五泉を離れて40年になります。年に1回ほどは帰省していますが、生活の基盤がそこにないと、故郷という存在がだんだん遠ざかり風化していきます。しかし自分の原体験、原風景の大部分は、少年時代を過ごした五泉の中にあります。故郷というものは、心の中ではいつまでも自分を優しくつつみ、穏やかにしてくれます。
これまでは過去を振り返ることはあまりありませんでしたが、平成11年5月23日に同級会をやるという話があってからは、何故か急に昔のことを懐かしく思うようになりました。年のせいでしょうか。この機に遠い日の想い出を辿ってみることにしました。
斉藤富美子先生には、1年生の途中から小学校を卒業するまで、6年近く受け持って頂きました。メガネの中の優しいまなざしや静かな微笑を今も忘れることはありません。いつだったか友達と村松の先生の家に遊びに行ったことがあります。先生にも子供さんがいて、学校で見るのとは違う母親の姿をかいま見て、不思議な気持ちになったことがありました。
またある日の午後、家の玄関からおもてに飛び出した時、ちょうど先生が学校から帰る途中で、道路の向こう側を歩いているところとはち合わせました。突然のことで身体が石のようになって、お辞儀もしないで、ぼーとしていました。後でそのことを先生から注意されましたが、とっさの機転がきかないのは今もあまり変わっていません。
当時の校舎は、全部木造で、木のにおいがどこにもありました。建物の内部はこげ茶のくすんだ色で、外側の板張りは風雨に晒されて白っぽい色をしていました。子供の目線から見る学校の建物は大きくて、堂々としていました。
貧しい時代でしたから、なかなか上履きを持つことも出来ず、寒い冬でも裸足でいることが多かった ように思います。しかし意外に冷たいという感じはなく、今となっては苦痛であったという記憶はありません。裸足の裏に伝わってくる木のやさしい温もりだけが残っています。また、廊下の板は、硬い節の部分がこぶのように盛り上がり、床の表面がでこぼこしていたように思います。
冬には、運動場(講堂)で「つみあい」をして遊びました。集団プロレスごっこという感じですが、確かなルールは覚えていません。寒い冬は身体が暖まるので、みんなで好んでやったのでしょう。力の強い誰かに押さえ込まれているとき、仰向けになった視線の彼方に運動場の天井が見えていました。太い木の梁がむき出しになった、暗くて高い天井でした。
朝礼は、毎週月曜日に運動場で30分くらい行われたように思います。雨の日などは電灯があるわけでなく、かなり薄暗い中での朝礼光景が浮かんできます。また当時の自分は貧血気味だったのか、長く立っていると目まいのすることがあり、しゃがみ込んでいたことがあります。
食糧難の時代、学校給食はありませんでしたが、あの有名な粉ミルク配給がしばらく続きました。ところがそんな時代でも、そのまずさ加減はただごとではなく、アルマイト製のカップに並々と注がれた粉ミルクを飲みきるのは大変な苦行でした。後で知ったことですが、我々が飲んだ粉ミルクは、アメリカでは家畜の飼料だったそうです。また保健室で肝油を飲んでいる人がいましたが、何のためにのんでいるのか分かりませんでした。
学校の校庭やその周辺には、桜が沢山植えてありましたが、特に校庭中央の八重桜の並木は、心に残る風景でした。また校庭の西側には、ポプラの木がありました。かなり高い木だったように思いますがある時そのポプラにもたれ、梢を通して空を見上げていたことがありました。さらさらと鳴る葉音、風や雲の流れていく様を眺めて、なぜか寂しさを感じた覚えがあります。
学芸会や運動会は小学校の主要な行事です。記憶に残っているひとつに、2年生の学芸会で浦島太郎の劇をやることになり、何故か自分が浦島太郎の役になつたことです。何をやったかは全く覚えていませんが、母がその日のために家で藁の腰みのを作ってくれたこと、そして竜宮城の乙姫様は、〇〇さんだったことです。
何年生のときかわかりませんが、歌をうたったことがあります。曲目は「待ちぼうけ」だつたような気もしますが、違うかも知れません。何百人もの前で、一人で歌ったのは後にも先にもこのときだけでした。「結べど尽きせぬ泉の里に・・・」で始まる五泉小学校の校歌は、今でも忘れません。この校歌を口ずさむと古い、古い五泉小学校が蘇ってきます。また卒業式のとき歌っていた「花薫る学びの庭に・・・・・・」に始まる歌もなぜか記憶に残っています。
けっこう足が早くて、運動会の競走では大抵一等か二等になっていたと思います。その後、中学校では陸上競技部に入りましたが関節炎という病気でやめ、高校ではラグビーをやることになりました。
〇〇さんは途中からの転入生です。五泉の人間にとっては、都会的で、あかぬけていて、憧れのひとでした。いつだったか三本木の友達(誰だったか覚えていません)のところに遊びにいったとき、友達と養蚕試験場の桑畑に出かけ、口の周りが真っ赤になるほどカンコ(桑の実)を食べまくりました。そこに行けば〇〇さんに会えるかも知れないという淡い期待があったのだと思います。会えたかどうかは記憶にありません。多分・・・・・
夏休みになると、雨の日以外は日課として早出川にでかけました。清流を泳ぐ鮎を狙って一日中、川の中に潜っていました。雷魚、朝鮮フナといった外来魚を池でよく見かけましたが、一番印象に残る魚は、イトヨ(とげ魚)です。この魚は体長が4センチ程で、背びれが棘になっていて、小さいながらも精悍な姿をしていました。しかも鳥のような巣を作って卵を育てます。水温13度くらいのところに生息するので、五泉の水がちょうど適していたのでしょう。
雨が降ったとき、何回か駄々をこねて学校を休んだ記憶があります。その理由は定かではありませんが、破れたカラ傘をさして学校に行くのが嫌だったのか、一年に何回かの登校拒否もありました。物質的には貧しい時代でしたが、遊びは沢山ありました。男子の遊びでは、陣とり、釘たて、丸とび、冬の竹げた、竹スキーなどなど、退屈する暇はありませんでした。