三郎の正体の根拠

      三郎が又三郎である根拠              三郎がただの人間である根拠
 この作品の本当のタイトルが「風野又三郎」である※1。ちなみに前身作「風野又三郎」の主人公は"風野又三郎"と名のる風の精。とすれば作者はこの「風の又三郎」でも同じ精を登場させたのではないか。  本文中には一度も"風野又三郎"という表現はない。とすればこの作品には風の精は登場していないのではないか。
 9月1日に登場した時の三郎の姿がみんなから見ておかしすぎる。  
 風が吹いてきた時、にやっと笑って少し動いたようなのは怪しい。  
 そのあと急に姿を消すのも怪しい。  
   先生は三郎のことを全く不審に思っていない。
 先生が三郎以外に言っているのに三郎が手を挙げたのは小学生としては常識はずれである。  
 通信簿も宿題帖も持っていないのは学校へ行っていないからではないか。  
 9月2日につむじ風を起こした。  
 たった一本の鉛筆を他人にやるというのは小学生としては常識はずれである。  
 消し炭で筆算するというのも常識はずれである。  
   授業初日に国語、唱歌、数学と難なくこなしている。
 9月4日に空を飛んだ。  嘉助の夢であることが明らか。
   色のなくなった唇をしていたのはただの弱い人間であることを示す。
   お母さんが葡萄を樽に二つ漬けたというのは人間くさい。風の精はそんなことはしないだろう。
 9月6日に風のしわざのようなことばかりする※2  
   耕助の挑戦に対し、「僕が世界中になくってもいいってどういうんだい?・・・」と言わずに「風が世界中に・・・」と言っている。自分は風ではないと暗に言っているようだ。(「風野又三郎」では主人公は同様の場面でちゃんと「僕たちが世界中に・・・」と言っている。)
 耕助との論争で風の味方のようなことを言う。  
 9月7日にみんなの泳ぎを笑ったのは、風の習性(水の上をさらさら渡る)からではないか。  自分の泳ぎに自信があるような物言いをするのは人間だからである。風は泳いだことないだろう。
 9月8日に風という正体を見破られたような狼狽ぶりを示す。  不思議な現象に驚くのは人間臭い。自然の精ではないだろう。
 いつかみんなに風の歌を歌って聞かせたらしい。ただの人間はそんなことしない。  
 三郎の言動がしばしば孤立的である。  三郎の言動が細部にわたって人間臭い。
   いちばん分別のある一郎が終始嘉助の見方に懐疑的である。
 地の文でも途中から三郎のことを "又三郎"と言っている。  
   作者は執筆当時、現実から離れない世界を描きたいと思っていたのではないだろうか※3

 ※1 風野又三郎から風の又三郎へ
 ※2 鑑賞の手引き(1)9月6日
 ※3
風野又三郎から風の又三郎へ異彩


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