川平貝塚は1904年に鳥居龍蔵氏によって、八重山で初めて考古学的な調査がされた遺跡で、1972年に国指定の史跡となっています。

 川平貝塚は石垣市字川平にあって、仲間岡(なかまむりぃ)と獅子岡(ししむりぃ)の二つの岡とその周辺をさし、15〜16世紀に在地で焼かれた土器や中国製の陶磁器などが多量に出土します。当時、出土した土器を見て鳥居龍蔵氏は沖縄本島以北の縄文土器とは異なり文様が無く、把手がついていることから、「外耳土器(そとみみどき)」と名付けました。また、「土器に有文土器は一つもなく、独特な無文の外耳土器が出ている」と学会に発表して、このような土器は川平貝塚以外どこからも発見されておらず、八重山の先住民が本土の石器時代と異なるとしました。
 数年後、鳥居氏はこの考えを訂正します。しかし、それは、弥生町の土器(いわゆる弥生土器)が見つかったためですが、この鳥居氏の指摘は、現在でも八重山の考古学の根幹にある考えです。
 
 川平貝塚の発見は、単に先島諸島の考古学的研究の幕開けになったばかりでなく、民族移動の経緯を知る上でも、大変重要な遺跡です。