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paddler7j掲示板(pad吉掲示板)




◆ We are brother countries Japan and Nepal(3) 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
Dr.sunil Adhikary教授のご挨拶
この機会に、日本のODAと無償で多くの援助をして下さつた日本の国民の皆様を、私達ネパール国民は決して忘れません。心の底から御礼申し上げます。
さて幾つかの例を上げましよう。カトマンズ渓の三大古代都市の一つpatanについてお話したい。パタンは芸術的遺産としてもつとも良く知られている都です。それは多分世界最古の仏教都市の一つでありましよう。日本のODAがいまだにこの世界遺産の補修に取り組んでおります。このフオトは4年前の大地震前のものです。私はここを大地震の後訪れた時は目の前のタワーが倒れていました。
B.P.KoiraraHighwayはカトマンズ渓谷と東テライ地方をリンクしていまyす。1996年にHighwayの建設が始まり資材、人力、予算などの問題に遭遇して2015年7月3日ついに完成した。スタート時から完成時までのトータルコストはNPL.21.5billion(26億円)にたつした。4区間の全長は158kmである。建設が終わった後日本政府がネパール政府に手渡した。次のkathmandu1からBhaktapurへの国道(2014年)は日本の高速道路と似ている。違う点といえば景色だけである。ページ18〜19。
SindhuliRoad
Nepal政府は日本政府の財政援助と20年の様々な困難を乗り越えて完成させた。4区間の全距離は158kmである。スタート時から完成までのトータルコストはNepal21.5bilion(21億円)であつた。21ページ〜26ページのpictureをご下さい。pictureをご覧下さい。次にカトマンズのバスターミナル。この国の全ての地方へのバスがこのターミナルを発着しています。26〜27ぺージ参照。

2024/09/29(Sun) 13:50:14 [ No.10143 ]

◆ We are brother countries Japan and Nepal(2) 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
2.The History of Tribhuwan University
これはネパール国の悲劇であった。そこが日本と違うところである。ここにある二人の写真があります。日本人ならこの二人を知らほない人はいません。この二人を愛し尊敬しない日本人はいません。この写真は津波で両親を失った小女を励ましている天皇皇后両陛下の写真です。この日、陛下の到着を待つ全員の人たちは正座して待つていた。しかるに一人の若者はあぐらをかいていた。テレビでこの場面を見た人々はこの若者を非難した。陛下が訪問を終えて席を立った時、その若者は手をくんでナマステのゼスチャーをした。ネパールには正座するという習関がないのです。どうかこの若者を大目に見て貰いたい。
さて、ネパール王国からネパールリパブリックになったのはわずかジユウ数年前である。皮肉と言えば皮肉である。国王がそのことについて不安になったのは。次のフオトは創立当時の建物である。今は荒れ果てた建物になっている。木が生い茂り根がそれらを切り裂いている。
最初に1967年、創立当時は各部門が日本の信州大学のように多くの場所に分かれていた。
Tribhuvan大学のTri-chandra collegeの歴史についてお話しましよう。当大学の教授スニル・アディカリさんが語つたところによるとTribhuwanは国王の名前である。この大学への入学が許されていたのはこの大学が1918年に設立された当時は国国王の子供たちとその親族だけであつた。これは国民は無学の方が国を治め安いと考えたからであつた。彼は国の発展も国民の安寧も考えなかった。国王は王位を奪われ宮殿から追い出された場所は(今は博物館になつている)政治改革が後に成し遂げられ、ネパール王国からネパール共和国になって国民の妹弟が人学出来るようになつたのはつい数年前のことです。次の写真は100年前に建てられた建物です。今は使われていません。今や荒れ果てた家になつています。木が生い茂り根がはびこつています。
さてこの本には書いてありませんが、Tribhuvan大学学長のSnil adhikary氏についてお話しましょう。彼は日本に学士留学し名古屋大学の大学院でMeteorologyの博士号を得た人物です。私は長良川へカヌーに行つた帰りによく彼のアパートに泊めて貰いました。そのころのことが懐かしく思い出されます。さて12ページの写真の説明をします。当時はセメントがなかったので、彼らは小麦粉とネンドを混ぜて使いました。天井はこのようになつています。
100年前は時計がなかつたので彼らは日時計を使いました。
また、湿気を防ぐためコンクリートの床の下には粘土のパイプが設置されていました。
この時計台は90年前の大地震で倒れたのを再建したものです。3年前の大地震(1815年4月25)の際には1インチも動かなかつた。それを塗装し直したのです。(15ページをご覧ください)

2024/09/27(Fri) 11:04:04 [ No.10142 ]

◆ We are brother countries Japan and Nepal(1) 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
英語の読めない人々の為に和訳しました。日本は義務教育で中学までは全国民が英語を学んだ筈でこの程度の本ぐらいは読めて当たり前なんですが、それが読めない。何とも不思議なことです。同じ英文のこの本をネパールの小学生に読んで貰ったらスイスイのスイ読んでしまいました。貧しいネパールでは年間一万人からの若者が英語圏の国々へ出稼ぎに行つております。これは国の方針で稼いだ金を国へ送りそれで土地を購入し家を建てよ、そうすれば建築関係の多くの人たちも家具屋も潤う。英語教育は幼稚園から始めているからでしょう。それはさて置いて、日本が国としてどれくらいネパールの為に尽くしてきたか、この本をお読みになれば分かります。ネパール国民は心から感謝しております。ですから英語圏でないのに大勢日本にやつて来て働いています。働き手の減少している日本にとつて有り難いことです。2ページ日本の国花は春の桜と秋の菊とのこと。
では、はじめに私がこの本の名前を付けた理由を説明しましよう。それは多分有史以前だと思いますが桜の樹はヒマラヤ山脈の南斜面、ネパール側でした。北斜面はチベット。桜の花びらたちは南斜面から中国、朝鮮半島を経て日本にやつて来てそれが全国に広まつた。今や桜は最も日本人に愛される花になっています。同じ南斜面に咲いている明るい赤いラリーグラスはネパールの国花。日本語で言うとラリーグラス。
それはさて置いて、世界の最高峰エベレストをはじめヒマラヤ山脈にアタツクする登山家にとってシエルパの手を借りることなしに登ることはできない。如何に経験を積んだ登山家であろうと。それはさて置いて、シエルパの天候の急変に対する判断ほど確かなことはない。だが多くの登山家はそれを信じない。 気シヨウ台の判断に委ねる。そして彼らの多くがシエルパを道づれにして、雪崩に飲まれたりまた大きなホールに落ちて死んで行く。シエルパ達は実際そんな冒険をしたくない。しかし彼らが働かなければ家族を養っていけないのだ。彼らの顔立ちは日本人にとてもよく似ている。一度私も彼らに間違えられたことがあつた。
ネパールの人たちはどの国の人々より深く日本人を愛し尊敬している。私は深い尊敬と感しやの気持ちでこの本を彼らにブレゼントしました。そしてもう一つ私がここに書かねばならないことがあります。2011年3月11日の東日本大地震の時ネパール政府と同国民の多大なる援助でした。改めて御礼申し上げます。ダンニヤバート(thank you)
ところで日本の一万円札がネパールのコウゾの木から出来ている事をご存知ですか。そのようなことがネパールの新聞に書いてありました。ネパールのコウゾの木は世界で最も強いのです。今回の新円札でもネパールから輸入したコウゾの木材が使われています。
それはさて置いて、ネパールの人々が日本人を愛し尊敬している点では他のどの国にも負けません。それは日本の国がネパールの為にどれだけ尽くしてきたかということと大いに関係があります。私たち日本国民が忘れてはならない事がありま。それを書かねばならない。それは2011年3月11日東日本大震災の時ネパールの国と国民の多大なる支援改めて御礼申し上げます。

2024/09/22(Sun) 09:28:04 [ No.10141 ]

◆ 昨日庭木の剪定作業に4人来宅 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
今まで来た中では一番良かった。見違えるほど良くなつた。外から見ても中から見ても我が家の庭ほど良い庭はないと自負している。そして値段も安かったので来年も頼もうと思う。

大相撲千秋楽を待たずに大の里がモンゴルの豊昇龍を破り二度目の優勝。大関昇進を確実にした。来場所は今場所休んでいた照ノ富士を倒して横綱になつてほしい。横綱を目指して頑張ってきた大関貴景勝今日引退届けを提出した。首の怪我によるとのこと、残念なことです。

2024/09/21(Sat) 18:39:02 [ No.10140 ]

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