*桜咲くころ君を想う

 カラン、と。小さな鐘の音が涼やかに響いて、眩い金髪の青年が姿を現した。



 その店は、街の大通りからすこし離れた場所にあった。まるで人の好奇に満ちた

目から逃れるかのように、ひっそりと。

「ちわ〜っ、センセ居る?」

 外の路地よりも薄暗く閑散とした店内を、リンは慣れた足取りで進む。床に雑然と

置かれた箱や棚を器用に避けて頑丈そうな木製カウンターまで辿り着くと、

天使の形をした銀色の卓上ベルをせわしなく鳴らした。

「センセー、俺だけどさぁ……いないの〜、オーイ」

 カウンターに身を乗り出して奥を伺うが、誰かが出てくる様子はない。だが、

人の気配は確かに感じる。リンが来訪したとわかってるくせに、わざと出てこない

のだ。おそらくは彼のしでかしたことに激怒して。

「客が来店だっつってんだろ……鬼ババァ」

「――だぁーれが鬼ババァだ、このクソガキッ」

 挑発めいた小さな悪態を、耳聡く聞き咎めたのか。雷鳴のような怒号が奥の

部屋から迸り、リンと並んでも遜色がないほど堂々とした体躯の女性が姿を現す。

 年の頃は――尋ねた瞬間鉄拳が飛んできそうで聞いたことはないけれど――

三十後半といったところだろうか。黙っていればまだ充分に美人の範疇に入る顔を

険しく歪めた女は、既知の青年を見るなりスッと目を眇めた。

「あ、居たんだ。もう、呼んだらすぐ出てきてよ」

 注がれる剣呑な視線をさらりと受け流して「客商売なんだからさぁ」と、口を尖らせて

リンが抗議すれば。女は忌々しげに柳眉を歪めて、ケッと鼻を鳴らした。

「お前みたいにモノを大事にしない奴なんざぁ、客じゃねぇ」

 憮然とした表情で、この街一番の女技師はきっぱりと切り捨てる。

彼女の冷ややかな態度に、これは相当おかんむりだなと内心げんなりしながら、

それでもリンはいちおう言い訳をしてみることにした。

「いや、だからあれは色々と事情が……」 

「だいたいなぁ、普通に生活しててなんであそこまで壊れるんだッ」

 きりきりと眦を吊り上げながら、口から火を噴くような勢いで女がカウンターを叩く。

このあたりで最も腕がいいと評される義肢専門医の激しい口調にびくりと肩を竦め、

リンは大きなため息をもらした。

 たしかに、彼女が怒るのも無理はない。先日リンが持ちこんだ義足には弾が二発も

食い込んでいた上、かなりの負荷がかかったのか内部がガタガタに歪んでいた。よく

これで歩けたな、と制作者である彼女自身が呆れるほどに。

 自分が丹精込めて作った作品がそんな姿で出戻ってくれば、激怒するのは当然だ。

しかしリンにだって理由はあるのだから、もう少し聞く耳を持ってくれてもいいのでは

ないだろうか。……などと心の隅で愚痴を零しつつも、青年はもごもごと唇を動かした。

「えーと、悪いおじさん達に攫われたお姫さまを抱きかかえて逃げる時に、ちょっとね……」

「……抱きかかえって、……お前な」

 けして嘘ではないが、かといって真実からもほど遠い答えで言葉を濁したリンに、

女技師は心底呆れたように首を振る。

 いくらリハビリ次第で殆ど常人並に動けるようになるとはいっても、人ひとり抱えたまま

戦闘に巻き込まれて壊れないほうがおかしい。彼にあつらえたのはあくまで日常生活に

支障のないものであって、軍や警察に卸すような実戦を想定した戦闘用ではないのだから。

「つまりなにか、そのお姫さんのせいでドンパチに巻き込まれたうえ、アタシが作って

やった脚を壊した――と、そういうことだな?」

「……まあ、だいたい正解です」

 神妙な顔で頷くリンを横目で見ながら女はカウンターの引き出しから煙草を取り出して

口に咥える。マッチを縁に擦りつけて火をつけ味わうようにゆっくりと燻らしたあと、彼女は

固い声音で切り出した。

「……悪いことは言わん、そのお姫さんとやらから離れろ」

「センセ……?」

「そいつがお前とって大事なのはわかる。けどな、こんなことが続くようなら命が幾つ

あっても足りん。ましてお前は、既に一つなくしてるんだ」

 せっかく拾った命なんだから、無駄にするな。

厳しく突き放す物言いではあったけれど、その裏にひそむ彼女なりの優しさが嬉しくて、

リンは口元を綻ばせる。

「ありがと、センセ。……でも、それは聞けない」

「リン」

 眉を顰める女を軽く手で制し、青年は続けた。

「片足を失っても生きようと思えたのは、アキラが待ってるって信じられたからだ」

 切り落とされたあたりを繰り返し撫でながら静かにリンが呟く。自分が辿ってきた過去の

ひとつひとつを思い返すように。

「この空の何処かでアキラが俺を待ち続けてると思ったから、どんなに苦しくても我慢

できた。アキラにもう一度会うためなら、どんな痛みも耐えられた」

「……」

「やっと――やっとこの手に取り戻したんだ、五年もかかって。だから、もう絶対に

離さない」

 ぎゅっ、と掌に爪が食い込むほど強く握り締め、自らに言い聞かせるかのごとく彼は

囁く。

 仮令アキラの抱えるものがどれほど重くても、逃げたりなどしない。今度は必ず自分が

支えてみせる。もう二度と、アキラをひとりにはしない。

 揺るぎない意思を双眸に映して、迷いのない声でリンは言い切る。普段は飄々として

掴み所のない彼の、意外なほど強情な態度に女は息を呑み、やがて諦めたように

目を伏せた。

「自分の命より大事か、そいつが」

「うん」

「そいつのせいで一生追われる羽目になってもかまわないってのか?」

「アキラの側にいられるなら、いいんだ」

 青臭い若さを窘めるような問いかけに、けれど青年は些かの惑いもなく即答する。

「……そこまで覚悟決めてんなら、アタシが言うことはねぇ」

 長い沈黙のあと、短くそう告げて。節くれた女の指が、すっかり短くなった煙草を

カウンターの縁に押しつけて消す。そして緩やかな動作で身を屈め、下の棚から

何か重そうな包みを引っ張り出すと、どんとリンの前に無造作に置いた。

「次壊したら、覚悟しろよ」

 真顔で脅されて、怖々包みを開けてみれば。

幾重にも重ねられた包装の中から、すっかり綺麗に作り直された真新しい匂いの

する義足があらわれた。

「強度を上げてあるから前より多少重く感じるかもしれんが、お前なら使い

こなせるだろ」

 鷹のように鋭い目が「はめてみろ」と青年に無言で促す。

リンは言われるまま、いま装着しているスペアを外して新しいソレをとりつけた。

「……ッ」

 脚を持ち上げた瞬間、引きつれるような微かな違和感が膝から広がり、うまく

バランスがとれずに二、三歩ふらついてしまう。だが暫く店内を歩き回って動かすうちに、

その差異も徐々に薄く小さなものへと変化した。

「大丈夫そうだな」

 覚束ない感じだったリンの足取りが次第に安定していくにつれて、厳しかった

女技師の顔がやわらかく緩む。口ではなんのかんの言っても、自分の作ったモノが

人の役に立つのはやはり嬉しいのだ。

 不意に、青年の胸元に仕舞ってあった携帯が大きく震える。

歩行訓練に夢中になっていたリンはハッと我に返り、通話ボタンを押した。

「――ハイ、……オッサン? え、時間が早まった? ウソ、なんでもっと早く教えて

くれないわけッ」

 さきほどの凛々しさが嘘のように情けない声で青年が狼狽える。何事かと首を傾げる

女技師の前で慌てて携帯を切り、リンはばんと手を合わせて頭を下げた。

「センセごめん! 用事が入ったからもう行くね――コレ、ありがとッ」

「おい、リン」

「支払いはいつもの口座から引き落としで! じゃあねッ」

 彼女の返事も待たず青年はせっぱ詰まった表情でバタバタと店を飛び出していく。

嵐のように現れて消えたリンの後ろ姿を、女技師は盛大なため息で送り出した。





 執拗なくらい入念な身分照会と私物チェックを受けたリンが病室に辿り着いた時には、

既に連絡を受けてから一時間近くが経過していた。

「いない……」

 綺麗に片づけられた病室の戸口で、真っ青になったリンが茫然と立ちつくす。

予定の時間よりは前についたけれど肝心のアキラの姿がない。まさか、もう退院して

しまったのだろうか。一瞬過ぎった考えを胸内で即座に否定する。

 ありえない、それだけは絶対ない。いまだにアキラを狙っている者たちがいるのに、

彼ひとりだけで退院させるなんて源泉が許すはずがない。まだ病院のどこかにいるはず。

携帯が使えないことを歯痒く思いながら、とりあえずこの病棟を探して回る。

 アキラは警備付きの個室で厳重に隔離されていたから、別れの挨拶をするような

親しい相手もいない。もしリンを待っているとすれば、この科のロビーだろうか。さっき

通った時には見かけなかったけれど、入れ違いになったのかもしれない。踵を返して

廊下の角を曲がろうとしたリンは、不意に飛び出してきた影とまともにぶつかり、ぐらりと

蹌踉めいた。

「あ、すみま――」

「……リン?」

 聞き覚えのある――どころか、探し求める相手の戸惑う声が響いて。弾かれたように

顔をあげたリンは次の瞬間、声の主――アキラを抱き寄せた。

「アキラッ」

 自分より一回りは小さな身体を、強くかき抱いて。逃さぬよう腕の中に閉じこめたまま、

そっと囁く。

「遅れてごめん」

 待った? と。問いかける蒼い眼差しにアキラはふるふると首を振った。

「色々……処方箋の説明を受けてたから」

 訥々と話す彼の顔色は、一時期と比べても随分と良くなっていたけれど。それでも

まだ青白く、精彩に欠ける。病院での治療が終わり自宅療養に切り替わるといっても、

完全に回復したわけではないのだ。

 早く帰って休ませよう。抱きしめる腕に力を込めたリンの背後から、窘めるような声が

響いた。

「あー、リン。ここ病院だから、いちゃつくのは家に帰ってからにしろ、な」

 呆れの滲んだ、気怠げな声音に振り返れば。トレードマークの煙草を咥えられず、

なんとなく口の寂しげな源泉が頬を引きつらせて立っていた。

「あ、居たのオッサン」

「……俺がいなけりゃ、誰がアキラの退院手続きするんだ」

 あきらかに邪魔者扱いなリンの態度に、米神のあたりを小刻みにふるわせつつ源泉が

ぼやく。はなから解ってはいたものの、本当にアキラ以外が見えない青年の青さに

溜息しか出ない。

「ほら、書類はこれで全部だ。家の方は、既に警備担当者が安全を確認済みだから、

戻っても大丈夫だぞ」

 これ以上病院で盛られてはかなわない、と二人の身元保証人でもある男は厚い

茶封筒をリンに押しつけ、さっさと行けと手を振る。そっけない態度の中にも彼なりの

気遣いを感じ取ったのか、リンの腕の中でおとなしくしていたアキラがふわりと微笑んだ。

「今までありがとう、オッサン」

 淡くほころんだ笑顔は儚く、けれど息を呑むほどに綺麗で。

おもわず見入ってしまった源泉は、しかしその隣から発せられる不穏な空気を感じ、

見惚れていたことを誤魔化すように声を荒げた。

「ほらっ、さっさと行け」

 急き立てられるまま廊下から病棟入口まで追いやられたふたりは顔を見合わせ、

やがてくすりと笑いあう。

 やっと一緒に暮らせる。以前のように平穏とはいかないし、監視の目はつくけれども、

もう離れ離れになることはない。ずっとずっと側にいられる。そのことが、なによりも嬉しい。

「帰ろうか」

 すこし照れくさい気持ちでリンが呟くと、優しい笑顔がひっそりと頷く。アキラのこんな

表情を見るのも久しぶりだ。ENEDの残党たちから受けた投薬実験の後遺症なのか、

ここで治療を受けている間、彼は殆ど目を覚ますことはなかったから。いつ見舞いに

行っても眠っているか、苦しげに顔を歪めているかのどちらかで、そんなアキラを見るたび

リンは手助けのできない自分がとても歯痒かった。でも、それも今日で終わる。

 これからは自分がつきっきりでアキラの面倒をみられるのだ。それが嬉しくて密かに

浮かれていたリンは、不意になげかけられた言葉にぎょっとして立ち止まった。

「リン、足はどうかしたのか?」

 控えめな、だが嘘や誤魔化しを拒むような意志のこもった問いがリンの耳をうつ。

吃驚して振り返ると、少し後ろでアキラが物言いたげに見上げていた。

「え、なんで?」

「……僅かにだけど、引き摺ってるように見えたから」

 ぽつぽつと理由を告げるアキラの目敏さに、平静を装いながらもリンは舌を巻く。

彼に驚かされるのは、いつもこんなときだ。何に対しても無関心に見えるのに、この

緑翠の双眸の持ち主は時に驚異的なほど鋭い洞察力を発揮し、隠しておきたいことを

見事に言い当てる。どんな嘘も、たちどころに見抜いてしまうのだ。はっきり言って、

少々恐い。

 敏すぎる、と内心冷や汗をかきつつもリンは正直に話した。

「ああ、新しいのに替えたからさ、まだちょっと慣れてないだけだよ」

 できるだけ心配をかけないよう、つとめて明るく説明する。けれどリンが義足を

替えなければならない理由を、その原因が自分をENEDから助け出した所為だと

直ぐさま悟ったらしく、アキラは顔を曇らせて俯いた。

「……すまない」

「なんでアキラが謝るのさ。壊れたら取り替えるのは当たり前だろ」

「でも、それは」

 俺の――そう言いかける唇に指を押し当て、いつになく真摯な表情でリンは

言い切った。

「壊したのは俺なんだから、アキラが気にすることはないの」

 わかった、とすこし怒ったように睨めば。翠の瞳が激しく震え、やがてゆっくりと

アキラが頷く。それでもまだ迷いがあるのか、哀しげな光が瞳の奥でちらちらと

揺れるのがわかる。それがリンには切なく、歯痒い。

 アキラを悲しませたくない。できればいつも笑っていてほしい。けれどそう願うリンの

行動は、当人が望まなくても結果的にアキラを苦しめてしまうことが多くて。体格では

すでに追い越していても、内面の気質がそれに見合っていないという厳しい現実が

重くのしかかる。比べるのは愚かだと理解していても、すべてを捨てても強さを求めた

異母兄がすこし羨ましいとさえ思えるのだ。兄ほどの覚悟と力があれば、そもそも

アキラを奪われることなどなかっのに、と。

 放っておけばどこまでも暗く澱む思考を振り切り、リンはは迷いのない声でもう一度

告げた。

「大丈夫だから」

 だから心配しないで、と。

そう宥めてみても、彼を見上げるアキラの目から罪の意識が消えることはなく。リンは

ふっと溜息をつき、そしてなにか思いついたように唇を吊り上げた。

「じゃあさ、手つないで帰ろうか」

 ――俺がこけないように、アキラが引っ張ってよ。

悪戯っぽく笑って手を差し出すと、アキラは戸惑ったように目を伏せる。暫し迷うような

素振りをみせた後、おずおずと掌を重ね、リンの手に指を絡めた。

「いこう。アキラ」

 自分よりも体温の低いそれをしっかりと掴んでリンは歩き出す。猫のようにしなやかに、

そのくせ歩幅は病み上がりのアキラに合わせて、ゆっくりと。


  
 ENEDの残党は一掃できたものの、非Nicoleを求める輩は今も後を絶たない。

Nicole・Premierの消息も判らず、問題は山積みのまま。この先の見通しなんて何もない。

 けれど、ただひとつ。決めたことがある。

この手を二度と離さない。自分がアキラに寄り添い、守る。あの日、アキラをリンに託して

炎の中に消えたナノの分まで。



 自分のぬくもりで、少しずつ熱のこもり始めたアキラの手を強く強く握りしめて。

何処までも続く青空を見上げ、リンはそう誓った。この空の下、どこかでアキラの幸せを

願い続けているだろう孤高の青年にむかって。