余は如何にして風の又三郎信徒となりし乎

 私が初めて宮沢賢治さんの作品に接したのは、小学生の時に隣りのお金持ちの家の同級生S君に借りて読んだ童話集でであったと思います。新美南吉「おじいさんのランプ」、岩倉政治「空気がなくなる日」とともに「風の又三郎」が入っておりました。
 一番面白かったのは「空気がなくなる日」でした。ストーリーも、細かいところも非常によく覚えています。次に覚えていたのは「風の又三郎」です。なんだか捉えどころのない不思議な話だったなあという強い記憶が長い間残っていました。「おじいさんのランプ」は題名はよく記憶に残ったのですが、内容はさっぱり忘れていました。
 さて、この時のことが第一の伏線です。

 その後賢治さんの作品については学校の図書室かどこかで「よだかの星」を読んだのと、教科書に「雨ニモマケズ」があったようなのとぐらいを除くと、他にちょっと読んだものもきっとあったでしょうが、特段の記憶はありません。
 そうして大人になるまで、しかも中年になるまで、私にとって宮沢賢治という人は特別にどうということのない作家でしかありませんでした。ただ、ある仕事の関係で「雨ニモマケズ」を分析してみることがあった時に、長年不思議だった「ホメラレモセズ」の意味に私的に思い当たるところがあって、作者の人となりについてちょっと考えてみたということはありました。これが第二の伏線であったかもしれません。

 直接のきっかけはある人の朗読練習に接したことでした。それは懐かしいですねえ、と言いながら聞き始めた「風の又三郎」なのでしたが、読み上げられる一つ一つの場面の持つ非常に力強い現実感に引き込まれた私は、それだけでなく、それらの内容に自分が余りにも憶えのないことに愕然として、深く考え込まされてしまったのです。
 私は「風の又三郎」を読み返し、ついでに「おじいさんのランプ」、「空気がなくなる日」も捜し出して読んでみました。
 「空気がなくなる日」は、細かい内容も全体の印象も記憶どおりでした。
 「風の又三郎」は、部分的に憶えていた箇所以外はほとんど全く忘れていました。あの印象的なはずの風の歌や囃し言葉もです。新たな全体の印象は、あのぼんやりとした記憶とは反対にずいぶん現実的なリアルな話だったんだなという感じでした。
 「おじいさんのランプ」は、やはり私には題名以外には本当に何も残していなかったことを確認したのでした。

 もちろん、どれも名作です。しかしこういうことだったのでしょう。子供の私にとって、
 ・「空気がなくなる日」は文句無しに面白かった。題材も処理も子供(私)にとってぴったりの作品であった。
 ・「風の又三郎」は興味を惹かれながらも難しかった。子供の手に余るところがあった。
 ・「おじいさんのランプ」は面白くなかった。私にとっては大人の知恵が勝ち過ぎている内容であった。

 こうまとめ終えると同時に、私には「風の又三郎」だけをもっと読み返してみたい、もっと考えてみたいという思いが切迫して起こって来たのです。そうさせたものは何かと今思い返してみると・・・

 「空気がなくなる日」は一言で言えば、ある天文学的事件に遭遇して右往左往する人々の愚かな姿を描いたユーモラスな風刺話です。
 「おじいさんのランプ」は、時代に取り残されようとするある律義者を描いたペーソスあふれる教訓話です。
 では「風の又三郎」は、と考えてみて、そこで私にはどうもこの作品を一言でまとめる力はなさそうだと思い至ったのです。突然やってきた不思議な転校生に振り回される子供たち・・・と言ってみても、とてもこの作品はそんなことを描いたものなんかではないということは明らかです。
 他の作品はどれも何々を描いたと言うことが比較的簡単に可能です。上に例示した表現が的確かどうかは別にして、いずれ一定の文章でそれぞれの作品を規定することができそうに思えます。ところがこの作品はそれが出来ない・・・
 同じ地上の事物を描くにしても、ただ地表の事物そのものを描くものと、地中深くうねるものの奔騰せんとするとば口たる火口を描くものとの違いのような・・・
 あるいは仏教における顕教と密教。お釈迦様がそれぞれ相手に合わせて分かりやすくお説きになった「お経」と、宇宙の真理を人語に訳さずそのまま表わした「真言・陀羅尼」との違いのような・・・

 このように思い当たって、私は改めて「風の又三郎」を真剣に読み始めたということなのではないかと後知恵ながら考えております。

 

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