宮沢賢治は天才なので童話なぞはすらすらと特に深く考えることなく書いたのだろうという人がありますが、とんでもない考え違いです。
 推敲のしつこさは遺された原稿用紙に明らかですし、友人宛の手紙(母木光氏宛書簡・昭和7年6月21日・校本全集番号421)を読みますと、読者の受け取り方を重々忖度して構成を考え、効果を測り、登場人物の名前の語感にも気を配るなど、周到な彼の創作手法の一端が読み取れます。
 宮沢賢治作品は大いに深読みし甲斐のあるものなのです。

 

隠されているもの

 「風の又三郎」には含蓄的な、というよりは implicit な記述がさまざまに混入して作品世界の厚みを増していると言われます。気が付かずに読めばなんでもないところも一旦気が付くとそれは飛躍的な洞察に結びつく時もありますし、あるいはとんでもない謎の渦に我々を引きずり込むこともあります。
 詩人の吉田文憲氏は「風の又三郎」の“妖しい文字”、“見えないのに見えている(見えているのに見えない)もの”に注目して、同じく詩人の天沢退二郎氏と対談してさまざまの注目点を指摘しました。詩人の鋭敏な言語感覚が剔抉した諸論点の概要をご紹介させていただきます。

吉田:
 9月1日の歌について。子供たちは前夜夢の中でこの歌を聞き、「どう」という音を刷り込まれた。そしてその後「どう」という音に敏感に反応するようになる。

天沢:
 小さい川、小さい学校、たった一つの教室に対して、生徒はみんな揃い、岩穴あるという言い方はこの舞台がミクロコスモスであることを意味する。

吉田:
 最初の数行に作品の世界の構造が書き込まれている。地上の学校を中心として上には裏山、上の野原、天空という上昇する力の世界、下には岩穴、さいかち淵、タスカロラ海床という下降する力の地下世界を暗示。穴や淵、洞、ちぎれ目などという裂け目から不穏な力が湧いてくる世界。
 草山の栗の木は「風野又三郎」で又三郎が出現する特別な場所であった。栗は他にも重要な意味で登場する。草の山は「風野又三郎」と違い、「すぐうしろ」と書き加えられている。

天沢:
 きれいな草の山、冷たい水を噴く岩穴とは聖なる・・という意味。

吉田:
 運動場は次々に人が登場してくる舞台空間。嘉助がやってくる川上とは異様な者がやってくる方向。

天沢:
 ちょうはあかぐりなど訳のわからないことを言う嘉助はトリックスター。
 教室の中の三郎とみんなを隔てるガラス窓は双方のディスコミュニケーションを象徴。文語詩「馬行き人行き自転車行きて」の作者とガラスの外のじいさんも。

「(略)絣合羽につまごはき/物噛むごとくたゝずみて/大売り出しのビラ読む翁/まなこをめぐる輻状の皺/(略)絣の合羽にわらぢばき/もんぱぼうしに額づゝみ/物噛むごとく売りだしの/ビラに向へるまなこをめぐり/皺はさながら後光のごとき/眼のうす赤いぢいさんが/読んでゐるのか見てゐるか(略)」

 登場するのがなぜモリブデンなのか。モリブデンのm、b、d という口を開かずに出てくる音声に何か意味がありそう。

天沢氏はこう表現するが、音声学的に言えば[m]と[b]の有声、両唇という濃密な音声的類似性に対し[d]は唇の素性を欠いている。しかし前方性というやや弱い素性が共通するので聴覚的印象は近い。
 「モリブデン」は無声音を含まず声門の開放が一切ないので口から出る呼気(風)が比較的弱く(また母音[a]を欠いているためもあって)聴覚的印象が発散的、開放的でないことは確かである。また日本人には濁音の連続も一定の印象を与える。

吉田:
 9月1日は掃除の場面で終るが、最終日も同様。登場する箒や団扇は何かを清める道具。
 バケツの黒い波はさいかち淵を思わせる。

吉田:
 9月2日。三郎がちゃんと学校へ来るかどうかという思いは最終日でも繰り返される。

吉田、天沢:
 黒板の白い縞は昨日の出来事が、拭いて消したはずなのにその痕跡が翌日になってぼんやりと浮き上がってきた物。

天沢:
 棒かくしは地面を二つに分けて、そのどちらに棒があるか(ないか)当てるというゲーム。それは「棒」が暗示するように一種の占いであり、高学年の一郎や嘉助ではない小さなほうの子供たちが行っていた三郎の正体当てである。

吉田:
 呼子、扇子、うちわ、箒、木ペン、消し炭などの小道具はみな呪術性を持っている。
 座席の位置によって一郎は木ペン騒動の一切を目撃できる。嘉助は一部しか見えない。この関係はここだけにとどまらない。

天沢:
 三郎が行った見返りを期待しない木ペンの贈与に対して、一郎の入りかけている大人の論理は奇怪さを感じている。

吉田:
 「貴種」
(貴種流離譚の)である三郎からの贈与を羨望する一郎。

天沢:
 木ペン、消し炭は筆記具の魔力性(「みじかい木ペン」にはっきりしている)を象徴している。ここでは木ペンがないとどうしようもない側と消し炭で物語を作っていける者との対比。

天沢:
 9月4日では"三郎"が地の文の、"又三郎"が子供たちの呼び方として意識的に使い分けられているのを作者手書き原稿の手入れ状況が鮮やかに示している。

吉田:
 にもかかわらず地の文で「曲り角の処に又三郎が」と"又"が使われているのは、そこが曲り角、分かれ道という「又」の部分、つまり誘惑の場所、迷いの場所であるからである。このあとにも二ヶ所の分かれ道が出てくる。

天沢:
 「約束の湧水」とは美しい。学校の湧水は「ごぼごぼ」、ここは「こぼこぼ」。標高の違いによるリアルな書き分け。

吉田:
 春日明神の帯はガラスのマントにつながる。
 兄さんが現れると明るくなり、居なくなると暗くなる。
 「種山ケ原」の牛よりもこの馬のほうが風との関連性がはっきりしている。
 途中から三郎が消えてしまう話運び。

天沢:
 ほんの数時間の間にめまぐるしく変る天候の変動はこの高原(種山ケ原)の一年間を凝縮している。描写は3、4行で次々に変っていくが密度は濃い。

吉田:
 二つ目の「又」は「すてきに背の高い薊の中で、二つにも三つにも分れてしまって、」。三つ目の「又」は「大きなてっぺんの焼けた栗の木の前まで来た時、ぼんやり幾つにも岐れてしまいました。」。そしてついにそこは牧場馬ではない野馬の場所であった。

天沢:
 ススキが「みっともない」のは無節操だから。(トリックスターである嘉助にはそれなりの倫理観がある。)
 高原の入口には人間の祀りの場である栗の木、そして一番奥には人間がなかなかたどりつけない野馬の祭りの場。

吉田:
 ここへの通路は嘉助にだけ一回限り許された。

天沢:
 この広場は円と放射軸からなる車輪のイメージ。「幾つにも分かれる」というのが賢治の異世界への入口の印。「銀河鉄道の夜」の星の足も。


「そしてジョバンニは青い琴の星が、三つにも四つにもなって、ちらちら瞬き、脚が何べんも出たり引っ込んだりして、とうとう蕈(きのこ)のように長く延びるのを見ました。」

吉田:
 馬の陰で見えなかったもの(最初の饒舌だった三郎とは同一とは思えない、ものを言わない三郎)が姿を現す。9月1日の一旦姿を消した三郎が再び現れたあの不連続と通じる。

天沢:
 1日にぶるぶる震えた一年生と同じぶるぶる震える恐怖。
 おじいさんの「牧夫来るどまだやがましがらな。」はこのあとの専売局、発破、川を歩く人、巡査などの大人の世界の伏線。

吉田:
 草がパチパチ言うなど「帯電」していた世界が栗の木が後光を放つことによって放電し、電気が抜けて行く。

天沢:
 後光の形は車輪状である。前出「馬行き人行き自転車行きて」のじいさんの皺も。

吉田:
 9月5(6)日の書き出しの天候は7、8日のそれの伏線。
 この日から「違法行為」が三日間繰り返される。タバコの葉、発破、毒もみ。

天沢:
 この日から三日は連続した日である。7日で天候を「今日も・・・」と言っているのはこの日の翌日であることを意味している。「さいかち淵」を利用している部分も最初は9月8、9日としたのを7、8日に変えている。これも三日間を連続させようとした意図ではなかったか。
 初期の文圃堂、十字屋版全集あたりまでは内容未整理の印象を避けたいので日にちの章題を無視したが、その後章題を復活しようとした時にはこの部分の原稿が失われてしまっていた。
 十字屋本ではこの部分の主人公の表記を"三郎"で統一しているが本当はどうだったか分からない。

吉田:
 三郎がタバコの葉をむしるのは歌の「吹きとばせ」の荒々しさを思わせる。
 「
おら知らなぃぞ。」などの囃し立ては、1日の窓の中への囃し立て、このあとの風の論争その他も含めて、この物語の囃す、囃されるという祭(神事)の要素である。
 白い栗は痛々しい。深層の荒ぶる力を想起させる。

天沢:
 まだ落ちるはずのない青いいがを落とし、未成熟な白い栗を無理矢理むき出しにするのは、荒ぶる風のプリンシプル。
 三郎のこもった笑いを"わら"、みんなの開かれた笑いを"笑"と書き分けている。

吉田:
 喧嘩のやりかたを教えている。二人をみんなが見守り、最後は笑いへ。

吉田、天沢:
 ぶどうと白い栗の交換は交換としては成り立たない不平等であるが、贈与に対する返礼、和解の象徴である。 

天沢:
 栗の返礼は自然は持ちつ持たれつであるという意志。

吉田:
 9月7日。「巨きなさいかちの樹」は上の野原の「巨きな栗の木」に対する。この二つの樹が降霊の木であり、物語の二つのクライマックス(4、8日)を成す憑依空間を現出する。
 「ねむの木」の語感は眠い、ゆるい、だるい。
 だぁんだぁんと泳ぐ音は発破と翌日の雷(言わば空の発破)の予兆。裸で無防備にまっさかさまに飛び込むのも翌日の伏線。
 この日と翌日は発破と生洲の章。生洲とは囲まれた空間、子供たちの物語空間。発破とはそれを破るもの。

天沢:
 ステッキで掻き回される生洲は三郎をみんなで囲むことと同格。
 4日では子供たちと大人のビジネスの世界(牧夫)との間に兄、祖父という中間項、6日には専売局との間に一年生の小助の家があったが、この日は一郎がリーダーとして大人達との中間項の役割を果たしている。

吉田:
 嘉助の一人踊りは彼の感応しやすさを示している。
 
「生き返っても、もう遁げて行かないように」というのは物語り空間が現実に破られないようにということ。
 「空もまるで底なしの淵のように」とは上の世界が下の世界に侵される予兆。

天沢:
 「
活動写真のように」には作者の当時の映画への趣好が反映している。
 三郎が魚を返しに行くのには彼の父と庄助の職業の関連が関係している。
 川を歩く鼻の尖った男は作者の高等農林の恩師(関豊太郎教授)などの姿の投影かもしれない。

吉田:
 9月8日。「のぞき込む」「かくす」「裏」「岩穴」などは三郎の正体というテーマに関っている。
 この学校の裏の岩穴は運動場の隅の岩穴とは別らしい。

吉田、天沢:
 佐太郎は小さい子供らを仕切る中間の学年。上級生は蚊帳の外にいる。

天沢:
 黒い鳥は天候急変の兆し。

吉田:
 黒い鳥は物語の外(深層)からやって来たもの。
 
三郎は6日の違法行為が厳しく咎められたのに昨日今日の違法行為にみんなが寛大なことに反抗する気持ちで冷めている。
 前日のダイナマイト、
瓦斯、このあとの雷はすべて火のイメージ。
 鬼っこの根っこ(アジール)が不安定なところに決められたのは伏線。
 「押えたり押えられたり、何べんも」は物語全体の要約になっている。
 「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」は嘉助の物語終結宣言。
 「ひとり」と「みんな」の対比の構造が目立つ。

天沢:
 7、8日は話の進行の不可逆性(運命を操るものの存在)が感じられる。
 鬼っこの鬼とは異次元からの恐ろしい存在。鬼自身も忌まれる存在だと自覚している。みんなは二つの役割を何度も繰り返し体験することによって憑依状態となり、ついにストレンジャーの三郎一人が鬼となって、もう繰り返しには戻らないという収斂状態がやって来る。

吉田:
 鬼っこの場面は三郎が民俗学的「鬼」と名指されていく過程である。
 この日は4日と同じく雷が鳴り、憑依と脱魂が起る。

天沢:
 最初に叫んだのはおそらく嘉助である。7日に一郎が音頭を取りみんなが唱和したのと、この誰ともなく叫んだあとみんなが叫んだのと、そのあとみんなが「そでない。」と言いペ吉が繰り返したのとはパラレルである。いずれも誰だか知っている者のあとに従うのである。ここでみんなが恐がらずにすぐ唱和したのはやはり誰か知っている人間のあとに付いたのである。

天沢:
 9月12日。「第十二日」という章題はこの日がこれまでとは異なるレベルであることを意味する。

吉田:
 8日の出来事が十二日という新しい次元を開いた。それまでも4日などで何度か開けそうになってはいたが。
 この日の歌が1日の歌よりも最後の一行多いのは更に強く吹いていることを示す。

天沢:
 最後の一行(繰り返し)は夢の中のエコー。覚めかけている部分。

吉田:
 「
外ではほんとうにひどく風が吹いて」の「外」は物語という夢の覚めた外、幻想が壊れた外の意。
 この日は嘉助が主人公の物語から一郎が主人公の物語に転換してバランスを取っている。
 油合羽は雨を弾くもの。蓑も同じ。箒で掃くのは風雨(又三郎)の残骸を掃き出す儀式。民俗学的異人殺しのモチーフが感じられる。

「古来、村落共同体では、たまさかそこを訪れる通過者・異人(ストレンジャー)に対して、畏怖と賤視のいりまじった危険な感情を抱き、とりわけ薬商人や座頭、霊能者などを泊めてその治療や祈祷の恩恵に浴したあと、村境でこれを殺して金品を奪い、しかしそのために利益を得た者がのちにその祟りを受ける(た)のを、異人を祀ることで祓うというのが異人殺し伝承の基本パターンです。」(天沢退二郎「謎解き・風の又三郎」)

天沢:
 モリブデン鉱脈を司るのは地霊。8日の出来事が地霊に影響を与えて採掘の話が立ち消え、又三郎はいなくなった。モリブデンとマタサブローはM、Bなどの音声が明らかに共通。

吉田:
 モリブデンを掘らないことになったのと三郎が去ることとはワンセット。
 うちわは何かを追い払う道具。
 高田三郎はその内面を描かれることはない。そこにみんなの思いが注ぎ込まれて物語が成立した。

天沢:
 作者は人物の内面を描かないことについては相当意識的である。「銀河鉄道の夜」のカンパネルラも内面を描かれていない。彼は影法師である。


「風の又三郎の謎にせまる」(朝日カルチャーセンター横浜 ’02.1.26/2.23/7.06/7.13)より。(文責 当サイト)

 

*      *


「風の又三郎」の

 皆さんは「風の又三郎」を初めて読んだときのことをえていらっしゃるでしょうか。私の場合は小学校のとき友人に借りた童話集の中にあったのを読んだのですが、校庭のつむじ風の挿絵の印象とともに、これは現実世界の話を書いたものなのかそれとも夢か何かとらえようのないものを書いたものなのかどうも分からないという、とてもちゅうぶらりんな奇妙な感想を持ったことを覚えています。
 新美南吉「おじいさんのランプ」、岩倉政治「空気がなくなる日」とともに収録されていたように思います。記憶違いかもしれませんが。
 大人になってから改めて読んだ「風の又三郎」は、これは鮮やかなリアリティーを持った最高傑作というほかはありません。と同時に、またこれは別の意味での不思議さを散りばめた作品であることも分かりました。しかし長い間私はこのものがたりに、その奇妙さ、こそのゆえにも惹きつけられて来たような気がします。

 ここで言う「謎」というのに深い意味はありません。ご存知のように宮沢賢治は「風の又三郎」の原稿を未整理のまま遺しました。そのためにこれを原作に忠実なテキストで読むと読者は矛盾や奇妙な記述によってしばしば混乱してしまうことになります。風の又三郎の謎とはこの、オリジナルテキストを読んだ時に感じる素直な常識的疑問のことを言います。それにはいくつかの原因が考えられます。原稿整理の不徹底あるいは作者の勘違い。意図的な齟齬。読者の勘違い。知識不足。理解不足。しかしここではそれらを区別せずに冒頭から順に挙げていくことにします。謎に対する答は、一応のものとしてごく常識的なものとうがち過ぎなものを取り混ぜて挙げてみました。
 なお、もちろんものがたりプロパーの謎、例えば嘉助が見たガラスのマントは夢だったのか、などは除いてありますが、一部解釈のしかたによっては面白そうなものは残してみました。

9月1日

教室の中の子(三郎)はなぜ赤い髪なのか。
・作者の持っていた風の精のイメージによる。
※1
・自然の栗色に近い色をそう言った。鬼のイメージを思わせることによってより意識された。
・風に吹きさらされて赤茶っぽくなったイメージそのまま。
・なぜか髪の毛まで化け切ることが出来なかった。

三郎の眼はまっくろというのはどういうことか。
・パッチリとしていて黒目勝ちということ。都会的イメージとともに、底知れぬものを感じさせる。
・髪の毛と同じく化けにくい部分なのであろう。(狐のしっぽみたいなもの。)

机の上に石ころがあったのはなぜか。
・休み中の誰かのいたずら。
・又三郎(風)が吹き飛ばしてきた。ガラスが割れていたのも同じで、嘉一は濡れ衣かもしれない。

先生が玄関から出てきたのがなぜ驚きなのか。
・驚きではない。原稿未整理と考える。「と云っていたときこれはまた何という訳でしょう。先生が玄関から出て来て、ぴかぴか光る呼子を右手にもってもう集れの仕度をしているのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現さまの尾っぱ持ちのようにすまし込んで白いシャッポをかぶって先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。」のように理解する。
・「風野又三郎」の同じ場面※2も参考にすると、これはいつもの先生のやり方とは違うらしいと思われる。又三郎の干渉か。

三郎は最初から白い帽子を持っていたのか。
・たぶんそうである。
・明るい所へ出るので髪の毛を隠すため改めて変身した。

三年生がいないと明記されていたのに、なぜ三年生がいるのか。
・原稿未整理
と考える。冒頭近くの「三年生がないだけであとは」の消し忘れ。三年生がないのは前身作「風野又三郎」の設定※2を引き継いだものだが、作者は書き進むうちに気が変わって三年生を登場させたらしい。
・又三郎が引き連れてきた。とすると鉛筆騒動の「かよ」の存在も又三郎の意志ということになる。

嘉助は五年生と明記されていたのに、朝礼ではなぜ四年生なのか。
・作者の勘違い。
・又三郎の乱入による世界秩序の破壊。

9月2日

一人だけの6年生の名前は一郎のはずなのになぜ孝一になっているのか。
・この日の章は一番最後に書き直されたとされている。全面的な書き直しの一環。その後、他の日の部分の書き直しまでには至らなかったものと見られる。
※3
・前項、世界秩序破壊の一環。

この日地の文で三郎が又三郎と呼ばれているのはなぜか。
・上記の全面的な書き直しの一環。ものがたり執筆終盤の作者の意識による。
※4
・語り手の正しい洞察。

三郎はなぜ運動場で歩数を数えるようにしたのか。
・照れ隠しのようなもの。
・つむじ風を起こす準備。

先生が玄関から出てきたのは普通のことなのか。
・上記9月1日参照。

三郎の横の机も4年生なのか。
・原稿未整理が原因。前日の朝礼のところで嘉助も三郎も4年とされているが、実は5年なので当然隣は4年でよい。
・既述、世界秩序破壊の一環。

三郎は4年のはずなのになぜ国語の本を出しているのか。
・前項参照。

嘉助はまた5年生なのか。
・前項に同じ。

三郎も5年生なのか。
・前項に同じ。学年ついては登場人物
本文内の学年などの表記参照。

5年生は読本の何ページの何課を開けばよいのか。
・原稿未整理。後日の記入予定であっったと思われる。この後も散見される空白部分も同様。 

三郎はなぜ消し炭を持っていたのか。
・鉛筆がなくなったのでどこかで拾ってきたもの。三郎の自由な発想を示している。
・又三郎にとっては鉛筆の意味が分からない。その辺に落ちていた消し炭を使うことについて何の不思議も感じていない。

9月4日

6年生の名前はやはり一郎なのか。
・上記9月2日参照。

地の文で三郎が元どおり三郎と呼ばれるのはなぜか。
・このあたりでの作者(語り手)の意識。上記9月2日参照。
・又三郎の干渉。

やって来たのは初め4人のはずなのになぜ3人になったのか。
・作者の勘違い。
・このようなことは又三郎の回りでは起こるのだ。

最初いなかった耕助がなぜいるのか。
・作者の勘違い。あるいは書かれていないがどこかで合流した。
・前項に同じ。

9月?日

この日は本当は何日なのか。
・この部分の原稿が紛失していて不明。しかし、4日の出来事から考えて翌日の5日とするのには抵抗がある。あれだけショッキングなことがあった翌日にもうケロリとしているのはいかがなものか。7日へのつながりから考えてもこの日を6日としたい。たばこの葉をむしって、すぐその翌日に男に脅えるというのが自然ではなかろうか。

地の文で三郎がまた、又三郎と呼ばれるのはなぜか。
・このあたりからの作者(語り手)の意識。
※5
・4日の事件を経て、又三郎も語り手に干渉し切れなくなった。

9月7日

三郎は本当はなぜみんなの泳ぎ方を笑ったのか。
・単に見慣れない稚拙な泳ぎに見えたから。やや優越感と自意識過剰による。
・又三郎(風)にとっては水というものはさらさらと表面を渡るのがスマート。

鼻の尖った変な男の人の正体は何だったのか。
・作者自身が投影された地質関係者。専売局ではない。
※6
・又三郎を連れ戻しに来た風の世界の使者。水の上を行ったり来たりする。

9月8日

ねむの河原でなぜガスの匂いがしたのか。
・前夜誰かが行った灯火漁のなごり。アセチレンランプの燃料を捨てたらしい。
※7

最初に「雨はざっこざっこ・・・」と叫んだのは誰か。
・みんなのうちの誰か一人。激しい雨と風で定かには方向が聞き取れなかった。
・本物の風の又三郎。俺の名を騙るのは誰だと言っている。
・土着の自然の精。三郎の正体を言い当てている。
・コックリさんの神。(下記コックリさん参照)

みんなが叫んではいないと言ったのはなぜか。
・共謀して意地悪をした。
・無我夢中(集団催眠のような状態)であったから。
・コックリさんの催眠状態。三郎は醒めたので訳がわからず震えている。
・土着の精あるいは本物の又三郎に操られていたから。
9月12日

三郎はいつ風の歌を聞かせたのか。また、なぜ歌を知っていたのか。
・描かれてはいないが、3、5、9、10日のいずれか。誰かに教えられた。
・三郎は歌ってはいない。一郎の夢の中の錯覚、または夢の中で二度聞いたと解釈する。
・いずれかの日に歌ったかどうかは別にして、又三郎として一郎の夢に干渉した。

なぜ先生は普通の単衣を着て赤いうちわを持っているのか。
・台風(南風)の影響で気温が上がり、室内では蒸し暑かった。また、もし台風の目に入ったのであるならそれによって幾分高温となったとも考えられる。
・一郎たちがそれまで先生のくつろいだ姿を見たことがなかったので特に注目しただけ。
・この大事なときになぜのんびりしているのかという一郎たちの気持ち故に不思議に思われたもの。
・起きぬけで朝食の準備のため渋うちわで七輪の火を起こしていた。
※A
・死神としての三郎が去ったことへの祝福。一日の三郎の父の白黒のいでたちと白い扇に対応する。
※B

宿直室の方でごとごと鳴ったのは何か。
・風が何かを吹き倒した。
・七輪の鍋か釜。
※A
・それ以上言うなという又三郎からの合図。

先生が急いでそっちへ行ったのはなぜか。
・何か倒れた物を見に行っただけ。
・鍋か釜を見に戻った。
※A
・又三郎のコントロール。

 ※A 栗原敦「風の又三郎」雑志(宮沢賢治5 洋々社)より。
 ※B 日本テレビ「世界一受けたい授業」('07/10/13)より。

 

 ざっとこんなところですが、どうでしょう、これらの答えに納得がいったでしょうか。
 (なお、答えの部分で「作者の勘違い」と表現したのは、むしろ「原稿未整理」とした方が良かったかもしれません。というのは、原稿はまだ書き込みや削除の多い混沌とした状態で、後にもっとはっきりとした清書を行うことを予定した上での推敲の段階であったことが明らかだからです。清書原稿が完成しなかったことは残念ですが、その後の関係者の努力がそれを補い、十分立派な現行の本文が成立しました。※8

 風の又三郎オリジナル草稿は、さてそれでは上記のような謎をほかにどんな風に受け止めたら面白いだろうかとあれこれ考える楽しみを与えてくれているのだと考えることにしたらどうでしょうか。そして、そうするとそこで私は一つの「SF風の又三郎」という新趣向を思い付くことになりました。

*      *

コックリさん

 「風の又三郎」が壮大なコックリさんである※9と言いましたが、それを裏付けるのは何でしょうか。
 コックリ(狐狗狸)さんの構成要素は、紙(フィールド)と文字(言葉)、鉛筆(棒)、それを動かす複数の手、それによる不規則な動き、そしてつづり出される言葉です。ものがたりの中にそれらのものを探してみることにしましょう。

 九月一日
 嘉助の「ちょうはあかぐり」。まだ意味を持つに至らない文字の羅列。
 みんなと三郎との間に通じない言葉。
 教室の構造と生徒たちの列は五十音図を思わせる。三郎の参加と三郎の父という異物の添加は新しいフィールドが用意されたことを意味する。

 九月二日
 小さな子供らの棒かくしの棒は鉛筆を意味する。鉛筆を探しているのか、隠そうとしているのか。
 三郎が試しに動いてみてもみんなはついて来ない。そこで乱暴にかき回してみる。(つむじ風)
 三郎は自分の鉛筆を差し出して開始の準備をする。
 三郎は国語の授業でみんなと言葉を共有すること(唱歌も一緒に歌える)を確認する。
 三郎は早くも一人で先走る。(消し炭)

 九月四日
 みんなも参加し始める。(鞭を振るのは鉛筆の代替シンボル)
 上の野原への道筋は鉛筆の動き。
 みんなと三郎の動きにはずれがある。(春日明神の帯、熊)
 抑制的な大人。(土手から出るなと言う兄さん)
 嘉助が動かすのは丸太の棒。
 もっと激しく動こうという三郎のそそのかし。(競馬)
 鉛筆の暴走と彷徨。(馬の逃走、道の分岐、反復、ススキの手の方向の混乱)
 決定的文章出現の寸前。(深い谷の前での引き返し)
 錯乱と催眠状態。
 三郎の離脱?(飛翔)
 一旦の収束。(救助)

 九月六日、七日
 この二日間は三郎は比較的おとなしくしている。
 三郎はみんなとは共同せず(栗を棒で取る)、みんなの側のつづる言葉に対し反発し嘲笑してみたり(耕助との論争)、成り行きに任せたり(鼻の尖った男への囃し言葉)している。

 九月八日
 鬼っこはコックリさんの擬似行為。
 じゃんけんで出したみんなの手。
 何べんもあっちへ行ったりこっちへ来たりする。
 みんなで動かないでいるところを三郎は突き動かし、腕をつかんでぐるぐる引っぱり回す。
 突然文章がつづり出される。(叫び声)
 憑依中のみんなは自分たちが叫んだ(鉛筆を動かした)のだという自覚がない。

 九月十二日
 教室は水に浸かっている。それを二人は掃き出したが、すでにフィールドは失われていて再現しようがない。

 以上、注意しなければならないのは三郎が自覚的にある状態へと事態を推進させていったというわけではないことです。三郎も自らの行動の意味については無自覚でした。三郎とみんなの行動が絡み合って運命的に否応なくそこへ引き寄せられて行ったのだと言えましょう。ですから三郎は最後には意外な結果に驚愕して身を引いてしまいます。


※1 作品の成り立ち参考作品抜粋
※2 参考作品紹介「風野又三郎」を読む・「風野又三郎」全文9月1日
※3 作品の成り立ち病床
※4 鑑賞の手引き(1)9月6日
※5 鑑賞の手引き(1)9月6日
※6 作品の成り立ち先駆作品
※7 鑑賞の手引き(1)9月8日注、作品の成り立ち創作メモ
※8
原作本文原文について
※9 鑑賞の手引き(1)9月8日


次は 「SF風の又三郎」

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