別れの時はすぐやって来ました。実験の期限は厳しく決められていたのです。
十一日の日曜日は実験の撤収の手伝いもあり、みんなとは会えませんでした。夜になると父達は宿直室で先生と別れの酒を酌み交わしました。実験の余熱を放射しているので宿直室の辺りはうだるような暑さでした。全員とねんごろな挨拶を交わした後、先生はくだけた格好のまま寝入ってしまいました。
翌朝、私は暗いうちに出発の用意を済ませました。外では実験の余波を交えた台風が吹き荒れています。このあと残っているスタッフと私が順にマシンで帰り、一番最後には父が一人で、まだ先生が起きる前に密かに実験室の入り口を厳重に閉じて帰還することになっています。
外が薄明るくなったころ時間になり、私はまだ余熱でうだる実験室のタイムマシンに乗りました。みんなに会って挨拶をすることが出来なかったのが心残りでしたが、私はもう二度と会えない一人一人に心の中でさよならを言いながら飛び立ちました。
* *
九 月 十 二 日 、第 十 二 日
「どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも、吹きとばせ
すっぱいかりんもふきとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう」先頃(センコロ)、又三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢の中で又きいたのです。
びっくりして跳ね起きて見ると、外ではほんとうにひどく風が吹いて、林はまるで咆えるよう、あけがた近くの青ぐろいうすあかりが、障子や棚の上の提灯箱や、家中一っぱいでした。一郎はすばやく帯をして、そして下駄をはいて土間を下り、馬屋の前を通って潜りをあけましたら、風がつめたい雨の粒と一緒にどうっと入って来ました。
馬屋のうしろの方で何か戸がばたっと倒れ、馬はぶるるっと鼻を鳴らしました。一郎は風が胸の底まで滲み込んだように思ってはあと強く息を吐きました。そして外へかけだしました。外はもうよほど明るく、土はぬれて居りました。家の前の栗の木の列は変に青く白く見えて、それがまるで風と雨とで今洗濯をするとでも云う様に、烈しくもまれていました。青い葉も幾枚も吹き飛ばされ、ちぎられた青い栗のいがは黒い地面にたくさん落ちていました。空では雲がけわしい灰色に光り、どんどんどんどん北の方へ吹きとばされていました。遠くの方の林はまるで海が荒れているように、ごとんごとんと鳴ったりざっと聞えたりするのでした。一郎は顔いっぱいに冷たい雨の粒を投げつけられ、風に着物をもって行かれそうになりながら、だまってその音をきゝすまし、じっと空を見上げました。
すると胸がさらさらと波をたてるように思いました。けれども又じっとその鳴って吠えてうなって、かけて行く風をみていますと、今度は胸がどかどかなってくるのでした。昨日まで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしていた風が、今朝夜あけ方俄かに一斉に斯う動き出して、どんどんどんどんタスカロラ海床の北のはじをめがけて行くことを考えますと、もう一郎は顔がほてり、息もはあはあなって、自分までが一緒に空を翔けて行くような気持ちになって、胸を一ぱいはって、息をふっと吹きました。
「あゝひで風だ。今日はたばこも粟もすっかりやらえる。」と一郎のおじいさんが潜りのところに立って、じっと空を見ています。一郎は急いで井戸からバケツに水を一ぱい汲んで台所をぐんぐん拭きました。それから金だらいを出して顔をぶるぶる洗うと、戸棚から冷たいごはんと味噌をだして、まるで夢中でざくざく喰べました。
「一郎、いまお汁(ツケ)できるから少し待ってだらよ。何(ナ)して今朝そったに早く学校へ行がなぃやなぃがべ。」
お母さんは馬にやる を煮るかまどに木を入れながらききました。
「うん。又三郎は飛んでったがも知れなぃもや。」
「又三郎って何だてや。鳥こだてが。」
「うん。又三郎って云うやづよ。」一郎は急いでごはんをしまうと、椀をこちこち洗って、それから台所の釘にかけてある油合羽を着て、下駄はもってはだしで嘉助をさそいに行きました。嘉助はまだ起きたばかりで、
「いまごはんだべて行ぐがら。」と云いましたので、一郎はしばらくうまやの前で待っていました。
まもなく嘉助は小さい簑を着て出てきました。
烈しい風と雨にぐしょぬれになりながら二人はやっと学校へ来ました。昇降口からはいって行きますと教室はまだしいんとしていましたが、ところどころの窓のすきまから雨が板にはいって板はまるでざぶざぶしていました。一郎はしばらく教室を見まわしてから、
「嘉助、二人して水掃ぐべな。」と云ってしゅろ箒をもって来て水を窓の下の孔へはき寄せていました。
すると、もう誰か来たのかというように奥から先生が出てきましたが、ふしぎなことは先生があたり前の単衣(ヒトエ)をきて赤いうちわをもっているのです。
「たいへん早いですね。あなた方二人で教室の掃除をしているのですか。」先生がきゝました。
「先生お早うございます。」一郎が云いました。
「先生お早うございます。」嘉助も云いましたが、すぐ、
「先生、又三郎今日来るのすか。」ときゝました。
先生はちょっと考えて、
「又三郎って高田さんですか。えゝ、高田さんは昨日お父さんといっしょにもう外(ホカ)へ行きました。日曜なのでみなさんにご挨拶するひまがなかったのです。」
「先生飛んで行ったのすか。」嘉助がききました。
「いいえ、お父さんが会社から電報で呼ばれたのです。お父さんはもいちどちょっとこっちへ戻られるそうですが高田さんはやっぱり向うの学校に入るのだそうです。向うにはお母さんも居られるのですから。」
「何して会社で呼ばったべす。」一郎がきゝました。
「こゝのモリブデンの鉱脉は、当分手をつけないことになった為なそうです。」
「そうだなぃな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」
嘉助が高く叫びました。宿直室の方で何かごとごと鳴る音がしました。先生は赤いうちわをもって急いでそっちへ行きました。
二人はしばらくだまったまゝ、相手がほんとうにどう思っているか探るように顔を見合わせたまゝ立ちました。
風はまだやまず、窓がらすは雨つぶのために曇りながらまだがたがた鳴りました。
(完)
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