参考作品紹介
「風野又三郎」を読む
あらすじ (執筆の時期及び曜日の関係から1924年(大正13年)の設定と思われる。括弧の中の下線部は「風の又三郎」との相違点。当然の相違点には下線は付けない。)
9月1日 小さな小学校の教室に不思議な男の子が現れる。 (冒頭の歌は“ああまいざくろも吹きとばせ すっぱいざくろもふきとばせ”。三年生はいない。不思議な子は赤毛で鼠いろのマントを着て透き通った靴をはいている。先生には不思議な子は見えない。)
9月2日 不思議な男の子は草山で子供達に風の精、風野又三郎と名のり、岩手山に行った話など風としての体験談を聞かせる。 (草山は川の向こう側にある。不思議な子は毎日草山の栗の木の下に来る。彼は“風野又三郎”と名のり、子供たちは“風の又三郎”と言う。又三郎はやや生意気で高飛車な物言い。昨日は二百十日だと言う。“タスカロラ海床”に言及する。又三郎が廻るとマントがギラギラ白光りする。)
9月3日 又三郎は東京の大将の家を通りかかった話、峠を通る幼い兄弟を吹き付けた話などをする。 (又三郎は大将の家で叫んだ風の歌を歌う。人をうらやましがるなという説教もする。靴が“ガラスの”、マントが“すきとおる”と描写されている。)
9月4日 サイクルホール(低気圧)の話をする。
9月5日 上海の気象台から日本まで吹いてきた話をする。 (岩手県水沢市の緯度観測所※が登場する。子供たちは又三郎の勝手な言動に変な気がする。)
※現国立天文台観測センター。北緯39度8分。※19月6日 又三郎に飽きたみんなは草山へ行かない。又三郎は耕一にいたずらをして木のしずくを浴びせ、風で傘を壊す。 (午前中雨。みんなは又三郎になれて、“まるで東京からふいに田舎の学校へ移って来た友だちぐらい”に思うようになる。壊れた傘はうちへ帰ってみるとちゃんと直して返されている。マントが“ガラスの”と描写される。)
9月7日 耕一は日曜にもかかわらず一郎と一緒に草山へ行き又三郎に談判しようとするが、風についての論争となり、最後は仲直りをする。又三郎は風がするいたずらと良いことについて話す。 (耕一は風は稲を倒すと言い、又三郎も認め、詳しく話す。)
9月8日 地球規模の大循環の話をする。
9月9日 昨日の話の続き。
9月10日 一郎は又三郎から聞いた風の歌を夢の中で聞き目覚める。折からの台風に乗って又三郎がさよならを言って去っていくのがわずかに見える。 (又三郎は飛びながら“楢の木の葉も引っちぎれ とちもくるみもふきおとせ”と歌う。)
「風の又三郎」への主な移行
風の歌が1日と12日へ。
1日の冒頭から朝礼、教室での先生の話までが、1日へ。
2日の又三郎が座っている情景の影の描写、一郎と耕一が又三郎の前にかけ上がって来るところの息が切れた描写が4日へ。
6日の耕一が木の雫をかけられること、7日の耕一と又三郎の風に関する論争が6日へ。(“まるで東京からふいに田舎の学校へ移って来た友だちぐらい”の概念が、北海道から転校して来た高田三郎へ。※)
10日の又三郎の声と姿以外の部分が12日へ。※古賀良子「一つの『心象スケッチ』の出来上るまで」(「四次元」 昭和29・9、10 宮沢賢治研究会)で指摘された。
「風」に関する用語の解説
9月4日
サイクルホール=作者の造語。つむじ風や台風など、空気の渦。主に中心の上昇気流によって形成される低気圧状態。周辺の大気が等圧線に対し直角(気圧の低い中心方向に真っ直ぐ)ではなく、風速に比例して右に傾いて流れ込むのは作中の記述どおり。(下記9月4日の読解参考参照)※2
逆サイクルホール=高気圧。下降気流が地表に当たってできる状態。
9月5日
風力計=お椀がくるくる回るロビンソン風速計
風信器=風向計
颶(ぐ)風=台風
暴風=下の表参照
9月8日
赤道無風帯=南北の貿易風帯からの風が向かうが、太陽に暖められ上昇気流を生む低圧帯。
9月4日の読解参考:低気圧の風向a. 気圧傾度力 低気圧の中心に向かい、等圧線に対し直角の力。
b. 転向力 地球の自転によるねじれの力。風速に比例する。北半球では右向き。低気圧の渦形成の契機。(偏向力、コリオリの力)
c. 遠心力 外側に向かう力。
d. 摩擦力 地表、海面との摩擦による、後方への力。
1. 傾度風 上空において a=b+c のとき、北半球では反時計回りに等圧線に平行に吹く風。
2. 旋衡風 台風の中心付近や竜巻において a=c のとき、北半球では反時計回りに等圧線に平行に吹く風。
3. 地上風 地表において 1、2 に d が加わって、やや中心方向へ吹き込む風。※3
9月5、8日の読解参考:海陸風、島風
海風 昼間は陸が暖められ、風は海から陸、島に向かって吹く。
陸風 夜間は比較的海が暖かく、風は陸、島から海に向かって吹く。
9月5日の読解参考:ビューフォート風力階級表から
平穏 ~0.2m 煙がまっすぐ上昇。 至軽風 0.3m~ 煙がなびく。 軽風 1.6m~ 顔に風を感じる。木の葉がゆれる。風見が動く。 軟風 3.4m~ 木の葉や細い枝がたえず動く。軽い旗が開く。 和風※ 5.5m~ 砂ほこりが立つ。紙片が舞い上がる。小枝が動く。旗がはためく。 疾風 8.0m~ 葉のある低木がゆれる。池の水面に波頭が立つ。 雄風 10.8m~ 大枝が動く。電線が鳴る。傘がさせない。 強風 13.9m~ 樹木全体がゆれる。風に向かって歩きにくい。 疾強風 17.2m~ 小枝が折れる。風に向かって歩けない。 大強風 20.8m~ 建物にわずかの損害。瓦がはがれる。 全強風 24.5m~ 樹木が根こそぎになる。建物に大きな損害。 暴風 28.5m~ 広い範囲の破壊をともなう。海は山のような波で中小船舶は一時見えなくなる。海面は風向に沿った長い白い泡の群れで覆われ、波頭が飛ばされて水煙となる。 台風 32.7m~ 重いものが飛ぶ。家が倒れる。記録的な大被害。 ※ 詩「和風は河谷いっぱいに吹く」(「春と修羅第三集」)他も思い起こされる。
(ビューフォート=ボーフォート Francis Beaufort 1774-1857)
9月8・9日の読解参考:大気の大循環模式図
9月8日の読解参考:極渦
「幻想」に気象学の裏打ち 地球上の風の摂理を平易に 根本順吉 (朝日新聞1989年3月2日)
(略)極渦の概念が長期予報の現場に生なましく持ちこまれたのは、賢治のこの作品が生まれてからおよそ二十年後の戦後のことであり、当時、冬から春先にかけての極気の氾濫の源泉として極渦が注目された。この極渦に風の又三郎がいったん入ると、なかなか出られぬ話が、この作品ではのべられているのであるが、極気が極渦によって周囲の空気から遮断されてしまうという考えこそ、まさしく現代的話題なのである。二・三年前から特に注目されるようになった南極オゾン・ホールの形成は極渦のこのような働きなくしては考えられぬことで、これは賢治のおどろくべき先見であると私は思う。(略) (気象研究家)
●「風の又三郎」中の風については「風の又三郎」を吹く風参照。
●風に関する用語についてはおしまいにのリンク参照。
○「風野又三郎」と「風の又三郎」の比較については風野又三郎から風の又三郎へ参照。
以下の童話の全文はおしまいにのリンクを利用してお読みになれます。
「みじかい木ペン」(「みぢかい木ペン」)概要
あらすじ
キッコ(男の子)は学校で慶助に鉛筆を取られてしまう。
帰途、キッコはみすぼらしいおじいさんから短い鉛筆をもらう。
翌日、短い鉛筆は何でもひとりでに正しい答を書いてしまう。喜んだキッコはそれからだんだん威張るようになる。
ある日キッコはその鉛筆をなくし、窮地に立つ。
「風の又三郎」への移行は最初の鉛筆を取られる場面と、となりの三郎に鉛筆を貸してくれという場面が2日へ。
「種山ヶ原」を読む
あらすじ
種山ケ原(上の原)の説明。※4
夏休みもそろそろ終わり。達二は剣舞のことを思い出している。
達二はお兄さんとおじいさんが働く上の原へ牛を連れて使いに行く。
上の原で牛が逃げ出し、達二は追いかける。辺りの情景描写。天候の急変。大きな谷との遭遇。
達二は昏倒し、剣舞、教室での先生の話、可愛らしい女の子、山男と争って殺してしまう夢を見る。
牛も見つかり、兄さんが助けに来て雨も晴れる。
「風の又三郎」への移行は夢の先生の場面が「風野又三郎」を経由して1日へ。達二が出発してから夢の部分を除いてほとんど全部が4日へ。(天候などについては作者の実際の種山ケ原行の体験が生かされている※。種山ケ原、夢を見ること、“楢夫”の名が「さるのこしかけ」と共通しており、両作品の近親性を思わせる。“楢夫”は「ひかりの素足」にも登場する。)
※歌稿「大正六年七月より」で種山ケ原を歌っている七首をみると、この年9月初頭の最初の種山ケ原調査行は濃霧に見舞われたらしいことが分かる。
大正14年7月の日付のある口語詩「種山ケ原」(春と修羅第二集)の下書き稿「種山と種山ケ原」によると「(略)今日なら誰が迷ふものか/こんなところはなんでもない/この前江刺の方から登ったときは/雲が深くて草穂は高く/牧道は風の通った痕と/あるかないかにもつれてゐて/あの傾斜儀の青い磁針は/幾度もぐらぐら方位を変へた(略)」
「さいかち淵」を読む
あらすじ
8月13日。ぼくは しゅっこ(リーダー格の男の子)といっしょにさいかち淵へ泳ぎに行く。
大人たちが発破漁をする。ぼくらは流れてきた魚を取る。
みんなで変な格好の鼻の尖った男を囃し立てて追いやる。
8月14日。しゅっこの毒もみ漁が失敗し、みんなは鬼ごっこをする。
しゅっこが鬼になって乱暴な振る舞いをした後天候が急変し、不思議な叫び声が聞こえ、とても怖かった。けれどもぼくは、みんなが叫んだのだとおもう。
「風の又三郎」への移行は13日ほとんど全部が7日へ、14日ほとんど全部が8日へ。13日のしゅっこは「風の又三郎」では一郎となり、14日のしゅっこは「風の又三郎」では毒もみ主宰者としては佐太郎、鬼としては三郎となる。また、「さいかち淵」の三郎は「風の又三郎」では嘉助(一部耕助と一郎)となる。文末の文体は「た」であるが「風の又三郎」では一部を除いて「ました」に変換されている。
(発破漁をする“石神の庄助”の“石神”はさいかち淵が実在した花巻の地名だが、「風の又三郎」では削られている。最後の“けれどもぼくは、みんなが叫んだのだとおもう。”は「風の又三郎」では削られている。)
「種山ヶ原の夜」概要
戯曲。1924年(大正13年)9月2日の設定。未明の種山ケ原の草刈小屋。放牧馬は既に高原を下りているはずなのに迷い馬の声がする。仲間が馬を捜しに行った間にあとに残った若い農夫が夢をみる。農夫は樹木の精たちに、山の森が国から払い下げられるかどうか教えてくれと言う。精たちは払い下げを受けたら木を一本も伐らないと約束しろと言う・・・。
「風の又三郎」の主に9月4日との共通点は、草刈り、草小屋と焚き火、「笹長根」、「嘉っこ」、放牧馬の行方不明の話、迷い馬を捜しに行く、山葡萄、白い鏡のような太陽と走る雲、背の高い薊、雷神、北上の野原の眺め、天気が晴れての草刈り再開、など。(下線は「種山ケ原」にはないもの)
(日付については作者の大正6年の実際の種山ケ原行をふまえていると思われる。余談ながら、この年(大正13)のこの夜はちょうど「風野又三郎」の“風野又三郎”が谷川の岸の小さな学校に現れたその夜に当たる。今、又三郎は岩手山にいる。このあと学校のそばの草山へ行くために種山ケ原辺りをめがけて吹いて来るはずである。)
「鳥をとるやなぎ」抜粋
(飛んでいる鳥を吸い込むという木を友人と一緒に見つけに行く。)
私たちは河原にのぼって、砥石になるような柔らかな白い円い石を見ました。ほんとうはそれはあんまり柔らかで砥石にはならなかったかも知れませんが、とにかく私たちはそう云う石をよく砥石と云って外の硬い大きな石に水で擦って四角にしたものです。
「風の又三郎」の7日の砥石の由来。
「毒もみの好きな署長さん」抜粋
山椒の皮を春の午の日の暗夜に剥いて土用を二回かけて乾かしうすでよくつく、その目方一貫匁を天気のいい日にもみじの木を焼いてこしらえた木灰七百匁とまぜる、それを袋に入れて水の中へ手でもみ出すことです。
そうすると、魚はみんな毒をのんで、口をあぶあぶやりながら、白い腹を上にして浮びあがるのです。(中略)
とにかくこの毒もみをするものを押えるということは警察のいちばん大事な仕事でした。
「風の又三郎」の8日の毒もみの先駆。
「台川」
農学校の教師として生徒達を連れて川を歩き、地学の実地指導をする作者が自らを内省的に描く。
「風の又三郎」の7日の川を歩く男から連想される。
「イギリス海岸」
作者が農学校の教師として夏休みの農場実習の暇に生徒達を連れて北上川に遊びに行ったときの体験談。
同上。
「楢の木大学士の野宿」
宝石商から蛋白石の注文を受けた学者が採集の旅に出、三夜に亘って地学的な夢を見る。
「風の又三郎」の7日の川を歩く男を思い起こさせる。
「泉ある家」抜粋
これが今日のおしまいだろう、と云いながら斉田は青じろい薄明のながれはじめた県道に立って崖に露出した石英斑岩から一かけの標本をとって新聞紙に包んだ。
富沢は地図のその点に橙を塗って番号を書きながら読んだ。斉田はそれを包みの上に書きつけて背嚢に入れた。
二人は早く重い岩石の袋をおろしたさにあとはだまって県道を北へ下った。
道の左には地図にある通りの細い沖積地が青金の鉱山を通って来る川に沿って青くけむった稲を載せて北へ続いていた。山の上では薄明穹の頂が水色に光った。俄かに斉田が立ちどまった。道の左側が細い谷になっていてその下で誰かが屈んで何かしていた。見るとそこはきれいな泉になっていて粘板岩の裂け目から水があくまで溢れていた。
(一寸とおたずねいたしますが、この辺に宿屋があるそうですがどっちでしょうか。)
浴衣を着た髪の白い老人であった。その着こなしも風采も恩給でもとっている古い役人という風だった。蕗を泉に浸していたのだ。
(宿屋こゝらにありません。)
(青金の鉱山できいて来たのですが、何でも鉱山の人たちなども泊めるそうで。)
老人はだまってしげしげと二人の疲れたなりを見た。二人とも巨きな背嚢をしょって地図を首からかけて鉄槌を持っている。そしてまだまるでの子供だ。
(どっちからお出でになりました。)
(郡から土性調査をたのまれて盛岡から来たのですが)
(田畑の地味のお調べですか。)
(まあそんなことで)
老人は眉を寄せてしばらく群青いろに染まった夕ぞらを見た。それからじつに不思議な表情をして笑った。
(青金で誰か申し上げたのはうちのことですが、何分汚いし、いろいろ失礼ばかりあるので)
(いゝえ、何もいらないので)
(それではそのみちをおいでください。)
老人はわずかに腰を曲げて道と並行にそのまゝ谷をさがった。五六歩行くとそこにすぐ小さな柾屋があった。道から一間ばかり低くなって蘆をこっちがわに塀のように編んで立てていたのでいままで気がつかなかったのだ。老人は蘆の中につくられた四角なくぐりを通って家の横に出た。二人はみちから家の前におりた。
(とき とき お湯持って来) 老人は叫んだ。家のなかはしんとして誰も返事をしなかった。けれども冨沢はその夕暗と沈黙の奥で誰かがじっと息をこらして聴き耳をたてているのを感じた。
(いまお湯をもって来ますから。) 老人は自分でとりに行く風だった。
(いいえ。さっきの泉で洗いますから、下駄をお借りして)
老人は新しい山桐の下駄とも一つ縄緒の栗の木下駄を気の毒そうに一つもって来た。
(どうもこんな下駄で。)
(いゝえもう結構で)
二人はわらじを解いてそれからほこりでいっぱいになった巻脚絆をたゝいて巻き俄かに痛む膝をまげるようにして下駄をもって泉に行った。泉はまるで一つの灌漑の水路のように勢よく岩の間から噴き出ていた。斉田はつくづくかゞんでその暗くなった裂け目を見て云った。
(断層泉だな)
(そうか。)
富沢は蕗をつけてある下のところに足を入れてシャツをぬいで汗をふきながら云った。
頭を洗ったり口をそゝいだりして二人はさっきのくぐりを通って宿へ帰って来た。その煤けた天照大神と書いた掛物の床の間の前には小さなラムプがついて二枚の木綿の座布団がさびしく敷いてあった。向うはすぐ台所の板の間で炉が切ってあって青い煙があがりその間にはわずかに低い二枚折の屏風が立っていた。
二人はそこにあったもみくしゃの単衣を汗のついたシャツの上に着て今日の仕事の整理をはじめた。富沢は色鉛筆で地図を彩り直したり、手帳へ書き込んだりした。斉田は岩石の標本番号をあらためて包み直したりレッテルを張ったりした。そしてすっかり夜になった。
さっきから台所でことことやっていた二十ばかりの眼の大きな女がきまり悪そうに夕食を運んで来た。その剥げた薄い膳には干した川魚を煮た椀と幾片かの酸えた塩漬けの胡瓜を載せていた。二人はかわるがわる黙って茶椀を替えた。
(この家はあのおじいさんと今の女の人と二人切りなようだな。)膳が下げられて疲れ切ったようにねそべりながら斉田が低く云った。
(うん。あの女の人は孫娘らしい。亭主はきっと鉱山へでも出ているのだろう。) ひるの青金の黄銅鉱や方解石に柘榴石のまじった粗鉱の堆を考えながら富沢は云った。女はまた入って来た。そして黙って押入れをあけて二枚のうすべりといの角枕をならべて置いてまた台所の方へ行った。
二人はすっかり眠る積りでもなしにそこへ長くなった。そしてそのまゝうとうとした。(後略)
作者学生時代の土性調査の雰囲気が窺える。「富沢」は「宮沢」のもじりらしい。「青金」が「赤金」に当たるとすれば県道は盛街道、川は人首川と思われ、「風の又三郎」の舞台と重なる(ものがたりの舞台(1)周辺の村々、種山ケ原俯瞰画像参照)。
この作品は「風の又三郎」と同じ最晩年の昭和6~8年頃の作と考えられている。
「十六日」抜粋
ふと表の河岸でカーンカーンと岩を叩く音がした。二人はぎょっとして聞き耳をたてた。
音はなくなった。(今頃探鉱など来る筈あなぃな)嘉吉は豆の餅を口に入れた。音がこちこちまた起った。
(この餅拵えるのは仙台領ばかりだもな)嘉吉はもうそっちを考えるのをやめて話しかけた。(はあ、)おみちはけれども気の無さそうに返事してまだおもての音を気にしていた。
(今日はちょっとお訪ねいたしますが)門口で若い水水しい声が云った。(はあい)嘉吉は用があったらこっちへ廻れといった風で口をもぐもぐしながら云った。けれどもその眼はじっとおみちを見ていた。
(あ、こっちですか。今日は。ご飯中をどうも失敬しました。ちょっとお尋ねしますがこの上流に水車がありましょうか。)若いかばんを持って鉄槌をさげた学生だった。
(さあ、お前さんどこから来なすった。)嘉吉は少しむかっぱらをたてたように云った。
(仙台の大学のもんですがね。地図にはこの家がなく水車があるんです。)
(ははあ)嘉吉は馬鹿にしたように云った。青年はすっかり照れてしまった。
(まあ地図をお見せなさい。お掛けなさい。)嘉吉は自分も前小林区に居たので地図は明るかった。学生は地図を渡しながら云われた通りしきいに腰掛けてしまった。おみちはすぐ台所の方へ立って行って手早く餅や海藻とさゝげを煮た膳をこしらえて来て、
(おあがんなんえ)と云った。
(こいつあ水車じゃありませんや。前じきそこにあったんですが掛手金山の精錬所でさ。)
(あゝ、金鉱を搗くあいつですね)
(えゝ、そう、そう、水車って云えば水車でさあ。たゞ粟や稗を搗くんでない金を搗くだけで)
(そしてお家はまだ建たなかったんですね、いやお食事のところをお邪魔しました。ありがとうございました)
学生は立とうとした。嘉吉はおみちの前でもう少してきぱき話をつゞけたかったし、学生がすこしもこっちを悪く受けないのが気に入ってあわてて云った。
(まあ、ひとつおつき合いなさい。こゝらは今日盆の十六日でこうして遊んでいるんです。かかあもせっ角拵えたのをお客さんに食べていたゞかなぃと恥かきますから。)
(おあがんなんえ。)おみちも低く云った。
学生はしばらく立っていたが決心したように腰をおろした。
(そいじゃ頂きますよ。)
(はっは、なあに、こごらのご馳走てばこったなもんでは。そうするどあなだは大学では何の方で。)
(地質です。もうからない仕事で。)餅を噛み切って呑み下してまた云った。(化石をさがしにきたんです。)化石も嘉吉は知っていた。
(そこの岩にありしたか。)
(えゝ、海百合です。外でもとりました。この岩はまだ上流にもニ三ヶ所出ていましょうね。)
(はあはあ、出てます出てます。)
学生は何でももう早く餅をげろ呑みにして早く行きたいようにも見えまたやっぱり疲れてもいればこういう歓待に温さを感じてまだ止まっていたいようにも見えた。
(今日はそうせばとどこまで、)
(えゝ、峠まで行って引っ返して来て県道を大船渡へ出ようと思います。)
(今晩のお泊りは。)
(姥石まで行けましょうか。)
(はあ、ゆっくりでごあんす)
(いや、どうも失礼しました。ほんとうにいろいろとご馳走になって、これはほんの少しですが。)学生は鞄から敷島を一つとキャラメルの小さな箱を出して置いた。
(なあにす、そたなごとお前さん。)おみちは顔を赤くしてそれを押し戻した。
(もうほんの、)学生はさっさと出て行った。
(なあんだ。あと姥石まで煙草売るどこなぃも。ぼかげで置いて来。)おみちは急いで草履をつっかけて出たけれども間もなく戻って来た。
(脚早くて。とっても)
(若いがら律儀だもな。)嘉吉はまたゆっくりくつろいでうすぐろいてんを砕いて醤油につけて食った。
この作品も学生時代の経験をもとにした最晩年の作と目されている。
「マグノリアの木」あらすじ
諒安は西域の険しい山の霧の中を眠ったり倒れたりしながら苦労して歩いている。不思議な声が聞こえてくる。
霧が晴れ、一面のマグノリアの木が見える。二人の子供がマグノリアを讃えて歌う。
もう一人現れた人と諒安はお互いが同時に相手と同一であり、またマグノリアの木が寂静であり覚者の善であると話し合う。
彷徨と昏倒、霧の描写などが「風の又三郎」を思わせる。
「峯や谷は」抜粋
峯や谷は無茶苦茶に刻まれ私はわらぢの底を抜いてしまってその一番高いところから又低いところ又高いところと這ひ歩いてゐました。
雪がのこって居てある処ではマミといふ小さな獣の群が歩いて堅くなった道がありました。
この峯や谷は実に私が刻んだのです。そのけはしい処にはわが獣のかなしみが凝って出来た雲が流れその谷底には茨や様々の灌木が暗くも被さりました。雨の降った日にこの中のほゝの花が一斉に咲きました。
彷徨のモチーフなどのおおもとと言える。
「谷」あらすじ
私(尋常三年か四年)は馬番の理助にキノコを採りに山へ連れられて行って谷を見せられ、まるで頭がしいんとなるように思い、崖が恐ろしく見え、もうくるくるしてしまう。
翌年、藤原慶次郎とキノコ採りに出かけ、まだまだと思っていた崖がもうすぐ眼の前に出、私はぎくっとする。二人は俄かに恐くなって崖をはなれ、どんどん遁げる。
恐ろしい谷が「風の又三郎」を思わせる。
「さるのこしかけ」あらすじ
楢夫が栗の木に生えたさるのこしかけを見ていると三匹の小猿が現れる。
小猿に誘われて楢夫は栗の木の中に入り昇っていくと種山ケ原に出る。
楢夫は演習をしている猿たちに縛り上げられ高いところから落とされそうになるところを山男に受け止められる。
気がつくと元の家の前である。
種山ケ原、夢を見ること、“楢夫”の名が「種山ケ原」と共通しており、両作品の近親性を思わせる。“楢夫”は「ひかりの素足」にも登場する。
「銀河鉄道の夜」抜粋
その時向う岸ちかくの少し下流の方で見えない天の川の水がぎらっと光って柱のように高くはねあがりどぉと烈しい音がしました。「発破だよ、発破だよ。」カムパネルラはこおどりしました。
その柱のようになった水は見えなくなり大きな鮭や鱒がきらっきらっと白く腹を光らせて空中に抛り出されて円い輪を描いてまた水に落ちました。ジョバンニはもうはねあがりたいくらい気持ちが軽くなって云いました。「空の工兵大隊だ。どうだ、鱒やなんかゞまるでこんなになってはねあげられたねえ。僕こんな愉快な旅はしたことない。いゝねえ。」「あの鱒なら近くで見たらこれくらいあるねえ、たくさんさかな居るんだな、この水の中に。」
「小さなお魚もいるんでしょうか。」女の子が談につり込まれて云いました。「居るんでしょう。大きなのが居るんだから小さいのもいるんでしょう。けれど遠くだからいま小さいの見えなかったねえ。」ジョバンニはもうすっかり機嫌が直って面白そうにわらって女の子に答えました。7日の発破と同モチーフ。
*
みんなもじっと河を見ていました。誰も一言も物を云う人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして黒い川の水はちらちら小さな波をたてゝ流れているのが見えるのでした。
8日の“瓦斯のような匂”、創作メモの“火ぶり”のヒント。
「どんぐりと山猫」抜粋
けれども、一郎が眼をさましたときは、もうすっかり明るくなっていました。おもてにでてみると、まわりの山は、みんなたったいまできたばかりのようにうるうるもりあがって、まっ青なそらのしたにならんでいました。一郎はいそいでごはんをたべて、ひとり谷川に沿ったこみちを、かみの方へのぼって行きました。
すきとおった風がざあっと吹くと、栗の木はばらばらと実をおとしました。
この部分は、名前も含め「風の又三郎」そっくりの世界。
「やまなし」抜粋
『やっぱり僕の泡は大きいね。』
『兄さん、わざと大きく吐いてるんだい。僕だってわざとならもっと大きく吐けるよ。』
『吐いてごらん。おや、たったそれきりだろう。いゝかい、兄さんが吐くから見ておいで。そら、ね、大きいだろう。』
『大きかないや、おんなじだい。』
『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒に吐いてみよう。いゝかい、そら。』
『やっぱり僕の方大きいよ。』
『本当かい。じゃ、も一つはくよ。』
『だめだい、そんなにのびあがっては。』
またお父さんの蟹が出て来ました。
『もうねろねろ。遅いぞ、あしたイサドへ連れて行かんぞ。』
『お父さん、僕たちの泡どっち大きいの』
『それは兄さんの方だろう』
『そうじゃないよ、僕の方大きいんだよ』弟の蟹は泣きそうになりました。
“イサド”が見える。“伊佐戸”は上記「種山ケ原」にも見える。参考サイト:「やまなし」の学習
※1 ものがたりの舞台(1)種山ケ原周辺図
※2 風の又三郎を吹く風台風模式図
※3 風の又三郎を吹く風台風模式図
※4 ものがたりの舞台(1)ものがたりの舞台(1)
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