補講202教室

特別授業:古語における「む」と「ん」について

 「む」と「ん」については次の事情を知つておきませう。

 推量、意志などの助動詞「む」は概ね鎌倉時代以降、「ん」と「う」の表記に取つて代はられました。

 行かむ・・・・行かん、行かう

 すでに平安時代には「む」を「ン」と発音することは行なはれてゐたのですが、当初はそれを特別に表す仮名がなかつたために「行かむ」と書いたまま「イカン」と発音されることが続き、つひには「イカム」といふ発音が忘れ去られてしまひました。つまり実質的には「む」は助動詞のときには「ン」と転呼することになつたのです。かうして「行かん」の表記が生まれ、またウ音便で「行かう」も生まれました。「行かむ」の表記も根強く存続しましたが現実には「イカン」と読まれました。

 仮名遣ひの対応関係は次のやうになります。

 歴史的仮名遣  現代仮名遣
 いざ行かむ─┐×いざ行かむ

 いざ行かん←┴→いざ行かん 
 さあ行かう←―→さあ行こう
   
現代仮名遣ひで「む」と書けば「ム」としか読めませんので意味不明の「イカム」になつてしまひます。

 他に助動詞、助詞「けむ、てむ、なむ、らむ、むず、むとす、なむずる」なども同様です。
 なほ、使役の「しむ」は「シン」と読まれません。現代仮名遣ひでも「しむ」です。

 元来「音便」と「転呼」は全く別の現象です。しかしこの「む」が「ン」と読まれる現象は、由来が音便でありながら元の発音は廃れてしまひ、元の表記のままで発音が変はるといふ、転呼と同じ性質を示すものとなつてゐます。「ム」と「m」と「ン」が日本人にとつて非常に紛らはしい発音であつたために、音便化させてゐる意識のないままに発音が変化した現象だと思はれます。

音便と転呼については「発音の変化と表記の関係」「用語について」参照

 参考のために「ぬ」の場合を見てみませう。
 打消しの助動詞「ぬ」は概ね江戸時代以降、一部「ん」に取つて代はられました。

 行かぬ・・・・行かん

 しかしこれらは現代においても、それぞれ「イカヌ」、「イカン」と区別して読まれてゐます。

 歴       現
 誰も行かぬ←―→誰も行かぬ
 誰も行かん←―→誰も行かん

 もし前記の推量の「む」もこの打消しの「ぬ」もどちらも「ン」としか発音されなかつたら意味の弁別ができなくなつてしまひます。「ぬ」が「ヌ」として頑張つてゐるのにはさういふわけもあるのでせう。

 

 なほ、上記以外の「む」で「ン」と読まれる場合があります。

 一般に古語においてま行・ば行の直前となる「む」は「ン」と読まれます。

 歴     現
 よむべ←─→よんべ
 むめ ─┐×むめ
んめ
 うめ ←┴→うめ(梅)
   
古文の「むめ」は「ンメ」と読みますが、現代仮名遣ひではこの種の語頭の「ン」は「う」で表すことになつてゐます。

同様の例:いむべ(斎部)、むば(姥)、むばたまの、むば(奪)ふ、むばら(茨)、むべ(宜)、むべむべ(宜宜)し
       むま(馬)、むまき(牧)、むまご(孫)、む(生)まる、む(埋)もる   など。
      (ただし語頭などでは発音しにくいことがあるので「ム」のままに読まれることも多い。)

 その他の例です。

 歴       現
 かむなづき─┐×かむなづき

 かんなづき←┴→かんなづき
(神無月)
   
現代仮名遣ひで「む」と書けば「ム」としか読めません。ふつう「カムナヅキ」では意味をなしません。

同様の例:おむな(嫗)、をむな(女)、かむ(神)〜の各語、やむごとなし など。

 この項の参考:各種転呼のメカニズム


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