現在、石垣市字新川では、14カ所の遺跡が確認されている。そのうち、下田原期の遺跡は包含層が残っている場所は今のところなく、無土器期の名蔵貝塚や富崎貝塚などが一番古い時期の遺跡である。
 これらの遺跡の概要をあげながら、大字新川の先史〜原史・歴史時代のようすを見ていく。

喜田盛遺跡

1.遺跡の概要
 喜田盛遺跡は、県道・真栄里新川線の街路改良工事にともない見つかった遺跡である。平成12年度〜13年度にかけて、発掘調査が行なわれた。その結果、大きく分けて、三つの文化層が確認でき、それぞれの時代が分かる遺物が見つかっている。現在の住宅の状況からも分かるように、昔の人びとにとっても住みやすい場所だったらしい。新しい遺跡は古い遺跡を壊しながら、生活を続けているため、昔から道路として使われていた車道部は比較的よく残っていたが、歩道部や住宅の部分は、遺構はほとんど壊された状態であった。
2.遺跡から見つかっているもの
 土器、陶磁器、埋葬人骨、石器、貝器、炉跡、柱穴、食糧残滓としての動物遺存体などが確認されている。遺跡からは海の貝に混じって、シレナシジミ(キガジョウ)もたくさん出土しており、当時は近くにマングローブのある川が流れていたことを教えてくれる。
3.その他
 喜田盛遺跡は、市街地の遺跡において、先史〜原史・歴史時代にとても重要な意味を持つ。先史から人が住み続け、そして、現代まで続く。また、この遺跡では、明和の津波の影響と思われるが、1770年代後半から、一時期、遺物が出土しなくなる時期があることが分かっている。また、道路下は、歩道部に比べ、攪乱が少なかったため、15世紀前後の層が確認されている。

ビロースク遺跡

1.遺跡の概要
 石垣中学校の北、琉球石灰岩の丘陵がビロースク遺跡である。斜面や崖下にも貝塚が確認されている。遺跡は石灰岩丘陵を中心としており、周囲の貝塚部分は、丘陵の上部からの流れ込みであると思われる。現在では、周囲に住宅が建ち並び、畑としても耕作されるなどして、周辺の貝塚部はほとんどなくなり、丘陵部だけが残っている。遺跡の周辺、崖下には時期の違う埋葬人骨も発見されている。遺跡から見つかった埋葬人骨は、そのまま土壌ごと切り取りを行ない、八重山博物館で保管されている。
2.遺跡から見つかっているもの
 住居跡、炉跡、石垣遺構、埋葬人骨、土器、石器、貝製品、陶磁器や食糧残滓としての動植物遺存体などがたくさん見つかっている。また、炭化米・炭化麦も出土しており、この頃には稲作が行なわれていたことが分かっている。
3.その他
 ビロースク遺跡は、八重山におけるスク遺跡の極めて初期の段階の遺跡である。調査の結果、13世紀から15世紀にかけての遺跡であることが分かっている。また、円形の住居跡や方形の住居跡など、時期によって住居の形が違うことなどが指摘されている。ここで出土した口縁部が「く」の字に曲がる土器をビロースク式土器と呼んでおり、また、ビロースク遺跡で見つかった、玉縁の口縁部をもつ白磁を「ビロースクタイプ」と呼んでいる。この遺跡では、埋葬された犬も発見されている。
 〔『石垣島の遺跡−詳細分布調査報告−』沖縄県教育委員会1979年、『ビロースク遺跡』石垣市教育委員会1983年
より〕

カワバナ遺跡群

1.遺跡の概要
 ビロースク遺跡から西側に行くと、カワバナ遺跡群がある。大きく分けると、三つの地点が確認されている。現在は、墓地や宅地の造成でほとんど壊されているが、年代的には、ビロースク遺跡に続く頃になる。造成にともなって、10年ほど前に発掘調査が行なわれている。
2.遺跡から見つかっているもの
 食糧残滓としての貝殻、土器、陶磁器、石器などが見つかっている。
3.その他
 15世紀前後が遺跡の主体となるようだが、その後、18世紀頃まで埋葬地として使われたようである。道路から見える石灰岩の岩陰に沿って、現在でも墓があった形跡がみられる。墓はそのほとんどを壊されているが、中には、18世紀頃の焼き物が散乱し、古い形態の墓が見られる。しかし、周囲からどんどん削られていくため、遺跡の残存状態は悪く、今後さらに開発が進む事を考えると、残念な遺跡である。まだ、詳細報告はなされていないが、当時の村の状態を考える上で、興味深い遺跡である。
〔『石垣島の遺跡−詳細分布調査報告−』沖縄県教育委員会1979年に補足〕 

竿若東遺跡

1.遺跡の概要
 竿若東遺跡は、今から500年くらい前(15世紀〜16世紀)の遺跡である。
1977年、沖縄県教育委員会によって発掘調査が行なわれたが、残念なことに、そのほとんどが壊されていたと報告されている。地表面から約30pですぐに石灰岩の岩盤にあたってしまい、残っていたのは、その石灰岩の窪みに詰まった黒い土の部分だけであった。現在も、畑として利用されている、
2.遺跡から見つかっているもの
 遺跡からは、中国製の陶磁器や、地元で焼かれた土器、当時ハンマーの代わりに使ったと思われる石器など、人々の生活を示す遺物(品物)が見つかっている。
 また、新しいものである可能性もあるが、建物の柱穴と考えられる遺構(人が住んだ跡)も見つかっている。
3.その他
 近くには、崖葬墓が見つかっているが、骨を入れていた骨甕(壷屋?)が遺跡の年代よりも新しいものであったため、遺跡とは直接関連がないと報告されている。
 〔『八重山石垣島 竿若東遺跡緊急発掘調査報告』沖縄県教育委員会 1978年に補足〕

竿若西遺跡

1.遺跡の概要
 竿若東遺跡と隣接して、道路に面した部分を指す。竿若東遺跡同様に包含層(生活の痕跡が残った堆積層)の残存状態は悪く、一部を除き、調査前に土地改良工事のため、ほぼ全壊した残念な遺跡である。現在は、ほとんどサトウキビ畑になっている。
2.遺跡から見つかっているもの
 土器、石器、貝斧、スイジガイ製利器などが見つかっているが、時期は不明とされている。
また、大M永亘氏は、自書の中で、もう一時期古い下田原期の遺跡として示唆しており、興味深い。氏所蔵の資料の中には、明らかに、下田原期の遺物が入っており、大変貴重である。
3.その他
 表土には、竿若東遺跡のものと思われる、陶磁器や土器も採取できる。また、竿若西遺跡南側の砂地には貝殻を多く含んだ層も確認されている。それは、道路を挟んだ海岸側に位置する舟蔵貝塚の端とつながるのか確認することも今後の課題の一つである。
 〔『石垣島の遺跡−詳細分布調査報告−』沖縄県教育委員会1979年に補足、大M永亘『八重山の考古学』1999年より〕

舟蔵貝塚

1.遺跡の概要
 竿若西遺跡と道路を挟んで海側の砂地に立地する。貝塚を形成しており、表土にも貝殻の散布は確認できる。開発に伴い、数回にわたって試掘調査を行っているが、現況は、宅地造成や道路工事、採砂などでほぼ破壊されている。
2.遺跡から見つかっているもの
 土器のほか、石器も見つかっている。また、遺跡と直接関係するかどうか断定できないが、石斧や貝斧も表面採集されている。このことから、この周囲には、古い時代から、500年ほど前まで、何らかの形で、人びとが生活していたことが分かっている。
3.その他
 数年前に行なわれた、試掘調査の際、舟蔵貝塚と舟着石前遺跡の丁度中間地点で、成人女性の埋葬人骨が一体見つかっている。砂地に穴を掘り、埋めるという埋葬方法(土壙墓)で、この埋葬の方法は、十五世紀前後に多く確認されている。しかしながら、周辺に関連するような包含層はなく、海岸線に埋葬されたと考えられる。
 〔『石垣島の遺跡−詳細分布調査報告−』沖縄県教育委員会1979年に補足〕

舟着石前遺跡

1.遺跡の概要
 フナジイシ周辺および、道路に面した前面、道路を隔てた砂地を含む遺物の散布が確認できる。遺跡は、道路工事や採砂、また、近年の建築物の基礎工事などで破壊されている。
2.遺跡から見つかっているもの
 以前に、土器や石器が報告されていたが、近年の試掘調査で、攪乱された土の中から、中国製の陶磁器も見つかっている。
3.その他
 この辺り一帯は、確かに、道路工事や採砂、建築などで攪乱されている。しかし、それ以前に、遺物はかなりの年代幅を持って出土しているが、包含層の堆積自体もよくない。これが、人びとの生活した期間に由来するのか、それとも、何らかの自然災害などで洗われた結果なのかは、現在の状況では確認できない。とても残念な遺跡である。 
 〔『石垣島の遺跡−詳細分布調査報告−』沖縄県教育委員会 1979年に補足〕

富崎貝塚

1.遺跡の概要
 冨崎観音堂の東側から道路、海岸側にある遺跡。異なる時期の遺跡が重なる複合遺跡で、砂地の部分には無土器期のものと思われる包含層が、また、内陸部には、17世紀頃まで続くと思われる陶磁器が分布する場所が確認されている。
 無土器期の部分は、街路改良の際に一部調査を行っているが、砂丘部分の大半はすでに破壊されている。
2.遺跡から見つかっているもの
 石器、焼石の集石遺構(ストーン・ボイリング??アース・オーブン??)、土器、陶磁器、石積(年代的に新しい可能性あり)などが見つかっているが、どんな性格の遺跡であったのかはよく分かっていない。
3.その他
 発掘調査の結果、無土器の包含層らしきものが確認されているが、人工遺物の出土はなかったという。遺構は、焼石の集石が確認されているらしい。この遺構がストーン・ボイリングなのか、アース・オーブンなのか、詳細な報告はまだない。 
 〔『石垣島の遺跡−詳細分布調査報告−』沖縄県教育委員会 1979年に補足〕 

皆野宿岡遺跡

1.遺跡の概要
 皆野宿岡を含み、その裾野および周辺が遺跡の範囲である。露出したチャート岩があり、層の堆積状況の詳細報告はない。
 フサギィガバネーの居城であったと伝えられており、いくつかの民話が採録されている。
2.遺跡から見つかっているもの
 中国製の陶磁器が見つかっているが、あまり量は多くない。
3.その他
 フサギィガバネーとウラタバリィブナジラ、イシスクマダニに関する民話は、『ばがー島八重山の民話』(竹原孫恭著)にも「弓引き・農作勝負」というタイトルで集録されている。また、市史でも、民話編刊行に向けて採録した資料がある。
 〔『石垣島の遺跡−詳細分布調査報告−』沖縄県教育委員会 1979年に補足〕

野呂水貝塚

1.遺跡の概要
 現況として、遺跡の残存状態は良くない。近年、遺跡の範囲内のうち、海側には建築物が増えているが、試掘調査の際にも包含層は確認されなかった。しかし、周囲には貝殻が散在し、遺跡分布調査の際には、石斧も確認されている。山手のほうは、現在、採草地になっている。
 最近の踏査では、周囲で中国製の陶磁器も拾われているが、周辺の開発で他所からの土砂が持ち込まれているため、遺跡に直接関係するものかどうかは分からない。
2.遺跡から見つかっているもの
 貝類(食糧残滓?)、石斧、中国製陶磁器などが見つかっている。しかし、量はあまり多くない。
3.その他
 石斧の特徴から、無土器遺跡の可能性が高いが、残存状態が悪く、詳細は不明である。
 〔『石垣島の遺跡−詳細分布調査報告−』沖縄県教育委員会 1979年に補足〕

シタダル遺跡

1.遺跡の概要
 シタダル浜からクードー浜にかけて中国製の陶磁器が大量に見つかる地域をシタダル遺跡と呼んでいる。シタダル遺跡にはこれまで多くの研究者が訪れ、踏査を行っている。特に、一九八五年には日本水中考古学会が現地入りし、調査を行った。その結果、多くの説があるが、おそらく、舟が沈没し、舶載陶磁器が散乱したものであると考えられている。その陶磁器は一定の時期に中国で焼かれたもので、15世紀〜16世紀のものである。また、同じ場所に大正初期には御木本真珠の養殖場があり、当時の船着場の跡も残っている。
2.遺跡から見つかっているもの
 膨大な量の中国製陶磁器、南蛮陶器、船着場跡(新しい遺構)などが見つかっている。
3.その他
 現在は、浜に降りる道がブロックで遮られたり、施錠されたりしており、遠く回り込まないと近づけないが、現在でもシタダル浜では陶磁器が拾える。これらの資料の多くは、八重山博物館、先島文化研究所などで所蔵されている。シタダル遺跡は水中考古学の面からも、注目されているが、まだ詳細報告がなされていない。
 〔『石垣島の遺跡−詳細分布調査報告−』沖縄県教育委員会 1979年に補足、大M永亘 「名蔵シタダル遺跡について」『南島考古』沖縄県考古学会 1994年〕 

ハラツン岡遺跡

1.遺跡の概要
 ハラツン岡の中腹部から、裾野にかけて広がる遺跡である。牧草地造成や、その他、土地改良などで一部破壊されている。人が住んだ跡が層で確認できるというよりは、どちらかというと、周囲に遺物が散布しているといった印象を受ける。
2.遺跡から見つかっているもの
 遺物は全体的に少ないが、陶磁器などが少量拾える。
3.その他
 現在は、周辺が牧場や採草地など私有地になっており、以前に比べるとハラツン岡に近づく道が不便になっている。
〔『石垣島の遺跡−詳細分布調査報告−』沖縄県教育委員会 1979年に補足〕 

クードー遺跡

1.遺跡の概要
 みね屋近く、石垣港・伊原間線と新川・白保線とに分岐する角にある、珊瑚石灰岩上の遺跡である。現カナダ・ブリティッシュ・コロンビア大学のリチャード・ピアソン博士が報告した範囲とは異なるらしい。
現在でも、周囲で陶磁器片などが拾える。
2.遺跡から見つかっているもの
 中国製陶磁器(青磁・白磁・染付など)、土器、銭貨などが見つかっている。
3.その他
 R・ピアソン博士が踏査したのは、現在、「シタダル遺跡」と呼んでいる、シタダル浜からクードー浜にかけての範囲と考えられる。つまり、R・ピアソン博士が「・・・Since repeated efforts to locate some settlement or  ruined storehouse above the beach have been unsuccessful, on circumstantial evidence one might conclude that the site was the result of a shipwreck. ・・・」(意訳/人が何度も住んだり、海岸にあった倉庫が荒廃したということでなければ、難破船による結果としか考えられない。)と述べているのはシタダル遺跡の範囲で、シタダル遺跡からクードー遺跡西の浜にかけて、同時期の難破船による所産であると示唆している。クードー遺跡の範囲内には、近世の古墓や比較的新しい石積みも確認された。
〔『石垣島の遺跡−詳細分布調査報告−』沖縄県教育委員会 1979年に補足、R.Peason 『Archaeology of the Ryukyu Islands』1969年〕

名蔵貝塚群

1.遺跡の概要
 クードー遺跡のある分岐路から右折すると、左右にサトウキビ畑が広がる。そのサトウキビ畑のある場所が名蔵貝塚群である。現在、第7地点まで確認されているが、そのうち、第1・2地点が字新川にある。八重山では最も多く30点以上のシャコガイ製貝斧が表採された遺跡で、無土器期の中でも貝斧文化期を知る上で重要な遺跡である。残念なことに、現在は開発が進み、壊滅の危機にある。これまで、沖縄県教育委員会、石垣市教育委員会によって調査されている。
2.遺跡から見つかっているもの
 貝器(シャコガイ製貝斧・スイジガイ製利器など)、石器、一部、土器も表面採集されている。遺構の報告もあるが、新旧の攪乱が多く、いつ頃のものかは、はっきりしない。
3.その他
 名蔵貝塚群は八重山の貝斧文化を理解する上で、とても重要な遺跡である。しかし、表土から包含層までがかなり浅いことから、少しの耕作でも壊されてしまう状況である。また、良好な白砂の堆積があることから、砂利採取が行なわれたことも破壊された原因である。近年では、サトウキビ畑のために、砂と赤土を混ぜるための大規模な土地改良工事なども行なわれている。
『石垣島の遺跡−詳細分布調査報告−』沖縄県教育委員会 1979年に補足、『名蔵貝塚発掘調査報告書』沖縄県教育委員会 1981年ほか〕

遺跡の年代観

 石垣市字新川にある遺跡を紹介した。これらの遺跡の年代を知るためには、主に炭化物や貝殻を用いた、年代測定や、窯ごとに製造年代の分かる中国製陶磁器を用いた年代観を想定する。考古学の年代の捉え方は、相対年代と絶対年代がある。相対年代というのは、「AがBより古い」、「CはBより新しい」という一つ一つの事象を並べていくことで得られる年代観のことである。絶対年代というのは、西暦などに当てはめて並べていく年代のことで、炭化物を用いた年代測定の結果などはこれに当てはまる。  新川にある遺跡で、一番古い時期の遺跡は、名蔵貝塚や富崎貝塚、また、最近確認された資料だと、喜田盛遺跡の下層が同じくらいの年代になるようである。これら無土器の遺跡は、炭化物からの年代測定結果から、およそ1800年前〜12世紀前半まで続いたと考えられている。シャコガイ製の貝斧が30点以上表面採集されたことで有名な名蔵貝塚群は、無土器の時期でも、比較的早い段階の遺跡であったと考えられている。また、崎枝にある崎枝赤崎貝塚や同じ無土器期の他の遺跡からも、中国の唐時代の銭貨、開元通寶が出土していることから、七世紀前後には確実に周辺諸外国と交流していたことが分かっている。  八重山の考古学編年(金武・金城・阿利の編年に加筆)に新川の遺跡を当てはめてみる。現段階では、中国製陶磁器や各遺跡の年代測定結果から、年代幅が広くなっている、中国製陶磁器の交易の状況や個々の遺跡の調査が進むと、さらに細かな年代観が得られてくると思われる。

八重山の考古学と石垣島の遺跡(補足説明)

 先史時代の遺跡というと、ほとんどの人が、縄文時代、弥生時代を想像するかもしれない。しかし、先島諸島では、まだ縄文・弥生といった文化は確認されておらず、その代わり、独自の編年研究がなされている。一番古い編年研究は、早稲田大学が中心に行った八重山の遺跡調査によって編年された「早稲田編年」と呼ばれているものである。早稲田編年の他、高宮廣衞氏、R・ピアソン氏・安里嗣淳氏、金武正紀・金城亀信・阿利直治の三氏、大M永亘氏などが、独自の編年を試みている。  編年研究というと、難しいかもしれないが、普段、乗っている車の年式を考えてみるとわかりやすい。数年に一度、早いものだと一年を待たずに少しずつ型を変えていく。それを時代を追って古い方から並べていくと、その車種の歴史が分かる。この並べ替えを行なう場合、「何が祖型で、どう変化したのか」という点を考慮する。考古学の編年研究もそれと同様に、どれが古い型かを調べて並べていくことで、その時期それぞれの特徴などが分かってくるのである。なかには、実用品だったものが、オブジェ化していく銅鐸などの例があるが、ほとんどの場合、より機能的に、そして、技術が進歩していく。しかし、この並べ替えでは、「では、いつ頃から作られたのか」という製造年代を知ることはできない。考古学でこれを補っているのが、科学年代測定や文献史学の分野である。 考古編年で取り扱う資料は、土器や石器など、様々なものがある。この方法の違いや扱うものによって、考察の仕方が違ってくる。そのため、各氏の編年には少しずつ、違いが生じている。また、早稲田編年やR・ピアソン氏の編年では、無土器期が古く(第一期)、下田原期が新しい(第二期)となっていたが、近年の発掘調査の成果により、下田原期の生活層が、無土器期の生活層の下になっていることが確認されて、第一期と第二期が逆転することになった。この「堆積してからしゅう曲したり、逆転したりして乱されたことのない堆積層では、どんな場合でも、いちばん若い地層はいちばん上にあり、 いちばん古い地層は基底部にある。」という考えを、地質学では地層塁重の法則という。この、有土器から無土器という現象は、一見、不自然であるが、石器、特に石斧の変遷を追うと、下田原期よりも無土器期の方がバリエーション豊かで、製作技法的にも進歩していることが分かる。つまり、土器だけでは編年できなかったが、発掘調査によって得られたその他のデータによって、先後関係が分かってくるのである。  現在、八重山の考古学にはたくさんの疑問が残っている。つまり、古い順に並べようとしても、その並べる材料がなかなか手に入らないのである。でも、少しずつ発掘調査の成果が増えてきており、現在確認されている中では、3500年から4000年前には石垣島に人が住んでいたことが分かっている。これは、沖縄本島以北の文化でいう、縄文時代の後期(終わりに近づく頃)にあたる。そこから、様々な用具を使い、生活形態を変えながら、この島に適応して住んでいたのであろう。しかし、その後は、2000年程、まだ遺跡の見つかっていない空白の時期があり、無土器期を経て、ビロースク遺跡など、スク時代の初期につながっている。八重山では旧石器に相当する遺跡はまだ見つかっていない。このようなことから、八重山の考古学編年が確定するためにはもっとたくさんの資料が見つかることが望まれている。
 今日、土地改良工事や街路整備、砂利採取など、様々な開発が日々繰り返されている。確かに、現代を生きる私たちの生活を便利にするものではあるが、それが急速に進むと、発掘調査をする前に開発によって遺跡が破壊されてしまうという現象が起きてしまう。  最近(平成13年12月)、無土器期と思われていた遺跡から、貝斧やスイジガイ製利器と一緒に、土器が出土したという報告があった(宮古島城辺町アラフ遺跡)。石垣島で貝斧が出土した遺跡で代表的なのが、名蔵貝塚群である。しかし、名蔵貝塚群は土地改良や採砂によって、壊滅の危機にある。宮古島で発見された遺跡が、八重山先史時代人のルーツを探る上で、貴重な資料になっている。それと同様に、石垣島で見つかる遺跡は、周辺諸島の人びとのルーツを探るための資料になるのである。昔の人びとは、現在でいう行政区は関係なく、移動しながら生活をしている。もしかすると、同じ集団のうち、一つは、石垣島や西表島へ、一つは多良間島や宮古島へ渡ったのかもしれない。
 石垣市にある遺跡は、石垣市だけのものではなく、国民共有の財産として位置づけられている。  ヤイマピトゥ(八重山人)はどこから来たのか、この問題はまだ解明されていない。しかし、見つかる前に、何らかの原因によって、遺跡が壊されてしまう可能性もある。また、もしかすると、すでに、壊されてしまっているのかもしれない。遺跡を発見すると、「発掘調査でお金がかかる」と思っている人も多いかもしれないが、公共工事や営利目的の企業の場合以外は、国および地方公共団体の予算で調査が行なわれる。つまり、時間さえあれば、個人で申請した場合、お金がかかることはない。「畑を広げたい」、「家を建てたい」など、開発したい場所が決まったら、その時点で、遺跡があるかどうかを確認してもらうということだけでも、遺跡の保存につながる。  私たちのルーツを知るためにも、このような意識で、身近な文化財、「遺跡」というものを是非考えてみて欲しい。

引用および参考文献等
竹原孫恭『ばがー島・八重山の民話』1978年宮良薫、R.Pearson「The Sequence in the Sakishima Islands」『Archaeology of The Ryukyu Islands』1969年UNIVERSITY OF HAWAII PRESS 、大浜永亘「八重山石垣島の新石器時代無土器遺跡」『南島考古』第4号1975年沖縄考古学会、大浜永亘「名蔵シタダル遺跡について」『南島考古』第一四号一九九四年沖縄考古学会、大浜永亘『八重山の考古学』1999年先島文化研究所、安里嗣淳「南琉球先史文化圏における無土器新石器期の位置」『第2回琉中歴史関係国際学術会議琉中歴史関係論文集』1989年琉中歴史関係国際学術会議実行委員会、安里嗣淳「南琉球の原始世界―シャコガイ製貝斧とフィリピン」『環中国海の民俗と文化‐1‐海洋文化論』1993年凱風社、森威史「既存発掘調査報告書より探る石垣島の新石器時代遺跡の様相」『南島考古』第15号1995年沖縄考古学会、沖縄県教育委員会『沖縄県の遺跡分布』沖縄県文化財調査報告書第10集1977年、沖縄県教育委員会『八重山石垣島 竿若東遺跡緊急発掘調査報告』沖縄県文化財調査報告書第13集1978年、沖縄県教育委員会『石垣島の遺跡―詳細分布調査報告書―』沖縄県文化財調査報告書第22集1979年、沖縄県教育委員会『沖縄県八重山石垣市名蔵貝塚発掘調査報告書』沖縄県文化財調査報告書第37集1981年、沖縄県教育委員会、『沖縄考古展 掘り出された沖縄の歴史―発掘調査一〇年の成果―』1982年、沖縄県教育委員会『名蔵貝塚群発掘調査報告書―県道改良工事に伴う緊急発掘調査―』沖縄県文化財調査報告書第64集1985年、沖縄県教育委員会『ぐすく グスク分布調査報告書(V)八重山諸島』沖縄県文化財調査報告書第113集1994年、沖縄県立博物館『沖縄県出土の中国陶磁(上)―ジョージ・H・ケア氏調査収集資料―先島編』1982年、滝口宏『沖縄八重山』報告第7冊1960年早稲田大学考古学研究室、當眞嗣一「八重山考古学の諸問題」『南島史論』1972年琉球大学史学会、石垣市教育委員会『ビロースク遺跡―沖縄県石垣市新川ビロースク遺跡発掘調査報告書―』石垣市文化財調査報告書第6号1983年、石垣市教育委員会『ビロースク遺跡発掘調査写真集』一九八三年、石垣市教育委員会『名蔵貝塚ほか発掘調査報告書―名蔵貝塚・ピュウツタ遺跡発掘調査報告書―』石垣市文化財調査報告書第22号1997年、金武正紀「土器→無土器→土器 八重山の考古学編年試案」『南島考古』第14号1994年沖縄考古学会、高宮廣衞「八重山考古学」『沖縄・八重山文化研究会会報』第5号1991年沖縄・八重山文化研究会、高宮廣衞「琉球諸島の先史時代」『沖縄の歴史と文化―海上の道探求―』1994年吉川弘文館、沖縄考古学会編『石器時代の沖縄』カラー百科シリーズH一九七八年新星図書、宮城栄昌・高宮廣衞『沖縄歴史地図〈考古編〉』1983年柏書房、東京国立博物館編『海上の道 沖縄の歴史と文化』復帰20周年記念特別展1992年読売新聞社、高宮廣衞「南島考古雑録(U)」『沖縄国際大学文学部紀要』社会学科篇第20巻第2号1996年沖縄国際大学文学部、沖縄タイムス「先島初の土器出土」2002年1月19日(朝刊)沖縄タイムス社