昭和のアルバム
昭和という時代が終わってから、もう32年も過ぎてしまいました。 今、2020年・令和2年8月7日、このページを作ってからも10数年も過ぎてしまいました。
昭和は、激動と波乱の時代で、価値観や物質的な豊かさなどが目まぐるしく変化していった時代でした。世代によっては、戦争という過酷な経験もされたことでしょうし、 戦後生まれの人は、ともあれ戦争のない時代を過されたことでしょう。
だいぶ前のことですが、「明治は遠くなりにけり」という言葉を聞いたことがありました。しかし昨今は、昭和という時代が 遠くに過ぎて行こうとしています。
ここに掲載した写真は、五泉近辺で撮られた、ごく平凡な写真です。だいたい人物を写したものですが、その背後に写っている風景 には、なつかしい昭和が記録されていました。
金津尋常小学校(昭和5年) 昭和5年は、自分が生まれるずーと前のこと。この子供たちは、今、80歳くらいの年齢になる人達です。五泉から直線距離で10キロほどの現新津市の金津尋常高等小学校の生徒たちです。女子は殆どが着物をきています。そして皆が裸足です。右側にいる髭の先生は、義姉の父(故人)なのです。明治 31年生まれということですから、32歳くらいの時のことです。
昭和15年、新潟県三島郡片貝町にて。 ここは昔から花火が有名な町でした。これから太平洋戦争に進むという直前のつかの間の平和なひと時。父方の親戚の家族との記念写真なのでしょうか。多分、近所の人もいるのではと思います。私はこの翌年生まれたことになります。片貝は、祖父たちの出た土地でもあります。
昭和26年、新潟県東蒲原郡鹿瀬町赤 崎にて。 昭和電工に勤める親戚が、赤碕山の麓にある社宅に住んでいました。当時の昭和電工は子供の目からも、活気があって、この近辺には珍しい大きな会社だなーという感じがしました。その印象は、私の将来にある程度、影響したのです。
この写真は、母方の兄弟、つまり叔父さん、叔母さん達との記念写真なのでしょう。新発田の叔母さんの家は写真屋さんで、その叔父さんが撮ったものでした。その昭和電工は、後に公害問題を起こしましたが、今はほとんど操業を停止しているように聞いています。今、その辺りはどんなになっているのでしょうか。
昭和26年、加茂市の明神神社への遠足。 五泉から、今は廃線になった蒲原鉄道の電車に乗って、終点の加茂まで行きます(国鉄では行かなかったと思います)。いつもは、ズボンの膝や上着の袖の肘部分にツギのあたったものしか着てないのですが、遠足の時だけは一番上等な服を着せてくれました。この日のために親たちが精一杯頑張ってくれたのだと思います。
昭和28年8月 自宅の”茶の間”です。やや薄暗い八畳ほどの部屋で細かな格子細工のある障子戸が、懐かしく感じます。何しろ今の我が家は、障子戸は一枚もなく、また畳の部屋も全くないのですから。この頃は、まだまだ子だくさんの時代でした。大抵どこの家でも、兄弟は3〜4人いました。またお祭りでもなんでもないのに、浴衣をきているのは、孝子ちゃんです。
昭和28年、五泉小学校6年のホームルーム風景。大体は、みんなが今よりは純真で、素直だったのではないかと思うのですが。皆さんはどのように思いますか。
道路は遊び場だった(昭和30年8月 )駅前通りにて。まだ道路は舗装されてなく、砂利がごろごろしています。夏の西日に少し眩しそうです。みんなが道路でよく遊んだ時代でした。道路は、車はまだ少なくて、細長く広い遊び場だったのです。写真の左側の家が、乾物などを扱っていた羽賀商店、その先が佐々木さんという家でした。
昭和31年5月、五泉中学校での授業風景。まだまだすべてが木造の校舎でした。この写真は、先生が修学旅行に”写真機”を持っていくのに、練習のために撮影したのだそうです。なんの授業だったか覚えていません。
道路は遊び場だった (昭和30年8月 ) 駅前通りにて。まだ道路は舗装されてなく、砂利がごろごろしています。夏の西日に少し眩しそうです。みんなが道路でよく遊んだ時代でした。道路は、車はまだ少なくて、細長く広い遊び場だったのです。写真の左側の家が、乾物などを扱っていた羽賀商店、その先が佐々木さんという家でした。
妹と友達(昭和32年12月)家の中でもマフラーを巻いて、ポケットに手を入れてます。当時の暖房といえば、炬燵か火鉢しかありませんでしたから、その精でしょうか。
旧五泉郵便局舎(昭和33年11月) 郵便局に遊びに行くと、建物に塗られたペンキのツーンとした匂いを今でも忘れません。その当時、ペンキを塗っている場所はあまりなくて、モダンなイメージや香りに思えたのでしょう。そして砂利道を走る自動車もかなりレトロな感じがしますね。その右側は川俣畳屋さんで、今も営業されています。
昭和35年3月の粟島公園。 公園はただの原っぱで、隅にベンチがちょこんとあるだけだった。公園の北東側は、田圃が広がるばかりであった。その田んぼの先には早出川の土手があり、さらにその彼方には、残雪に輝く五頭連峰が見える。