山百合に心癒されて
戦局ますます厳しい昭和19年、村松中学校へ入学した。学内は質実剛健の気風みなぎり張りつめた緊張感を覚えた。個性あふれる先生方の授業は魅力的で、すばらしかった。上級生に対する挙手の礼の厳しさなど渾然として思い出される。
軍事教練があり行軍があった。学生帽ゲートル姿で時折降る小雨の中、ぬれながら隊列を組み行進。川内方面をひたすら歩く。どこまで歩くのか・・・疲れる・・・・。「小休止!」教官の号令。倒れるように道端の草むら に腰を下ろす。隣の悪友が突然山の藪の中にかけ上がっていったが、やがて白い花をもって現われ、私に一本くれた。白い見事な百合の花だった。彼は山百合だと教えてくれた。カッと目を見開いたような艶やかさ、 雨にぬれた花はますます白く鮮明で、黄色の筋、オレンジ色の代償の斑点が実に見事に散らばっている。のびのびと突き出している雄しべ、雌しべの美しさ・・・・。五泉育ちの私はこんな美しい花が身近に自生しているとを知らなかった。花を見ていると純真無垢の世界がよみがえってきた。甘い香りとともにひとときの幸せの時間が過ぎた。
「出発!」の号令。花をもっていくわけにもゆかず、草むらにそっと置く。それ以来私はすっかり山百合の虜になってしまった。
戦局は悪化の一途をたどり、四、五年生は横須賀の海軍工廠へ学徒勤労動員となる。見送りのため五泉駅に集合し、ホーームの四、五年生にちぎれんばかりに学帽を振り、声の限りをつくして応援歌と「ああ、紅の血は燃ゆる」も歌った。「花もつぼみも若桜五尺の命ひっさげて国の大事に殉ずるは・・・・」。
家族の見送りの人たちも交え大合唱となる。立ち去る列車のテールランプがたまらなくものさびしかった。その後三年生は新津工機部へ、二年生は安藤機械に 動員される。
昭和二十年の夏、連日の猛暑の中、村松公園隣接の飛行場造りに動員された。五泉、村松の隣組から動員された大勢の人々と交じって作業した。一日も早い完成と、勝利の日を夢みて・・・。時々トラックが運んでくる四斗樽の水にむらがって、喉を潤した。時折見かける山百合に心を癒され勇気付けられた。
戦後六十年、このお盆の時季になると、決まって思い出す光景である。暗く重苦しい戦時中、少年期の私に
一隅の光とやすらぎを与えてくれた山百合。今年も村松の山腹に咲く山百合に合いに行った。(新潟日報掲載)