戦闘機坊主

 文 よぐそとと          

 

 亡くなった母方の祖父の事をたまに思い出す事がある。いい爺様であった。道楽爺様であった。晩年の生き方の良い手本となる爺様であった。そんな爺様の七回忌に出席したのが高校のころであったと記憶しているので、実際亡くなったのは十年以上前ということになる。

 わたしは仏教が好きである。しかし仏教にかかる全てのものが好きと言うわけではない。とりわけ坊主に関しては失望する事も多い。そんな経験を初めてしたのが、かの道楽爺様の七回忌であった。 
 その日は祖母が朝から仏壇の位置について悩んでいた、「仏壇を北向きに向けると良くない云々…」などと相談を受けたが、わたしも解らないと答えると、祖母は都合よくあらわれた髪の長い坊主(この坊主を今後「トムキャット坊主」と呼ぶ事にする。理由は後述)に聞いてみた。
 返ってきた答えは「そんな事を気にしているからダメなんだ。」
 
この言葉を聞いた瞬間、トムキャット坊主に対する不信感がわたしを襲った。何がダメなのかははっきりしない、そんな事を気にするより仏道に励めとでも言いたかったのであろうか?しかし、わたしも祖母も道楽爺様の冥福を祈っているのは当然であって「仏壇の向きを変える云々…」もそういう気持ちから出た言葉であったのだが、トムキャット坊主はあっさり蹴飛ばしてしまった。
 それはさておき、法事は滞りなく終わり(滞ってもらっても困るが)トムキャット坊主は説法を始めた。題を勝手につけさせてもらうと「歎異抄のスバラシサ」とでもなるのであろうか?そこでわたしは初めて坊主と口を交わした。ちとその会話の記憶をたどってみると。


トムキャット「ボクのお父さんお母さんはケンカをよくするだろぅ?」
わたし   「しません。」
トムキャット「… でもそういう時になるとケンカするんだよ。そういう時は来るんだ、絶対!!」
わたし   「…」
トムキャット「こういう時に歎異抄を読むと良いんだ、そんなケンカを回避できる。
        うちの若い小僧にも読め読めと言っているんだ。」


 歎異抄と言えばせいぜい「善人なをもて往生をとぐ…」というくだりしか知らないのではあるが、どうやら夫婦喧嘩の特効薬であるだけでなく世渡りの方法までが書いてあるらしい。真宗の坊主であるトムキャットの夫婦仲はさぞよろしく、寺の小僧さんたちの前途は洋々…だろう。
 いや、そんな事はどうでも良い。要は先の仏壇移動問題にしろ「歎異抄のスバラシサ」説法にしろ、われわれが受けた印象は「面白くない坊主」であったことである。温厚なわたしの母ですら「次回は別のお坊さんにしてもらおう」と言ったのだから今から考えても相当なものであった事が思い起こされる。
 面白い人間というのは必ずしも面白い坊主と符合しない、しかし面白い坊主というのはたいてい面白い人間であろう。つまり、道楽爺様の七回忌に訪れた坊主は良い人間であったとしても、不快感を与えた時点で面白い坊主失格なのである。坊主は不快感を与えてはいけないというわけではないが、苦を滅する事を説いたのもまた仏教であるならば、わざわざ不快感と不信と言う名前の苦を与えに来てくださった坊主はいかがなものであろうか?面白い坊主の語り口は自分も含めた様々な心を覗いた経験がものをいうのか、われわれの心を見て話してくれる。母が「この次は違う坊主を…」と言ったのは葬儀そして三回忌と言う良い前例があった事に他ならない(その坊主の語りがどんなものかといえば月曜日のNHK人間講座での語りである瀬戸内寂聴さんの説法のようなものであった)。

 実はトムキャット坊主に関してわたしは伯母から、ある情報を得ていた。
「今度のお坊さんは寺の娘と結婚して、寺の後を継ぐために脱サラしてお坊さんになったんだって。」この言葉をまず聞かされて、よい先入観を持てというのが無理な話であったように思うが、実際来た坊主がその先入観に見合う坊主なのだからたまったものではない。「歎異抄のスバラシサ」をテープレコーダーのように語った後は、出された饅頭を小僧にやるために懐に入るだけ収めたのにも驚いた。小僧にやさしいお坊さんで良い坊主だネェ…と思う人はまずいまい。
 極めつけはお布施の袋を盆にのせて持ってきたときのトムキャット坊主の目の動きである。
 「トップガン」という映画を皆さん御存知だろうか?F−14(通称トムキャット)というアメリカの艦載機が活躍する映画である。この戦闘機が敵機を攻撃する際、ロックオンサイトという動くガンスコープのようなもので敵を捉え追尾ミサイルを発射するわけであるが、まさにトムキャット坊主の目はF−14の如く「お布施」という目標を捉えるロックオンサイトと化していた。その場に居合わせた人間もそれは見て驚いたと言っていたからここら辺も凄まじい。トムキャット坊主は茶を啜り饅頭を食らっていたが、ロックオンサイトは正確に獲物を捉えつづけていた。ミサイル発射スタンバイOKという構えである。
 当然ミサイルは発射されお布施はトムキャット坊主に渡ったわけであるが、皆どうも釈然としない気分にさせられたのは当然である。
 わたしはこの時、この坊主をトムキャット坊主と特別に命名した。

 人が山にあって「仙」 人が谷にあって「俗」となる。
「大法輪」という雑誌にこんな事が書いてあった。となればトムキャット坊主というのは、コロラド州グランド・キャニオンの底あたりにいるのではあるまいか?
 世の坊様におかれましては、エベレストとまではいかずとも富士山くらいは登ってもらいたいものであると、数年たった今でも思うのだ。
 道楽爺様のような犠牲者(?)を増やさぬためにも。

 

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