石川雄二さんが描いた昭和の子

 

  昭和15年頃から昭和30年代頃までの五泉(現新潟県五泉市)の子供の遊びを、石川雄二さんが描いたものです。石川さんは兄の同級生ですが、10歳年下の自分にも共通する情景が多くあります  (五泉一水会 石川雄二さんから掲載許可済 ・・・・兄も石川さんも逝ってしまった) 

 

 

 陣取りは、自分のおはじきをはじいて相手のおはじきに当てると、陣地が拡大できるのだ。陣地を拡大すると益々有利に展開できる。地面に這いつくばって夢中になった。

 

 冬の道路は踏み固められて、つるつるとした最高の滑走リンクとなる。なにしろ昔は車も殆ど走ることはなかったし、そりが通っていたから、ますます表面が固まって滑りやすかった。竹スケートは履き物屋に売っていて、足袋を履いてから履くのである。

 

 丸とびは、石を丸(輪)の中にちゃんと投げ入れることや、時にはジャンプ力が要求される遊び。石は、遠くの丸の中にも投げ入れ易いよう、平べったい石ころを道端から探して使う。

 

 

 

つみあい〜この塊から引き出されるとアウト?

 

 

 

          

 

 

 

これは説明するまでもなく、どこにある遊び。何故か鮭のかんづめの缶が記憶に残る。

 

 釘(くぎ)の遊びには、ふたつあった。ひとつは地面に釘を立ててルートを作りながら相手の出口を制限して、出られないように押さえ込んでしまうもの。もうひとつは、立ててある相手の釘を倒すように、自分の釘を地面に突き刺す。相手の釘が倒れれば、それをゲットできる。五寸(15センチ)釘は、太くて重量感があり、釘の王様のように見えた。

 

五泉小学校の正面玄関を背にして下校する腕白坊主。雨の日は唐傘だった。

そして学校には沢山の桜の木があった。

 

戦前の人気漫画、冒険ダン吉君  六羊会とは、昭和6年生まれの五泉小学校の同窓会だそうです。私の長兄はこの会に入っています。ここで使用させてもらっている絵は、六羊会の会誌の挿し絵なのです。

 

 

 

杉鉄砲は、 細くてしっかりした竹を使って作る。杉の実のタマはポッンと軽い音がして弾き飛んでいく。顔に当たると少しつーんとした痛みを感じた。もちろんひとつひとつが違う個性的な作品であった。 

 

 

兵隊なんこ(兵隊ごっこ)は兄の世代のもの。我々は場合は、戦後の鞍馬天狗や旗本退屈男などのチャンバラ時代劇を模した遊びだった。

猫やなぎの生皮を「肥後の守」の小刀で剥ぐと、白くしなやかな木肌と木の香りが伝わってくる。                     

 

 

 

「雪のたま」は、ぶっつけあってその硬さを競うのだ。砕けたほうが負けになる。「たま」は足でこねて、硬くしてそして少しずつ大きくしていく。硬くするのに蜜柑の黄色い汁をつけたりした記憶がある。戦後になると、シャッポには防空頭巾がよく使われた。防寒用として大変優れものであった。

 

 

 

 

いつ見ても母は働いていた

 

 

この地方では六角形のタコが主流だった。だいたいは強そうな武者の顔が描かれていた。

四角いタコやヤッコダコもあったが、それらは小さい子供の遊ぶものとされていた。  

兄の時代は出征兵士を見送るのに旗行列したようだが、私の記憶では町が市に昇格したときの祝賀行事として、

旗行列が行われた記憶がある

 

 

「なせヤ」とは、「返してくれ」という五泉地方の方言だ。

 

 

 

川瀬方面から望む五泉駅東側の寺沢踏切。戦後の昭和20年代には、踏切を渡った右手に日東ゴムというゴム工場があった。

左手に見える小川で魚取りをした記憶がある。この風景は昭和30年代の半ばまで残っていたと思う。

 

 

 

 

昔は勤労奉仕ということが色々な場面で見られた。現代のボランテア活動より遙かに生活に根ざしていたと思う。軍国主義に関連したものもあっただろうが、地域社会の互助精神に由来するものも多くあった。