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◆ 愚息スーチン殿 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
誕生日おめでとう。元気で長生きしてね。暑さ寒さも彼岸までと言います。帰国は昨年と同じよう4月の下旬から5月にかけてしてね。それまで首を長くして待ってます。今日はデイサービスのお迎えの車に乗ってデイサービスへ行って来ました。話変わって、今日本ではそこらじゅう熊が出て多くの犠牲者が出ています。個々の猟人だけでは退じしきれないので、自衛隊の出動要請となりました。近くは善光寺の裏にも出たというのです。熊は冬眠に入る前に腹いっぱいにしておこうと懸命なのです。熊は木登りが上手で柿やリンゴを食べるのです。熊に出逢ったら頭を隠してしゃがみ込み鋭い爪で頭や顔を引っ掻かれないようすることだとのこと。むべなるかな。

2025/10/30(Thu) 20:34:36 [ No.10331 ]
◇ Re: 愚息スーチン殿 投稿者:suguru  引用する 
おはようございます。
誕生日のお祝いをどうもありがとうございます。
はい、来春も4月中旬か下旬には帰るつもりでいます。

クマの話は、同級生などからも聞いているけど、若穂も綿内の方でクマが出没してるみたい。
今は、街中にいても安心できないみたいだし、夜間は痴漢など全然怖くなくなって、その代わりみんながクマを恐れているという異常事態。
本当、物騒な世の中になったもんです。

2025/10/31(Fri) 07:12:32 [ No.10332 ]

◆ 愚息スーチン殿 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
誕生日おめでとう。どうか元気で長生きすることを祈っています。暑さ寒さも彼岸までと言います。昨年と同じように4月下旬から5月にかけて帰国してね。それまで首を長くして待ってます。

2025/10/30(Thu) 19:54:59 [ No.10330 ]

◆ 硫黄島の闘い、100歳の告白 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
国の為重き努めを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき
これは栗林忠道中将(当時53歳)の言葉である。400名の兵士と共にアメリカ空軍野戦部隊の夜営陣地に「われに続け」と先頭に立ち突入して、敵弾に倒れたのである。アメリカが最も恐れそして最も尊敬した男、栗林忠道中将の言葉である。そして戦後慰問の為現地を訪れた天皇陛下(現上皇陛下)は、次のような返歌を読まれた。「精魂を込め戦いし人未だ地下に眠りて島は悲しき」

2025/10/29(Wed) 20:08:11 [ No.10329 ]

◆ 令和4年5月10日自宅離れの階段から勢い良く落下 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
真下に落ちればまだしも斜め向こうのコンクリートの床に頭をぶってしまった。起きようとしても起きられない。足でずりながらやっとのことで入り口のところまでたどり着いた。おかやん「いつまで寝ているんや」と起こしに来たらこの始末。前の家に飛んで行きそこの嫁さまに来てもらったら、こら救急車呼ばないかん」言うんで直ぐ電話してくれた。やがて救急車がサイレン鳴らしてやってくる。近所中に知れ渡ってしまった。日赤病院へ搬送され、それから一ヶ月半入院。次に長野中央病院へ移され4.5ケ月。合計6ケ月。車椅子の生活が続いた。中央病院では職員の皆様の懸命な努力によって、操り人形のように手足がぶらぶらして自分一人りではトイレで用も足せない、食事も食べさせて貰う始末。今こうして曲がりなりにも家の中では歩行器を使わなくても歩けるようになったのは夢のようだ。勿論、外出の際は歩行器を使うけれど。週に3回、お迎えの車に乗って通うているデイサービスでも体操をしたり、おやつの時間は、指の運動を兼ねてオセロゲームをしている。勝ち負けはともかく頭を使うので認知症予防にもなっている。

2025/10/29(Wed) 16:24:07 [ No.10328 ]

◆ 今日はあいにくの雨 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
ヤマザキデイリーへの買い物は明日まで延期。

2025/10/26(Sun) 10:17:48 [ No.10327 ]

◆ ロンドン公演は優勝は豊昇龍が大の里を破り優勝 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
最後に大の里が英語で聴衆に感謝の意を述べて幕を閉じたとのことです。
さて、話変わって昨日は久し振りにワイフと一緒に長野東急百貨店の中にある神津歯科へ行って来た。入れ歯の調子を見てもらいに。まあこれはさておいてお願いがあります。
No.10315より10325までをコピーして送ってください。只頼むだけでは申し訳ないので、今出回っているリンゴ、シナノスイートを送って上げます。我が家では大根おろし器ですって食べています。これがとても美味しい。

2025/10/25(Sat) 06:39:34 [ No.10326 ]

◆ 大相撲ロンドン公演、両横綱がニ連勝 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
大相撲のロンドン公演では、力士たち頑張っている。大の里は看板力士として行事への参加が多く、公演中も多忙な日々が続く「これも横綱として来たからこそ。ありがたいし、こういうことに慣れていかないといけない」と自覚を示した。
紳士な観戦姿勢、力士も感心。34年ぶりのロンドン公演では、力士たちから「観戦マナーが素晴らしい」との声が聞こえてくる。最近の本場所では、力士の集中を妨げるようなやじが飛ぶことがある。日本のファンが「紳士の国」から学ぶべき部分もありそうだ。
取り組みが制限時間いっぱいとなるたびに、英国の音楽の殿堂と呼ばれるロイアル・アルバートホールは静寂に包まれる。両者が立ち合いでぶつかり合うと、これが一転して大歓声に。横綱大の里は「すごい盛り上がりでびっくりした。日本とは違う気持ち良さを感じた」と率直に振り返った。初日に大の里との結びの一番を闘った宇良は「やじがなかった。僕は悪いことは悪いと言いたい」と日本での観戦マナーの改善を求める。王鵬は「所作や相撲を取るまでの空気感も味わってほしい。すごくリスペクトを感じた」と英国のファンに感謝を述べた。熱狂と静寂が相半ばし、徐々に一体感が醸成されていく。もと大関の小結高安は「お客さんが途中で立ち上がることもない。普段からオペラや演劇を見慣れているからではないか」との見解を示す。大相撲の楽しみ方は人それぞれだが、土俵の主役である力士たちの声は受け止める必要があるだろう。
17日、ロイアル・アルバートホールで行われた三日目、21歳の安青錦3連勝。令和5年秋場所の初土俵から負け越し知らずで「全部勝ち越しているのでうれしい」ウクライナ出身の大関候補は、ホテルで英国のテレビ放送を見て、大相撲がニュースでどのように取り上げられるかを確認しているそうで、「みなさんに大相撲を知ってもらえるように。相撲は色々な細かいところがある。そこにも注目してもらいたい」と話した。

2025/10/19(Sun) 20:24:14 [ No.10325 ]

◆ 大相撲ロンドン公演、両横綱がニ連勝。 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
紳士な観戦姿勢、力士も感心
34年ぶりのロンドン公演では、力士たちから「観戦マナーが素晴らしい」との声が聞こえてくる。最近の本場所では、力士の集中を妨げるようなやじが飛ぶことがある。日本のファンが「紳士の国」から学ぶべき部分もありそうだ。
取。。り組み時間がいっぱいとなるたびに、英国の音楽の殿堂と呼ばれるロイアル・アルバートホールは静寂に包まれる。両者が立ち合いでぶつかり合うと、これが一転して大歓声に。横綱大の里は「すごい盛り上がりでびっくりした。日本とは違う気持ち良さを感じた」と卒直に振り返った。初日に大の里と の結びの一番を戦った宇良は「ヤジがなかった。僕は悪いことは悪いと言いたい」と日本での観戦マナーの改善を求める。王鵬は「所作や相撲を取るまでの空気感も味わってほしい。すごくリスペクトを感じた」と英国のファンにリスペクトを感じた」英国のファンに感謝を述べた。(以下略)

2025/10/19(Sun) 11:38:58 [ No.10324 ]

◆ 今朝、関東朝日広告社長野オフィスの三浦氏に電話 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
本は作らないと。夕方5時三浦氏、小生が預けておいた資料を持参。ワイフに資料を渡すと直ぐ帰られた。三浦さん、お手数をおかけしました。お許し下さい。またの機会にお世話になることもあろうかと思います。その時はよろしくお願いします。只今6時15分。さあ夕飯にしよう。

2025/10/15(Wed) 18:16:33 [ No.10323 ]

◆ 窪島誠一郎著「雁と雁の子」を読んで 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
あまりにも面白くてあっという間に一晩で読んでしまった。2017年5月10日、若槻Book-offにて求むと表紙裏に書いてある。してみると読むのは今回で二度目である。すっかり忘れてた。両親のどちらにも似ていないので、自分はこの親の子ではないのではないかと疑い出し、実の親探しに行こうと思ったのが始まり。そして劇的な「出逢い」から27年、はじめて語られる父への想い。平凡社定価1600円。
父は昭和16年の夏、まだ三笠書房に勤めていたころに生母加瀬益子と柏木の貧乏長屋で同棲し、私をもうけるのだが、わたしが二歳と十日になった時に隣人夫婦の仲介で窪島茂、はつのもとに養子に出した。(中略)父は母と別れた1年後、現在の妹の蕗子の実母と結婚。戦後30余年経ってめぐり逢った私たちは、手を取り合うようにして再会を喜びとめどない思い出に花を咲かせ、自分達がどれだけ強運な絆によつて結ばれた父子であったかを確認しあっている。

2025/10/15(Wed) 11:08:20 [ No.10322 ]

◆ こんな記事 投稿者:suguru  引用する 
がSNS見てたら回ってきました。

2025/10/13(Mon) 19:53:29 [ No.10321 ]

◆ 山田風太郎の「半身棺桶」より「盲亀の浮木」について 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
めったにあり得ない偶然の例えである。この世のことや自分の人生のあれこれに思いをはせてみると「偶然」に左右されたことは意外に多いようだ、どころではない。(中略)微々たる私の人生上の偶然などはどうでもいいが、大きく見れば戦争など、偶然に左右されて、あるいは驚くべき、あるいは戦慄すべき明暗を分ける結果となることがある。
例をあげれば、古いところで桶狭間の戦いである。永禄3年5月19日2000の織田勢は、2万5000人の今川軍の本陣に突入した。時に午後頃である。殆ど時を同じうして、猛烈な雷雨が一帯を襲い、ために今川方は織田軍の接近に気づかず、混乱の中に大将義元は討たれた。
この日、この時刻、もし雷雨がなければ、おそらくこの奇襲は成功しなかったろう。当然、逆に兵数十分の一以下の信長の方が討たれ、従って秀吉の登場する機会はなく、全ての歴史が全く別なものになったであろう。すなわちこの一陣の雷雨は日本の歴史を完全に左右したのである。
近くは太平洋戦争だ。太平洋戦争の原因はいろいろあるけれど、その遠因は、日露戦争に勝ったことにある、と私は考えている。勝った結果として日本が満州に進出したということもあるが、それより大敵のロシアに勝った、という事実そのものが昭和の軍人を神がかり的な冒険に踏み切らせたのである。
当時のロシアは、後年の最盛期のソ連に劣らぬ世界の大国であった。それと戦って日本は奇跡的な勝利を得たのだが、戦争は冬を越している。極寒の満州で、もともと寒さに強く防寒具の用意もあるロシア軍に対して、よくまあ当時の日本軍がまともに戦えたものだ。私は首をひねっていたが、その後知ったところによると、なんとあの明治三十七年から三十八年へかけての冬に限って、満州は稀有な暖冬だったというのである。そのため靴にさえ馴れない日本兵は裸足になって馳駆した、とい記録がある。これが例年通りの寒さであったら、常にロシアに味方するいわゆる「冬将軍」のため、日本の兵隊は凍結して、戦争はどうなったか分からない。
さて、その太平洋戦争だが、その中で明暗を分けた例でたんせいをもたらさざるを得ないのは、例の原爆投下地だ。昭和20年8月6日、原爆を搭載してマリアナ基地を飛び立ったアメリカ空軍のエノラ・ゲイが目標としていたのは、広島だけではなかった。そのほかに小倉と長崎があった。そしてその三地点の気象状態を知るために、その前にそれぞれの地点へ偵察機が飛ばされていた。そしてエノラ・ゲイが四国に近づいたとき、小倉からも長崎からも攻撃可能の報告がもたらされた。が広島への偵察機もまた、漠々と立ち込めた密雲の中に広島の上空だけがぽっかりと穴をあけているのを見つけて、第一、、目標OKの報告を送ってきた。エノラ・ゲイは広島へ直進した。かくて広島の悲劇は現実のものとなったのである。が、この時もし広島上空が一面の雲に閉ざされていたら原爆機は第二目標の小倉に向かたに相違ない。広島上空の雲の穴が、小倉市民何万人かを命拾いさせたのである。いや、それどころではない。ついで8月9日の朝、原爆機第二陣の第一目標は小倉で、第二目標は長崎であった。がこの日北九州一帯は厚い雲に覆われて、攻撃機はニ時間以上も、小倉と長崎へかけて上空をぐるぐる旋回していたのである。然るに11時10分、突如長崎の雲が切れた。その刹那ナガサキの運命は決した。同時に第一目標の小倉はまたしても死神から逃れたのであった。
偶然が運命の明暗を分けた戦火をの例に天象の如何を上げたのは、お天気ばかりは現代でも気象庁があてにならないほど、偶然としか思えない現象だからである。そうそう、そう言えばその最も如実な例があった。例の神風である。
人も知るように蒙古襲来は、文永、弘安の二度に渡ったが、前者は文永11年10月20日の夜、後者は弘安4年閏7月1日の夜の台風によって、蒙古の艦隊は壊滅した。これを今の暦でいうと、それぞれ1274年11月26日、1281年8月23日である。後者はともかく前者の11月26日というのは、普通なら台風の来るべき季節ではない。それが、その文久の役に際し偶然来たのである。だから神風と呼ばれたのだが、この史実がまた太平洋戦争において日本には天佑神助があるという狂信の種の一つになり、いわゆる神風特攻隊の出現を見たのだから、この台風の影響は蒙古襲来のときのみならず、6〜700年後にも及んだのである。

2025/10/13(Mon) 08:49:59 [ No.10320 ]

◆ 今日はワイフと一緒にタクシーで保谷眼科へ 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
目の中に逆さ睫毛が生えているというので切って貰った。他に異常はなかった。視力は大分落ちているが他には異常なしとのこと。帰宅して遅い昼食(うどん)を食べた。午後は久し振りに離れの二階へ読みたい本を数冊と文芸社から頂いた表彰状、東京国際ブックフェア出品の自著「馬鹿馬鹿しくて腹が立つ」が優秀作品として表彰された賞状を久し振りに眺めた。そうだ、これを明日デイサービスへ持参し、この本をプレゼントした大澤さんに見せよう。

2025/10/10(Fri) 21:44:06 [ No.10319 ]

◆ 前回の続き。第五章国倉地帯と港町オデッサ 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
18世紀末以来ドニエプル川流域及び南ウクライナのステップ地帯が一部の貴族、資産家などにより組織的かつ大規模に開拓され、専ら輸出を目的としたアグロ(農業)ビジネスとして開発された結果である。ステップ地帯はそれまで耕作者がいなかったため広大な土地の取得が安く簡単にでき、しかも土壌は肥えていたし、積み出し港にも近かった。19世紀はじめにはステップ地帯で80万ヘクタールの農地があったが1860年代に600万ヘクタール増加した。こうしてこの地域はロシア帝国最重要の穀物生産地になった。帝国の最大の作物である小麦については1812年から59年の間にロシアの小麦輸出の75%はウクライナから輸出された。玉蜀黍の84%、ライ麦の75%がウクライナから輸出された。又世界の穀物生産の見地からもウクライナは重要な地位を占め1909〜13年の間、全世界の大麦の43%、小麦の20%、玉蜀黍の10%はウクライナで生産された。穀物ではないが換金作物として大きな経済的意味を持ったのが砂糖大根の生産と砂糖精製工場だった。(中略)砂糖。工業の中心地であったキエフには当時建てられたテレシコンチ家の「砂糖御殿」が今は美術館になっている。(中略)全ロシアの穀物輸出の半分以上がオデッサ港からなされた。まさに穀倉とオデッサ港は表裏の関係にあった。オデッサの人口は1860年には11万人だったが1897年には40万人となりウクライナ最大の都市に。またロシア帝国全体でもサンクトペテルブルク、モスクワに次ぐ第三の都市に急成長した。

2025/10/10(Fri) 07:26:30 [ No.10318 ]

◆ 黒川裕次著「物語 ウクライナの歴史」より 投稿者:伊藤鉄郎  引用する 
ウクライナは芸術・文化・スポーツの面でも水準は高い。芸術・文化の分野では、ウラジミール・ホロビッツ、ダヴィッドオイストラフ、スヴャトスラフ・リヒテルなどの音楽家、バレーのヴァーツラフ・ニジンスキー、アバンギャルド絵画の創始者カジミール・マレーヴィチなどを産んでいる。スポーツでは、棒高跳びのセルゲイ・ブブカ、フイギュアスケートのオクサナ・バイユルらを産んでいる。このようにウクライナは確かに存在していたが、これまでは地下水脈のように何世紀も表には現れないでいた。そしてソ連帝国が崩壊してようやく泉のように地表に現れてきた。現在世界の各地で「ウクライナの発見」「ウクライナの復権」とも言うべき事態が起きている。ヨーロッパやアメリカでは、ロシアとその他のヨーロッパとの間という地政学上枢要な位置にあるウクライナが独立を維持し続けることは、ヨーロッパ全体の平和と安定のため極めて重要だと考えられている。またアメリカ、カナダではウクライナ系の移民がそれぞれ百万の単位でいることからウクライナに対する関心も高い。ところが日本では、残念ながら独立したウクライナに対する関心はそれ程高くないように見受けられる。これはウクライナが旧ソ連にあって、日本から距離が遠いことや、日本の旧ソ連への関心がロシアに集中してしまっていることによるのであろう。加えてこれまで日本にウクライナの事情が十分紹介されてこなかったこともあろう。以下略。

2025/10/10(Fri) 05:39:36 [ No.10317 ]

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