再び目を閉じる。

自分を抱きしめる男に、もう震えるような恐怖は感じない。そのことがいちばん怖ろしいのだと、

心の何処かで薄々気づいていながらやわらかく身をつつむ熱を、アキラの為に歌うグンジを

以前のように拒むことはできなかった。