黄粉亭日乗
9月5日
    
 この黄粉婆、またやりやがった。前にもイベントに対する極端な弱さを露呈し、それに関わる人様に多大なご迷惑をかけ続けていた黄粉婆ではあったが、それらの反省はどこ吹く風、懲りる事を知らないとはこのことであろう。

 旧友が、本当に久しぶりに京都を訪れてくれるという便りを受けたのは夏も盛りの頃であった。前に会ったのはいつだったか思い出す事もできないくらい会うことができなかった友であった。何かの拍子に、電話やハガキやメールでほんのひと時便りを交わすだけであった友。会うことがなくても、何故かその絆は切れることなく、細々とではあるが繋がっているという縁が、そういうことの薄いあたしには何よりも掛け替えがないと思っている友であった。その友との久々の再会のチャンスを、あたしは小躍りする気持ちで楽しみにしていたのだった。と同時に今あたしが置かれている状況に少々の不安を感じざるを得ないことも事実ではあったが、何たった一日のこと、ただ周りの騒々しさに流されっぱなしではあるものの、それでも何とか日々頑張っているのだもの、この一日だけは神様も仏様も手放しで解放してくださるに違いないと期待に胸を膨らませていた(甘い甘い)あたしであった。

 仕事のほうは一向に片付かず、やはり日付変更を職場で迎えるのが定例となっていた。それにずっと懸念であった新しいシステムは、稼動後ひと月以上も経てから致命的なプログラムミスが発見され、このままでは通常の使用にも耐えることができないシロモノであるという事実が判明するに至り(というか、その事実にを、情報課員の皆さんがやっと認識するに至ったというか)、今まで苦労して深夜まで帳尻合せに奔走した努力はまったくの無駄足であったことを知らされたあたしは、それだけでもゲームオーバーな状況に陥っていたのだが、システム以外の部分では絶えることなく業務は流れていくのであって、日々の業務の遂行だけはシッカリせねばならないという義務感と、自分では到底手に負えそうにないという諦めと、絶対的な時間不足に悩まされる日々でもあった。
 私的な事ではやはりダディの病状も気になる。いよいよ本式に手術をせねばならん事態になっている。しかも手術をせねばならんという部位が全症例から見てもほんの数パーセントの発現率という部位であって、畢竟術例も少なく、執刀医であるドクターも今まで3回しか手がけた事がないということであった。他の部位であれば50回も60回もやっているというのに。それに同じ症例の他の部位の手術よりも危険率が高い。しかしこのまま外科的措置をせずに放置すれば、2年後までの生存率は極端に悪いこと。などなどをドクターの説明や素人ながらの調査でもって知ったのであったが、さすがの呑気ババァであるあたしも、いささか畏れを禁じえない事実。しかしダディよ、外泊とかいってウチに帰ってきてテレビに向き合ってゲームやってるかと思えばふらりとパチンコ行くのはどうかと思うぞ(爆)「だって退屈なんだもん」とはこれいかに!? あー呑気家系。まぁいいよダディはその呑気さで病に打ち克ってくれたまえ!絶対だよ!儲けで晩御飯奢ってくれてありがとう(ぉぃ)

 こんな近況のなか、一筋の光明はといえば、旧友との再会。久々の羽伸ばし。その友以外にもこれを機会になかなか会えないお友達も呼び寄せて旧交を温める会合にとセッティングに奔走してくれた人の尽力もあって、当日は賑やかになること請け合いで、本当に楽しみだった。友が訪ねてきてくれる日も決まった。9月5日の金曜日。花金の夜は久々に皆で会えるのだ。

 当日は、絶対に早く帰る意気込みでバリバリ仕事をし、それでもはみ出た部分に関しては放ったらかしにして次の日に回そうと固く固く決意していたあたしであった。よもや夜っぴて飲み明かすということはなかろうとは思ったが、月初めというのに6日の土曜日は休みをとる算段にしていた。そうすれば、夜更かしもオッケェ、はたまた仕事に行ってもオッケェという余裕が生まれると思ったからであった。当初は実にカンペキにも思えた日程のとり方だと思っていたのだが・・・

 そして今日。さて仕事もラストスパート。宴会の時間も迫っている。当初不参加を表明していた人達も会合に参加することになったという知らせを受け、否が応にも期待は高まる。
 どうしても今日中に課長のハンコをもらわねばならない書類があるものの課長の外出が長引いて事務所に戻ってこないという気がかりはあったが、もうそろそろ戻ってくるはずだし、宴会への多少の遅刻は覚悟の上で、もう自分的にはひと通りの終結に向かえるような気がしていた時、事件は起こった。あたしの担当する仕事のパートナー(というか、ヘッド。あたしはそのサブ)の書類の不備が露見したのであった。それらの書類はもうとうにピッタリ整合していなくてはならないものであって、今頃不備が露見したら一大事なのである。ヘッドはその書類の整合性を見出すためにここ何日も何日も苦心していたはず。あの苦心は何だった!? 事務所中を巻き込んで大騒ぎになっているなか、あたしは全身から冷や汗が出てしょうがなかった。刻々と過ぎる時間。それに加えて事務所に戻ってきた課長は非常にご機嫌がよろしくなく、怒気顕わに人々に指示を与えている。とてもハンコ下さいとは言える状況ではない。ヘッドも書類の不備部分を見つけるために係長とつきっきりで苦心している。あたしに無関係ではない業務ゆえに気が気でない。ヘッドが他にせねばならない仕事も山のように残っている。他の営業所に送らねばならないFAXの準備もなされていない。顧客に送る書類も準備されていない。わかったそれらの書類は準備しておこう。しかし何とか早く終らんか?一体どうすればいい!?
 そんな中で何度も気にして電話してくれる友。きっと宴たけなわのところを抜け出して心配してくれているのであろう。何で今日、どうしてこの時でなければならんのか。冷や汗と同時に涙も出た。

 事態が終結を迎えたのは、結局、深夜のことであった。もう宴会もお開きとなって散会してしまった。旧友は、一人暮らしの友の家に泊めてもらうことになっており、「じゃウチにきてね」とその友が最後まで気を遣って申し出てくれた。

 せめてご挨拶だけでも!だって長い事会ってないんだもん!久しぶりなんだもん!他の友とは会えなかったが、せめてチャンスが残っている人には一目会って話したい!で、あたしは急いでウチに一端戻り、走りに走って(マジ走り。ちゃりんこパンクで使用不可。嗚呼!なんでこういう時に!)その友のマンションのチャイムを鳴らしたのだった。

 がしかし。応答がない・・・ん?トイレでも行ってるのか?それもう一度。またまた応答なし。オートロックゆえ部屋のドアを直接叩くことができぬ。ええい恥をしのんでもう一回!よし今度は電話だ!呼び出し音は鳴るものの、これまた応答なし。走っている最中はあんまりかかなかった汗が、走るのをやめた途端にどっと流れる。オートロックのパネルの前で汗をダラダラ流しつつ茫然。ああ、寝てしまったんだわと気付いたのは20分も経った頃だろうか(アホか)
 そりゃそうだ。旧友はと言えば遠路はるばるの旅程と宴会で疲れたであろうし、マンションの友は一日仕事と宴会幹事を押し付けられたことで疲労しているであろうし、ウチに帰ればほっこりして眠くなる。それも12時過ぎてるし・・・道理だ。
 お詫びの言葉を携帯からメールして、(その実着信音で気付いてくれないかなぁという姑息な思いも持ちながら←ここらへんのあざとさが神罰を呼ぶ原因か)マンションをあとにした。

 なんか自分の大馬鹿さ加減に情けなくなった。

 涙を堪えると、鼻水と唾液が出るのだった。

 来た道の踏み切りには保線作業をする人たちが終電を待っていて、何だかその人達にまた会うのがイヤで(何でだ?)ちょっと細い道のほうへ行ったら迷ってしまってまたまた情けなくなった。
暗い道の行き止まりでボーッと立っていると本当に自分の大馬鹿さ加減というものが自覚され、さらに鼻水と唾液が分泌された。(汚ねーな!!!!)

 行きに走ったせいか、帰りには足が痛かった。これも、情けなさを増長してくれた。

 取り返しのつかない「たられば」を考えると、制服のまま黄粉モービルで直接マンションに駆け込めば間に合ったのか。結局、会いたい!という気持ちよりも、宴会に結局行けなかったあたしを気遣って言ってくれた「ワインあるよ〜」のお言葉に、卑しい気持ちと自分の保身(車を置いて行こうという自己都合)を差し挟んでしまったあたしが全面的にいけないのだった。宴会に行けなかったのはあたしだけであって、それってまったくあたしだけが悪いことなのであって、何より優先させねばならないことはチャンスを逃すな!ということだったのに。呑みたかったら自分でやれってこった。

何だかな・・・「何が大事か、何を一番先に片付けなきゃいかんのか、常に考えてね!」と後輩に言っていたあたしが、これじゃね・・・



9月6日
    
 野外ライブに行けば後ろの席が何故か子供連れでお行儀が悪く、椅子を何度も蹴っ飛ばされたりギャーギャー騒がれたりして集中できなかったり、芝生席も用意されているのに何で椅子席に座るのか?という疑問を持たざるを得ず、同じ金払ってるのに何であたしだけこんな目に遭うんだろうと思っていたら、その後も何であたしだけこんな目に遭うんだろうということがあまりにも多すぎて、それってきっとあたしが悪いのかも・・・と諦めている今日この頃です。何であたしだけ・・・ということは、本当は思っちゃいけないのにね。

 それにしても、最近愚痴ばっかしで面白くない。

 そう言えば、この黄粉爆裂サイト、リアル友にも結構宣伝していて、これが何だかちょっともしかするとあんましよろしくないことなのかなあと思ったりもする今日この頃。前は身の回りに起こったことをガンガン書き連ねて、それ自体ネタになるようなことも多少なりともあったので、「こんなことがあったのよ〜」的にリアル友にも読んでもらえると思って宣伝したのだったが、最近どうも自分の暗部をさらけ出しすぎの感が拭えず、これじゃ友達減るんじゃねーか?という危惧を抱くのであった。
 っつーか、暗部さらけ出しは最近始まったどころか昔っからなんだけども(^^; 直接被害を受ける可能性のある人たち(=リアル友)にとっては、決して気のいいことじゃないのかも・・・って気付くの遅すぎ?

 頭の埃を片付ける!というのが元からのコンセプトであるだけに、どうしても、自分中心の物の見方が勝ってしまう。日によっちゃちゃんと考えずにダダモレみたいにキーボードを叩いただけの文章もある。まぁバカの考え休むに似たりと言うから、考えてもしょうがないんだけども・・・(苦笑)

 今日はもう会社へ仕事しに行く気が起きず、ただただボケボケと過ごしている。何だかまだ昨日の出来事を引きずっているみたい。(苦笑)
 何をしてもダメなんだ!誰も認めてくれない!とか、昨日で友達5人は減った!とか、どうせあたしは一人ぼっちだ!とか、ほらすごい自己中心的(笑)

 いけませんねぇ。本当に、いけません。
 さあ何か建設的なことを考えて!その日暮らしでもいいじゃないか。せめてその日に事態が終結していくように、後刻の憂いを残さないように、頑張りましょう。


 ・・・・・もういや頑張りたくない(逆戻り)


 とか腐ってたら、へこみ具合を心配した友達が訪ねてくれたのであった。くぅぅぅぅ。(感涙)捨てる神あれば拾う神あり。あたしは一人で生きているのではない(当たり前だ)。お土産に貰った阿者梨餅がうますぎて、泣けた(現金)。
反省反省また反省。










 
9月25日
    
 お父さんが死んじゃった




9月26日
    
 お父さんが死ぬまでまるまる二日降り続いていた雨が上がって晴れた。
玄関のドアを開けると金木犀の匂いがした。

お父さんのお通夜だ



9月27日
    
 今日もいい天気だった。

お葬式だ。

火葬場の扉が閉まるのはとても怖い。本当に、怖い。


慌しい葬祭の日々は、一応終った。




9月28日
    
 お父さんが手術室に入る前に「ビフテキ食べたいね〜!」と言っていたので、ステーキ屋に行った。「今月は残業代たくさんついたから、奢ったる!」と約束していたのだ。
 小さなタッパーを持っていって、お父さん用に一切れ持ち帰った。お骨の置いてある壇に生臭ものをお供えするのはどうかとも思うが、だってウチ帰ったら食べたいって言っていたんだもの。お父さんの食べたい物置いて何が悪い!
 相変わらず美味しい肉だったが、めそめそしてダメだ。








10月13日
    
  なかなか、めそめそ状態から抜け出せない。
 お友達に会っても、自分のお父さんの話ばかりしてしまって、あたしって本当にどうしようもない。自分が一番可哀想だと思っている証拠に違いない。あたしがあたしが、という態度に陥っている。こんなことやめなきゃと思っているのに、どうしても、やめられないでいる。つい何かの話題にかこつけて、お父さんのことを話してしまうことがある。話したい、という気持ちがあるのかも。出口を求めてひしめいている思いがあるのかも。そして、そろそろそういった気持ちのもやもやを片付け始めないと。できるだけ沢山の記憶が残っている間に、きちんと記しておきたいと思った。これらはごくごく私的なことであって、サイトにアップしなくてもよいことだとは思う。でも、この場所があるために、あたしはいつも何らかの安らぎを得ていたというのも事実なわけで、今回のことについても、ここに記そうと思った。話したい、聞いて欲しいという気持ちにストップをかけずに、ここに記そうと思った。暗い話題でごめんなさい。もし読んでくださるという奇特な方がいらっしゃったら、ひと言お詫びしておきます。


 今までも後悔だらけの来し方だったあたしだけれど、ここまで取り返しのつかない状態に追い込まれたことはない。(ように思う)

 とにかく、お父さんの死というものはまさに青天の霹靂だった。お父さんは、絶対にイヤなジジィになるはずだったのだ。外面はいいが頑固だし我儘だしすぐ怒るしせっかちだし。あたしの悪い所の多くの部分は、お父さんにそのルーツを求めることができるのだ。タチの悪さではあたしのほうが勝っているが、元祖なだけに、そのぶん濃い。そのジジィと対決する方法を、ずっと考えていたのだあたしは。絶対に長生きすると踏んでいたのだ。お母さんなんて、そのためにヘルパーの免許を取ったくらいなのだ。なのに、こんなにあっさり逝ってしまうなんてあんまりだ。逝くにしても最低10年は早すぎる。死ぬ前の数ヶ月間くらい「○○が食べたい!」だの「△△が欲しい!」だの、「××してくれ!」だのと言って周りを困らせまくって、もう駄目、もう駄目と言われながらも持ち直し、ぐずぐず逝くに違いないと、思っていた。一体何がどうなってこんなことになってしまったのか。お父さんの状況を観察し切れなかったあたしのバカ。手を尽くさなかったあたしへの重い十字架。あまりにもだらけ切った態度が呼んだ最大の不幸そして不孝。


 お父さんの入院と、あたしの仕事が忙しくなり始めた時期がちょうど一緒だったというのもあって、ろくにお見舞いにも行かなかった。余命いくばくもないとか言う話も聞かなかったし、お父さん本人をはじめ家族の誰一人として、そういう認識がなかった。ただ、この夏、お父さんは確実に痩せていた。だから少し心配だったが、入院してからは顔色もよく、すたすたと歩いて、よく喋り、週に一度くらいは外泊の許可を取ってぶらぶらウチまで帰ってきてゲームやったりしてたし、手術やったらまた元気になって犬の散歩も行けるよねぇ、ってそんな話ばかりしていた。でも、外泊でウチに帰ってきていても、あたしが帰宅する深夜にはもうとっくにお父さんは寝ていて、朝は朝であたしは慌しくして「んじゃお父さん、お大事にね〜 また来週帰ってくんの? 行ってきまーす」「おうー 帰ってくるよー 行っといで〜」ってそれくらいの言葉しか交わせなかった。あたしが休みの日には休みの日で、あんましお見舞いに行かなかった。だってお父さんこないだウチに帰ってきたばっかしだし、あたしもたまの休みで疲れてるしとか言い訳してた。
 そいでも、お見舞いに行くと、ジュースとか奢ってくれたり、車椅子に乗っている同じ部屋の人のためにコンビニにお使いに行ったついでに買ってきたと言うお菓子をくれたりした。

 最後に外泊で帰ってきたとき、お父さんが「競馬行こう」と言ったのに快く連れて行ってあげなかったのが、本当に後悔だ。
 あたしが快く「うん!そいじゃ行こう!」ってさっさと腰上げて行けばよかった。何だかちょっと嫌そうな素振りを見せたのかもしれない。駐車場から遠いけど、ちゃんと歩けるの?とか言ったりして…
 結局、競馬を止めてお昼ご飯を食べに行ったのが、最後の外食となった。しかもその店がとんでもない粗相をやらかしやがって、あたし達がぶりぶり怒っている傍で、お父さんは涼しい顔をしていた。「ずいぶん気が長くなったんやなぁー前やったらとっとと店出てる勢いやろ?」とあたしが言ったら、「入院生活してると気も長くなるんだよ。検査検査ですごく待たされるからな!」って笑ってた。競馬に行けばよかった。お父さんが行きたいって言った所に、連れて行ってあげるべきだった。何でもここ数週間は非常にカンが冴えていて、予想がよく当たっていたらしい。それを聞いたのは手術の前の前の日だったか、「この馬券買ってきてって言ってくれれば買いに行くから、教えてよー!」ってお父さんに言った。お父さんは、「本当かよー だったら言うからさ、買ってきてくれな」って言ってたのに。
 馬券買いに行くくらい、やろうって思った。朝早かろうが何だろうが、それくらいはやってお父さんを喜ばせたいと、その時は確かに思っていたのだった。なのに、競馬に連れて行ってあげられなかった後悔を、挽回できる機会がもうなくなってしまった。


 手術自体、大きな手術で大変なものであるということは、ちゃんと認識していたつもりだった。セカンドオピニオンについても、一応考えてみたつもりだった。でも、何もかも足りなかった。尽くすべき手は当然尽くさねばならないのであり、体にメスを入れるということは、とてつもなく重要な事であるということに対する考えが、物凄く甘かった。

 お母さんのお姉さんの中に大学病院で看護部長を勤め上げた人がいる。本当は、この人に手術の説明を一緒に聞いてもらいたかった。そして何か意見を言ってもらいたかった。ただ、この伯母ちゃんのご主人(あたしから言えば伯父ちゃん)が、夏に大きな手術をしたばかりでずっと付き添っている状態なのだった。そういったこともあって、お母さんはお父さんが入院し始めた頃はお姉さんには内緒にしていたのだ。手術をする寸前になって、やっと話したのだった。余計な心配をかけたくないという配慮だった。まぁ今すぐ生き死にに関わることじゃないし、と、ここでもあたしたちは大きな間違いをしっぱなしだった。

 胸腹部大動脈瘤。発症例が少なく、術中の危険が高い。下半身に血液を送っている血管を止めるため、それをスムーズに繋げなかった場合、下半身麻痺を起こす可能性がある。その後遺症を確実に食い止める方法は、まだわかっていない。しかし放っておいたら大動脈瘤は破裂する。破裂したら大変な苦痛をともなう。緊急手術をしても、救える例は少ない。だったら、今治しておくよりほかないと思った。

 セカンドオピニオンについては、ドクターからも「そうされるならば書類は調えますよ」と言っていただいていた。ドクターは、充分に信頼できる人に思えた。本当に。だから、お母さんとも話して「まぁ大丈夫だよね?お任せしよう」ということに、したのだった。お父さんも、「死ぬわけじゃないんだから、いいよいいよ」と言っていた。

 人の生き死にに関わることでは、何だかちょっと不思議な勘がはたらくことの多いお父さんが、自分で「死ぬわけじゃない」と言っていたので、余計に安心してしまうところがあった。

 この手術にともなう危険というものの中に、「手術室から出てこられない」危険性があるとは、思いも寄らなかったのだった。曰く、縫合部分からの出血、曰く、輸血の危険、曰く、下半身麻痺が起こる可能性、etc.etc.・・・あたしが抱いていた不安は、全て「術後の危険」に向けられたものでしかなかったのだった。
 お産でも盲腸の手術でも、死ぬ人がいる。その可能性は充分にわかっていたはずだった。その可能性を充分にわかっていたうえで、「ウチのお父さんは大丈夫でしょ!」という甘い考えがあった。

 手術の前日は祝日で、前の日も深夜の帰宅だったあたしは、午前中一杯寝過ごしてそれから会社に行って仕事をしていた。次の日はお父さんの手術だから、片付けられる仕事を片付けて、休んでもできるだけ迷惑がかからないようにするつもりだった。本当は、朝ちゃんと起きて立木山へお参りに行くつもりだったのに。何で行かなかったんだろう。仕事中は、3時までに仕事を片付けて、夕暮れまでに間に合うようにお参りに行くつもりだった。それも仕事が押せ押せで、結局行けなかった。真っ暗になってから、お母さんの勤め先のエクセルの表を直しに、お母さんの勤め先に行ったりして、その日は終ってしまった。「よし、お参りは明日の手術の最中に行くようにしよう」と思った。

 手術の当日は、朝から雨で、何だか肌寒い日だった。
 8時過ぎから病院に行って、お父さんと話をしていた。「今日は仕事休み?悪いねー」と笑顔で言うお父さんに、「もー私が仕事休んでも何も言わないくせに!」とこれまた笑いながら文句を言うお母さん。ちょっと団欒のひと時だった。そこで、「ビフテキ食いたいねー」とお父さんが言った。あたしは、「よし、今月は残業代たくさんつきそうだから、奢ったる!任せといて〜!」と言った。そして、紅葉が残る時期には戻ってこれるかな?とか、あたしの仕事の話をちょっとした。
 手術室に入る前、「お父さん、夢見た?」とあたしが聞いた。
お父さんは、あたしが車を壊す前とかにもそういう夢を見ることがあって、お父さんがウチにいるときは、毎日出がけに「お父さん、夢見た?」と聞くのが日課だった。「見ないよー」と言われれば安心し、「ちょっと見た。気をつけて!」と言われれば気をつける。その程度だったけれど、目覚ましテレビの今日の占いカウントダウンよりも信用していたのだった。

 お父さんは、「見た」と言った。

 あたしは、何だかちょっと不安に駆られたけれど、無理に「あたしがヤバイのか!?」とこじつけてみた。そしたら、お父さんは、フトンから手を出して、今から思えば何ともいえない複雑な笑顔で自分のことを指差したのだった。「なかなか覚めなかったよ」と言った。他にも何か言ったけれど、もごもごした呟きで、ちゃんと聞こえなかった。「え?」と聞き返したけれど、よくわからなかった。何て言ったんだろう。

 あたしは、「なーに言ってんの! 死ぬわけちゃうねんし大丈夫やろ? あとが痛いかもしらんから、ビビってんとちゃう? まー あとのことはみんなやったるからまかしときって!大丈夫大丈夫!!! それよか早く麻酔から醒めてや!でないとあたしら帰れへんがな〜 待ってるで!!!」と励ました。
 手術室へ向う時も、何か言葉を交わしていたかもしれない。廊下で会った顔見知りのナースも、「待ってますからね」と声をかけていた。お父さんは「はーい」と結構デカい声で答えていた。
 手術室のドアが閉まるまで、「行ってらっしゃーい」「待ってるで!」「頑張りやー!」「またあとでね〜!」と声を掛けて見送った。お父さんは「おーう」とか言いながら手を振っていた。



 それが、お父さんの最後の姿になるなんて、思ってもいなかった。



 手術中も、ずいぶんのんびりとして、雑誌を読んだり文庫本を読んだり、一旦家に帰って何か食べたり、いとこと電話で話して笑ったりしていた。立木山へのお参りは、雨が降り続いていたために挫けてしまった。「そうだ、手術が終ったらお礼に行こう」とかって、勝手に決め付けていた。バカなあたしだ。

 14、5時間かかる手術だと聞いていたから、不安もなく深夜を迎えた。「もうそろそろ終るのかなぁ? ICUにいるときは面会時間も限られているから、一時間おきくらいでいいかな?」「そのあと、個室に入ってからの看病がタイヘンかもねぇ〜」「ぜったい痛い痛いってウルサイよねぇ〜」って術後の心配ばかりしていて、「それでも治ったら背中の痛いのとか、すぐ息が切れるのとか、全部治るから随分楽になるよね」と明るい話ばかりしていたその時、12時半頃だったと思う。

 執刀医のドクターが部屋に入って来た。
 写真を二枚、見せてくれた。
 術前の動脈瘤と、人工血管に変わった後の部位だった。大きな瘤で隠れた場所も、人工血管に変わってスッキリしていた。心配だった脊髄に繋がる血管も、ちゃんと繋ぎました、とドクターは言った。手術は成功だと、思った。

 ところが、人工心肺から自分の心臓に戻せないという。
 心臓が、ちゃんと動いてくれないという。
 人工心肺を止めると、心臓が膨張してしまうのだという。
 4回、5回とトライしているが、どうしても戻せないのだという。

 あとは、心臓本体の、人工弁膜置換術を施してみるのが最後の手段だという。
 最初の説明で、一度にやったら心臓持ちませんよ、と言われた、もう一つの手術だ。でも、それをやらないと、残る可能性はない。さらに4時間ほど、かかるという。

 それでも、まだ、あたしはちっとも望みを捨てていなかった。なぜならば、お父さんは悪運と言い替えてもよいほど強運の持ち主だったからだ。最後の最後に負けるということが、お父さんには今までなかったことだった。だから、あたしは、ここまで言われていても、まだまだ安心していたのだった。「えー そんなん言われると 何か不安になるやんなぁ〜!」「まぁ 悪いとこいっぺんに治してもらったら、またメス入れる事ないし、ええんちゃう?」とかってあまりにもお気楽だ。

 死の恐怖に憑り付かれ始めたのは、何時頃からだっただろう。
 考えること考えること、すべてがお父さんの死にまつわる事柄になっていってしまったのは、何時頃からだっただろう。
 お父さんが死んだら、あたしは何を思うのだろう?とか、日乗にどう書いたらいいのか?とか、会社に何て電話するの?とか、そんなヘンなことばかり考えるようになってしまった。悪い結果を呼ばないように、そんなヘンな考えは捨てなきゃいけないと、何度も思い直した。
お父さんが帰ってきたら思いっきり文句を言ってやらなきゃ。こんなに心配させて、一体何なんだ〜!って。そして笑い話にしてやらなきゃ。って思ってた。

 4時頃、心臓外科部長が部屋に来た。
 人工弁膜置換術は成功したとのこと。

 しかし、まだ心臓が動いてくれない。前よりもいい感じで少しは動くが、すぐに不整脈が出てしまう。心臓が腫れてくる。
 ペースメーカーを入れてみたり、いろいろしているが、どうもはかばかしくない。
 術前の診断では、お父さんの心臓は、確かに弱ってはいるものの、手術には耐え得るだけの力があるという結論でした。手術に当たる医師達が出した結論だったのです。だから手術に踏み切ったのです。ところが、思っていたよりも、心臓本体が弱っていた。
 でも、まだ、いろんな薬や、何やら試しているし、がんばっています。それに、お父さんに残された余力でもって、心臓を動かしてくれるかもしれない。

 と、そう言い残して部長が立ち去った。


 5時過ぎ、執刀医のドクターが来た。

 やはり駄目です。どうしても、ちゃんと動いてくれません。

 人工心肺をずっと使っていると、他の臓器にも害が及びます。体も腫れてきます。血も止まりにくくなる。喩え、今、日本には2、3個しかない人工心臓に替えたとしても、あと2、3日しかもたないでしょう。その人工心臓以外の設備は、心臓外科としてこの病院に整っていないものはないのです。それらをすべて駆使しても、どうしても、動いてくれない。残念です。

 人工心肺を、はずしてもよいですか?



 これが、最後の通告だった。



 「もう、他に手の施しようはないんですよね?」とお母さんが聞いた。



 涙が出てきた。
 嘘みたいと思った。


 これから体をきれいにして、一旦ICUに下ろしてきます。それまでしばらくお待ち下さい、と言われた。


「なんで?」「なんで?」「なんで?」こればかり思っていたような気がする。


 お父さんがICUに下りてきて、看護師の方々が身支度を整えてくれてから、あたし達はお父さんとやっと会えた。お父さんは、新品の寝巻きを着て、目を瞑っていた。
 この寝巻きは、手術後、ICUにいる間着るために買ってきた寝巻きだった。特別な抗菌繊維を使っているらしく、「これ着てるとなー、院内感染にかからへんねんで!」とお父さんに言っていた寝巻きだった。

 ICUのベッドの傍らには、山のようなガーゼやら、コッヘルやら鋏やらの器具が揃えたワゴンがあった。術後の治療や、急な変調に備えるための準備なのだった。「こんなに揃えてもらってるやつ、一個も使わないでどないするねんな〜」と言ったのに、お父さんは何も答えられないのだった。ただ、目を瞑っていた。

 あと、なんて声を掛けたのか、忘れてしまった。ただ、今までお父さんの顔をじっと見ることなんかなかったのに、この時は、ものすごく、じっと見てしまった。普通の顔をしていた。いつも通り、あのやかましいイビキをかいてくれへんかな?って思った。



10月15日
    
  お父さんが使う必要のない設備が整った部屋にいつまでも寝かせておくわけにもいかないのだった。これからすぐに退院なのだ。ICUに持ち込める荷物は極めて限定されていたために一般病棟を引き払うときに持ち帰った荷物満載の紙袋が、片付ける暇もなく狭い我が家に山積みだ。それに、やかまし屋のお父さんが不在ということで、あたしの緊張感がユルユルになってしまって色んなところにあたしの物が散乱しているのだった。
 ICUに、あと1時間だけ寝かせておいてください。それから迎えに来ますから、とお母さんとあたしは病院を後にした。
 親戚には、お父さんがICUに降りて来るまでに連絡した。会社にも連絡した。友達にも連絡した。
 会社に連絡したら、転勤してきたばかりの主任が出てお悔やみの言葉も何もないまま「じゃぁ、次の出勤はいつになるのかまた電話くださいね」って言われた。人の親の死なんて、全然人事であって関係ないって感じなのだった。それはそうなんだけども、何だか気持ちが折れたひと言だった。

 病院の入り口のところに、手術前に同室だった方がいて、その人は車椅子でタバコを吸いに入り口のところに来ていたんだけれど、「おはようございます」って挨拶してくれた。「手術終りましたか?」って聞いてくれた。結果を言うと大変残念がって下さったのだった。それが本当に申し訳なく、そして心にかけて下さっていたということがありがたくて、いつもやったことのないような深いお辞儀をして、お別れした。

 「信じられない」「何で?」「どうしよう」「嘘みたいやんか」とか言いながらとりあえず家にたどりついて、慌しくお父さんを迎える準備をした。
 荷物をあらゆる他の部屋に押し込んで、掃除機をかけて布団を下ろして・・・ここまでしてても、何だかまだ現実として受け入れられないような、おかしな片付かない気持ちを抱えて、また病院に戻った。

 お父さんの退院は、いつもの出入り口からじゃないのだった。寝台車にお父さんが乗る時、執刀医のドクターが見送りに来ていた。手術が終ってもう数時間、丸々24時間以上、きっとずっと緊張しっぱなしの立ちっぱなしだったに違いないドクターが、最前列に立って深々とお辞儀をしていた。あたしは、ドクターは、もうとっくに家に帰るなり何なりして休まれているだろうと思っていたので、意外だった。




 手術室から出てこられなかったという話をすると、本当にずいぶん沢山の人から「医療ミスじゃないの?」と言われる。
 確かにそうかもしれないと疑い出せば、もっと調べるべきことや、相談すべきことやらがありそうだ。片付かない気持ちの自分を納得させることができるかもしれない。

 ただ、お父さんはもう絶対に、何があっても戻ってはこない。これは動かしようのない事実であって、受け入れざるを得ないことだ。




 お母さんは寝台車に乗ってお父さんと一緒に家に帰っていった。

 さてあたしは車に乗って後を追おうとして駐車場に行き、駐車料金を払うためにカバンの中を探って真っ青になった。

「さ、財布を家に忘れてる・・・」

 お父さんを迎えるための準備をしている時に、自分の部屋に持って行って置きっぱなしにしてしまったのだ。
 本当に、あたしってイベント(こういう時をイベントと表現してもよいのだろうか?)に弱い。絶対に何かとんでもないことをやらかしてしまう。しかも、あたしの車じゃなくお父さんの車に乗ってきていたために、(あたしの車だったら灰皿に500円玉貯金があるのに!)どこを探しても10円玉一つ出てこないのだった。車から飛び降りて、小雨が降るなかを家に向ってダッシュし始めたとき、ICUのナースが道に出ていた。「あっ、どうも」と会釈をしたら、「これお渡しするのを忘れてました」と言って、お父さんの歯磨きセットと髭剃りを渡された。
 もう、未来永劫使われることのなくなった品々に、やり切れない思いがした。

 家へ向って走りながら、ひっく、ひっく、とまるで小学生のようにしゃくり上げてしまう。我慢しようと思っても、嗚咽が漏れる。どうしよう、どうしようと、そればかり思ってしまう。あの、死のイメージに取り憑かれてしまったあたしが、お父さんの死を呼んでしまったのではないだろうか?お父さんの手術中に家に一旦帰ってきたときに、アンチウィルスソフトを入れてから電源切るときにいつもエラーが出てしまうパソコンの終了時に、「不正な終り方をしたら、ちょっと問題が起こるかも」なんてことがふと頭をよぎってしまい、案の定、画面が止まったまんまフリーズして強制電源オフしてしまったことが、お父さんの死を呼んでしまったのでは?おばあちゃんが今年の3月に亡くなっているというのに「お参りに行かなきゃ」なんて非常識な思いを持ってしまったために、罰が当たったのでは? もう、お父さんの死というものに対して、ざっと思い浮かんだだけでもたくさんたくさん思い当たる悪事がありすぎて、居ても立ってもいられない思いだった。どうしよう、どうしようの次は、ごめんなさい、ごめんなさい、だ。そればかり考えながら、家にたどり着いた。

 お父さんが布団に寝かされている。その周りを、葬儀社の方々がテキパキと準備に動き回っている。玄関にいた犬が、不安げな顔をしている。お父さんの布団と祭壇を置いたら、その部屋にはあまり人が入れない。

「お葬式ができる家に引っ越さなきゃねぇ〜」と、よく冗談を言っていたのだった。「せめて和室が二間続きじゃないとキツいからねー」「それも家具があんまし置いてない部屋じゃないとダメなんだよねー」「いずれにせよ、今のウチじゃ物が多すぎてゆっくりお参りもしてもらえないからダメだね!」「そうそう!」って言ってたのだった。和室が二間続いてる部屋のある家に引っ越すまで、ウチからは死人が出てはいけなかったのに。


 いつもと違う様子を嗅ぎ取った犬がだんだん落ち着かなくなってきたので、あたしは玄関に出て犬と一緒に座っていた。そうしていると、葬儀社の営業担当の方が来た。もうどんどん話が進んでいくのだった。営業担当の方は犬好きらしく、うちの犬を撫でながらやさしく声を掛けてくださる。「テッちゃん(ウチの犬はテツという)か〜もうお父さんと散歩行けなくなってしもたねぇ〜寂しいねぇ〜」
 本当にそうだ。テツはお父さんが一番大好きで、お父さんといつも一緒だったのに。お父さんの行くところ、どこでもついて行ってた。入院中も、お父さんが一時帰宅で戻ってきたら片時も離れず金魚のフンみたいにくっついてまわっていた。
 次の日、お通夜から葬儀が行われる会場へとお父さんが運ばれていく時、その犬好きな営業の方の計らいでストレッチャーを一旦テツの前で止めてくれ、テツにお父さんと最後のお別れをさせてくれた。テツは本当に不思議そうな顔をしてお父さんを見ていた。きっと匂いが違ったからだ。そしてお葬式の焼香の時、親族の名前を読み上げてくださる中で、いちばん最後にテツの名前を入れてくださったのだった。



 葬儀社のテキパキした準備が整ううちに、お母さんの義姉と、妹夫婦がお母さんの郷里から駆けつけてきてくれた。どんどんお父さんの死が現実味を帯びてくる。

 お父さんの死にゆっくり向き合って、ただでも回転の悪いあたしの頭を納得させるだけ考えられる暇なんてないのだった。悲しむ暇なんてないのだった。これから片付けなければならない現実の用事が山積みなのだった。





10月16日


  バカな上に、とにかく仕来りというものにまったく疎いあたしは、ただ茫然とするばかりだった。そして実はお母さんもあんまし得意じゃないのだった。お母さんは長男の嫁ではあるが、お父さんの両親はずいぶんと早くに亡くなっているためにこうした儀式の主催をしないまま、ウチの家族は過ごしてきている。そしてあたしの上に姉さんがいたけれど、あたしが生まれる前、赤ちゃんの時に亡くなったのでちゃんとしたお葬式じゃなかったと思われる。(よくは知らないけれども・・・)だから、お手伝いはできるけれども、主催はできない、というわけだ。

 ウチの菩提寺は神奈川にある寺で、お父さんが死んだ時に京都にある兄弟寺か何かを紹介してもらおうと思って電話をしたら、菩提寺の住職が、「私が行きます」と神奈川から京都に来てお通夜からお葬式まで執り行ってくださった。その住職が話してくれたのは、「人は、吸った息を吐くことができるという保証はどこにもない」ということだった。吸った息は当然吐くものだと思っているけれど、絶対に吐くことができるかというと、言い切れない。お父さんの呼吸の最後は、吸ったのか吐いたのかわからないけれども、どっちかで止まったに違いないのだった。それを思った時、死ぬということが、少し解ったような気がした。



 お通夜とお葬式の受付を会社の人に頼んでしまった。月末で忙しいのに、無理を言ったのだった。頼もうと思っていたSEをやっている従弟は勤め先のシステムがダウンしたために、結局お通夜もお葬式も来れなくなってしまったのだった。次の日は、友達にも頼んでしまった。あたしは、この友達のお父様が亡くなったとき、非常識に過ぎる行いや気遣いのないことをやらかして迷惑をかけている。なのに甘えてしまった。せっかくの土曜日せっかくのお休みなのに、朝早くから仕事を言いつけてしまって本当に申し訳ないと思う。今から思えば他に何とでもなったはずなのに。本当に人を頼るこの癖、何とかならんもんなのだろうか。
 こういうとき、親戚縁者が遠い地に住む一人っ子って結構ヤバい。それも配偶者がないというのはもっとキツい。ただでも人脈が限られてしまう。自分の来し方が改めて思いやられるのだった。やはりあたしは社会的不適応者なのかもしれない…

 精進落しのお膳だって、本当はお坊さんの近く(=上座)に座っちゃいけないのに、堂々とお坊さんの向かいでご飯を食べてしまった。後で知って泣きたくなった。しかも、お膳の手配が一つ足りなくて、何と従姉に控え室で朝ご飯用にとコンビニで買ったお握りやパンを食べさせてしまった。申し訳なさ過ぎて涙が出る。仕来りその他に暗いんだから、何もかもを人任せなんかにせずに、せめてこう言う事務的な数読みとか段取りをすべきだった。何かきちんと仕事をすべきだった。気が回らなさすぎ。

 常識がない、仕来りを知らない、モノの決まりごとがわからない、頭が悪い、見た目も悪い、なのに威張っている、謙虚さがない、馬鹿だ、文句が多い、すぐに人を責める、怠惰だ、無気力だ、思いやりがない、想像力が働かない、嫌われ者だ、悲観的だ、卑屈だ、と、どこを取ってもいいところがないあたしを、ひとかどの人として扱ってくれるのはもしかして家族くらいしかいないんじゃないだろうかという気がしている。単なる付き合いからとか、まるで腫れ物に触れるようにとか、悪いところも見て見ぬ振りをしながらとか、同情の気持ちからとか、そういう及び腰でじゃなく、真正面からあたしに対して接してくれる人。あたしは、あたしをちゃんと取り扱ってくれる家族というものに対して、今まで本当に全然何とも思っていなかった。むしろ別にあってもなくてもいいかもしれないとか思っていた時もあった。
 でも、お父さんが死んでしまって、あたしをひとかどの人として扱ってくれる人が一人減ってしまった。これって随分重大なことだ。見て見ぬ振りをしたり、放ったらかしにすることなくちゃんと注意してくれる人が、減ったということでもあるのだった。

 お父さんが生きている時、あたしはお父さんの理不尽なところや気分屋のところや辛辣なところが(恐らくは自分にもそういう部分があるために)苦手だったのだが、いざ死んでしまうと、もっともっとちゃんと向き合っておけばよかったと思えてくる。お父さんは、理不尽さや気分屋や辛辣さをフォローして余りある「きっちりさ」があって、「行動的」であって「勤勉」であった。なのにあたしは理不尽で気分屋で辛辣のうえに「だらしなく」て「ナマケモノ」で「怠惰」だ。悪いところばかり似ていて、いいところが似ていない。トホホだ。




10月19日
    
 お葬式が終って、最初に駆けつけてくれた伯母と叔父が帰っていった。お母さんの妹である叔母が、あたし達を気遣って残ってくれた。
 その気遣いが、どんなに心強かったことか。動きが止まると涙がじわりと湧いてくるような不安定さの中にいるあたし達は本当に感謝した。「いてくれるだけで嬉しい」と何度も声に出して感謝した。一週間ほど居てくださればずいぶん助かるなぁと、勝手な望みを抱いていたりしたが、そんな我儘が通用するわけもない。
 叔母は3日後、また来るからねと言い残して帰っていった。10月になると農協祭りとか、習っているフラダンスや大正琴の発表会が立て続けでとても忙しいのだった。お父さんの死という日常からはまったく想像外の世界に引きずり込まれた当事者は、あくまでもあたしとお母さんであって、それ以外の人達には滞りなく営んでいかなければならない日常があるのだ。
 お母さんの職場の同僚からは、仕事の愚痴を言う電話がお葬式の次の日あたりから何度かかかってくるようになった。
 彼女も問題を抱えてずいぶん溜まっているようだから、言うだけ言えばスッキリするのよとお母さんは相手をしていた。でも、お悔やみに人が来た時なんか電話を切るのに苦労していた。
 あたしはあたしで、何日も連続してお友達に電話をかけて迷惑をかけた。やめよう、やめようと思っていてもついつい電話をしてしまう。誰かと他愛もない話をしたくてしょうがなかったのだった。これじゃお母さんの同僚の人と一緒だ。非日常を、日常の中にいる人に押し付けていたのだった。

 お父さんが死んで、自分の至らなさが痛感されることがとても多くて随分とへこんだ。
 突然の事態に気持ちがちっとも追いついていかず、ぼけぼけしている間に時間だけがどんどん過ぎていった。

 服喪休暇も終って仕事に復帰すると、以前と何の変わりもない忙しさで以前と何の変わりもない態度で仕事をこなすことができた。笑ったり、怒ったり、おべんちゃら言ったり、全然変わることのない態度で。ただ、帰宅途中の車の中でどうしても泣いてしまうのだった。それも声を上げて。何か言いながらわんわん泣いてしまうのだった。
 お父さんが死んでからもう何日にもなるのに、声を上げて泣いたことなんか今までなかったのに、自分でもちょっとびっくりしてしまった。
 一人きりの空間に身を置くという事が、それまでなかったからかもしれない。
 二週間もすると、それも収まった。収まってきたことに気がついた時、「わ・す・れ・る」という言葉が頭に浮かんできて嫌な気分になった。忘れたわけじゃない、と思いたかった。
 本当はどうなんだろう?ちょっと怖くて、あたしは自分の中で答えを出せずにいる。




 
10月25日
    
  お父さんが死んでちょうどひと月が経った。
 お友達が飲みに行こうと誘ってくれたので出かけた。最初は楽しく飲んでいたが、参加者の一人が悪酔いしたのかストレスが溜まっていたのか、妙な具合に突っ掛かってくるような感じになってヘンな空気になってしまい、「お父さんの月命日なのに遊びに行ったりしたからこんなことになったのか」と思ったら泣けてきた。それに誘ってくれたお友達に申し訳なくて。

 あっという間のひと月で、先月はまだ衣替えも終っていなくて会社の制服も夏服だった。お父さんも病気ながら元気そうだった。本当だったら、今頃は、そろそろ退院の目途も立つ頃なのかな?なんて考えると、また片付かない気分になる。「パラレルワールド」には、お父さんの退院を待っているあたしがいるかもしれない。手術に成功したお父さんがいるかもしれない。そう考えると、ほんの少しだけ楽になった。これってやっぱしガキの発想だなぁ〜


 それにしても可哀想なのはウチの犬だ。
 お父さんが死んでから、体じゅうに10円ハゲがたくさん出来た。
 そして爪をよく噛むのだ。一生懸命、必死に爪を噛んでいる姿を見ると、ものすごく悲しい。
 まるでストレスの固まりだ。

 お散歩は朝夕行っているのに、爪が伸びてきた。一目でわかるほどだ。足音だって、お父さんがいた時と全然違う。前は「タッタッタッ」という音だったのに、今は「カチカチカチ」という音がする。爪の音だ。
 お散歩が短いという動かぬ証拠をつきつけられた。
 でもねテツ。朝昼晩一日三回長時間にわたってお散歩するなんて、かなり無理っぽいよ。お父さんみたいにテツの行きたい方へ行ってあげたいけど、なかなかご希望に沿えないときもあるんだよ。お母さんもあたしも昼間は仕事でウチにいないんだよ。なるたけ頑張るけどね・・・

 テツは仔犬の時から皮膚が弱かった。ちょっと治まってはまたぶり返す、の繰り返しだった。あたしとお母さんは、「お父さんがテツにおやつをやりすぎるからよ!」と決め付けていた。だってエサはナチュラルフードのかなりお高めのものを選んでやっていたし、免疫力を高めるというプロポリスもやっていたし、シャンプーも獣医さんとこで買う、人間様が使うのよりよっぽど上等なものを使っていたし、それなのに皮膚にトラブルなんて、お父さんが何が入っているかわからないジャーキーとかビスケットとかガム(こういうペットフードって原材料の欄に「その他」って書いてあるのが多い)とか、人が食べるソーセージとかをやるからに違いない!って決め付けていたのだった。

 ところが、そのヘンなおやつをテツにあげる人がいなくなったというのに、テツの皮膚病はよくなるどころか、今まで以上に悪化している。
 獣医さんにさえ「ストレスもあるのかなぁ〜」と言われてしまった。



 お父さんごめん。ちゃんと治すから、テツは連れていかんといてな





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