午前中、生ゴミを埋める場所の周囲を囲む所をSayuriに手伝って貰い清掃して貰った。平らな石を埋める場所の周りに固定させ土をシャベルで入れた。それから500Lタンクに水を入れて貰った。葡萄の木の根にも水を呉れて貰った。仕事賃として200ルピー上げた。
07:00→サラダさんの店(卵30個、ライター2個40ルピー) 12:00→Chan shop (chan 1リットル50L chia 20ルピー) 15:30 摩耶さんにchowminを作って貰い食べる。これが私の昼飯である。 18:00→Sunil氏の家を訪問。彼は日本にいた時は猛烈に勉強して名古屋大学の大学院でドクターの資格を取得。その後、ネパールで一番権威のあるトリブバン大学の学長になった。今はもう引退して悠々自適の生活を送っているかもしれない。 2025/02/02(Sun) 08:57:32 [ No.10211 ] |
10時 Chanの店に行きchia(ネパールのお茶)を飲んだ。それからBubの店に行き、梅干しを3bottle注文した。
11:00 → Samakhusi chouk → by bus(15ルピー) 11:30 → Thamel(by bus 15ルピー)→ Money Exchange shop and Exchanged 1万円→10.110ルピー → Honey shop (the owner gave me chia and 2 slices of bread for free. 12:30 → 古本屋(司馬遼太郎の本250ルピー) 13:30 → samakhusi chowk by bus. → Ram's shop (payed パソコンの視聴料3ケ月分5000ルピー。 2025/02/02(Sun) 08:03:37 [ No.10210 ] |
ラム家の主カレル氏は3時間前から空港て待つていたと言う。家に着くとスーツケースを開けて、コーヒー、ソイソース、味噌をこの家の主婦のマヤさんに渡した。
20:30Bisalが私の部屋に来て一時間ほど一杯やり、その後翌朝5時まて整理して寝た。翌日8時まで寝ていた。 09:00モンテカルロ(洋服屋)へいつて半ズボンにジッパーを付けて貰った。 11:00Went to Thamel by bus。それからmoney exchange shopへ。10万円をNepal ルピーに交換、1万円→10010rpy。→ MoterBikeのmodelshop(3個購入)500RPY×3=1500rpy〈500Rpy。それからHoneyshopへいつて防寒ハツト10個購入×150rpy=1500rpy買うた。(この店の裏側にそんな売り場がある) 13:00went back to my home by bus.(15rpys) 21:00bisal came to my room to massage of my body. 2025/02/01(Sat) 20:03:42 [ No.10209 ] |
Suva Pravat = Suva Bihani = Good morning
Suva maddha yanna = Good afternoon Suva Sandhya=Good evening Subha ratri= Good night / sutchhu(ス・ツー)=sleepy sapana = dream / oocharo = pickle / gazar = carrot shyau = apple / golbhera = tomato / chawuchu = mushroom / chipli = banra / soli =funnel (jougo) aanp=mango / bhanta =eggplant (ナス) / kurusani = 唐辛子 / dholikiro = mantis(カマキリ) / dhuto = bran(糠) / chauchau = noodle / chawu(mushroom) = 茸 / volbera = ミニトマト・コシ/ karera = 苦うり / ムラ = 大根 / sapana =dream / chiso = old(古い) / bought = 梅干し / gahu = wheat / bush = husk (殻の外皮) / dhan = paddy(モミ) / darim = 柘榴(ザクロ) / shawu(シャウ) = apple / benrio = オクラ ero saathi. = 2 You are my friend. / garo = difficult / sadhai = always and everyday / gulio =sweet Ma sadhai sanchai chha. = Iam always good and fine.= Ma sadhai duch piuchhu. = I drink milk every day. Melo des Japan ho.= My country is Japan. / Malai chiya piuna = Ma Japani ho =l am Japani hun./ Malai chiya maanlagyo Malai pani sanchi cha? = あなたはいかかてすか。 Hajur sanchi cha? = How are you? / Timilai sanchi cha? = or Ramlo cha,danyabaad.= Fine thank you. / ho = is Melo des Japan ho.= My country is Japan. hunu huncha? = 〜てすか / こんにちは or こんはんわ おけん= Namastee / Namastee sanchi hunu huncha = Fine thank you.= sanchai chai = / ghar = house / fheri = come back / fheri aauchhu = come i=ck again / Fine = sanchai chua. or Ramro chuoa / Dai = big brother / bhai = small brother / Melo des Japan ho. = Mycountry is Japan. / des = rasta = country Suva deen = Good afternoon. Malai chiya piuna Maan lagyo = I want drink tea. / Chiya peunu Bhayo ? = Did you have tea? / Chia peunt. / malay chini chahina. = I don't want sugar. / pieko china = not yet / Suva Pravat= Suva Bihani= Good morning. / Suva maddha yanna.= Good afternoon./ Subha sansandhya = Good evening / Subha ratri =Good night. / sutchhu = sleepy / sapana = dream / 2025/01/31(Fri) 11:17:43 [ No.10208 ] |
スン・コシとは別名黄金の川という。ところでネパールはラフティング天国であるということは日本では意外と知られていない。そもそもラフティングという言葉自体を知らない人が多い。四季折々の自然を愛する日本人は元来川下りが好きで、近くは天竜川、木曽川、京都の保津川、熊野の瀞八丁、遠くは九州人吉の球磨川、芭蕉の句で有名な東北の最上川などが古くから知られている。それらはいずれも2〜3時間の行程で春秋の行楽シーズンともなると酒酔い客で結構賑わっている。急峻な地形を有する日本のこと、変化に富み風光明媚な川が多い。そこでかねて望んでいたネパールの激流下りに出かけたというわけである。世界の屋根、ヒマラヤを織りなす7〜8千メートル級の峰々、無数の渓谷を削って遠くチベットからは流れ来るスン・コシの上〜中流域を一週間かけて8人乗りのゴム製筏(ラフト)で途中野営をしながら270kmを下る旅である。因みに長野〜名古屋間が260キロである。これがラフティングである。参加者は英米にカナダ、ブラジ、どドイツ、デンマークといった国々の青年男女日本人ではただ一人60歳の私(当時の年齢)、それに現地ネパール人のガイドら5人を入れて総勢19名。共通語は英語で、それぞれがお国訛りの英語を早口でまくし立てるから、長年英語教師をして来た私にも最初は何を言っているのかさっぱり…。それが食事の支度やテントの設営など共同作業をしながら二〜三日が過ぎお互いに心が通じ合うようになると急速に言葉を聞く耳が出来てくるから不思議である。
さて、初日は簡易舗装の山道をバスに揺られること三時間半。何しろ橋はあってもトンネルのない国である。くねくねした山道をバスに揺られること三時間半。何しろ橋はあってもトンネルのない国である。そんな山道をバスで行くのを見送りがてら小だから時間がかかる。スタート地点に着くと早速ラフトに空気を注入。フリップ(筏が転覆すること)してもいいように天幕、寝袋、炊事用具、食糧品を詰めた防水樽をロープで頑丈に筏に縛り付けると出発である。ガイドの指示に従って、右に左に岩を避けながら川を下るのであるが雨季が去ったばかりで水量も大く、どろどろと濁った本流が垂直に行く手を遮る絶壁に激突し飛沫を上げている様は不気味である。やがて落差4から5mもある滝のような落ち込みに突入。水のパワーに負けまいと全員が勇ましい掛け声と共に猛然とダッシュする。両足をしっかり確保しているつもりでも、ラフとの急降下で体が浮き上がり、次の瞬間ラフトの外に飛び出してしまう。後部でガイドをサポートし舵取りをしていた私は、おかげで何度もラフトから落ちたものだ。深い渓谷部を抜け平坦部に近づいた最後の二日間は流れも次第に緩やかになったので、日本から持参したファルト(組み立て式の布制カヤック)で下った。づう体の大きいラフトにとっては大したこともない瀬や落ち込みも、一人乗り用の小さなカヌーにとっては恐ろしく大きく見え緊張の連続であった。それでも日頃キヤンプ生活では私をバジェ、バジェ(ネパール語で年寄りの意)と呼んでいたガイドや欧米の若者たちに勇猛果敢なパドル捌きとひっくり返って起きるエスキモーロールを披露したら、彼らも驚いてワンダフル、ワンダフルと叫んでいたので大いに溜飲を下げた。 そうした日々野営した河原で行き逢った子供たちの汚れを知らぬ目の輝きとその生きる逞しさが強く印象に残った。文明から取り残された山奥の子供たちの服装は並べてぼろきれを纏っているというに等しく裸足の子も多い。夕方我々のラフト三隻が野営のために接岸するとその子らが我先に走って来て荷降ろしを手伝ってくれのである。他の者に先んじて少しでも有利に、ビールやジュースの空き瓶回収の権利を獲得しようというわけである。ビニール袋も彼らにとっては貴重品で大切に持ち帰って行った。 ある晩、どこからともなく群がってきた子供たちが私たちに民族舞踊を披露してくれた。日本の盆踊りのように太鼓のリズムに太鼓のリズムに合わせて短い単旋律の曲を際限なく繰り返し歌い躍る素朴な踊りである。私たちの中にも踊りの輪に加わる者がいたりして踊りは深夜まで続いた。やがて彼らは太鼓を叩きながら帰って行ったが、その太鼓の音が谷また谷の彼方から時に大きく時には小さくこだまして、空が白む頃まで続いた。彼らにとって14〜5キロの山道などは朝飯前なのだ。大自然の中で厳しい自給自足の生活をしている彼らは一様に明るくおおらかである。昼間は大人たちと一緒に働き暗くなれば家に帰って寝るだけといった単調な生活をしている彼らにとって、こうした外国人の野営地訪問は最大の娯楽であり、外界の様子を垣間見る唯一のチャンスなのである。粗末な茅葺屋根の民家で写真を撮ったお礼に貰った自家製「チャン」の味と共に忘れえぬ思い出である。 2025/01/29(Wed) 05:23:45 [ No.10205 ] |
ネパールでバスに乗っていて微笑みたくなる事がよくある。それは山道をゆっくら走っているバスの前を鶏の親子が横切っていく時である。そんな時、バスの運転手はバスを止めて親鳥の後を懸命に走って行く雛鳥たちが通り過ぎるまでバスを止めて待っています。
話題を変えよう。私が世界を歩いた限り、一番物価の安い国はネパールであろう。ネパール人にしてみれば、それで生活しているわけだから、安いも何もない。 話題を変えよう。これは国の政策であるが、国外へ出稼ぎに行き稼いだ金を国の銀行へ送り、帰国後その金で土地を購入し家を建てよということである。そうすれば、建築関係の多く人達が潤うわけである。家を建てれば家具も揃えねばならないから家具屋も潤う。 海外へ出稼ぎに行く人たちは毎年一万人はいるという。 私がネパール国内で見た殆ど全ての家はそうした建物であった。 さて、私がカトマンズにいた時、震度7.5の地震が起きた。だいぶ長く続いた。昔からの古い家は殆ど潰れてしまった。その時私は友人の家にいて本を読んでいた。ネパールの人達は驚いて皆、外に飛び出してしまった。私はこのビルの中の部屋にいる方が寧ろ安全だと思った。日本からも中国からも救援隊が来た。そこで私も一時帰国して奉加帳を持って救援金集めをした。同じ奉加帳でネパールでも歩いた。主として友人とか知人、滞在していたカレルさん一家の親類とかその縁者だったが、皆さん大変快く協力して下さいました。 2025/01/29(Wed) 03:49:53 [ No.10204 ] |
私が初めてネパールへ赴くようになったそもそもは厳寒の志賀高原でキヤンプしたことに始まる。夜9時か10時、仕事を終えたネパール人のシェフ達が持参したビールを、私が持って行ったツマミを肴に、深夜まで呑んだものでした。彼らが帰って行くのを見送りがてら小用を足そうとテントを出ると、ゲレンデの上の方でピステンの動き回っている音がするではないか。翌日滑るお客さんの為にゲレンデを均しているのだ。こういう人達もいるのだ。偉いもんだ。さて、ネパール人のシェフ達は冬になると毎年働きに来るもんで日本語がとても上手だつた。その一人ブバン・パンデー氏が私に言ったものでした。「先生、ネパールへ行きませんか。首都のカトマンヅからは見えないけれど、国際都市ポカラへ行けば、世界の最高峯エベレストをはじめ7000メートルクラスの山々が望めます。参考までに日本の最高峰富士山は3776メートル。小学校の時「皆なろう」と教わったものだ。 さて、私も登山が好きで、マミクトイは全部登った。スキーを担いで登った山もある。マミクトイとは斑尾、妙高、黒姫、戸隠、飯綱のことである。他に、浅間山、八ヶ岳も制覇した。自慢話ぽくなって恐縮です。私の悪い癖でいつも話が脱線する。初めてネパールを訪れた時、とても驚いたことがあります。それは、停留所で待っている人達に対して「どうぞ」と言ったことでした。お客さんが皆乗り終えると、運転手に向かって「発車どうぞ」と言ったものでした。私が満員バスの中で立っていたら若い人がスッと立って席を譲ってくれたのです。ある時「私はまだ若いです」といったら周りの人たちが皆笑いました。当時70才の私が言ったので。そうだ。寿命の話が出たついでに、ネパール人の平均寿命について述べてみたい。日本人と比較すると驚くべきことが分かる。
日 本 人――男79歳 女86歳 ネパール人―男60歳 女59歳 昔は日本も男尊女卑で女性の地位も低く、例えば夫婦で一緒に農作業をしても家に帰れば、亭主は先ず一杯、妻は夕食の支度と忙しい。今はそんなことをすれば妻は黙っていない。「あなた何よ」夫婦喧嘩間違いなし。 参考までに2010年に日本の厚生労働省が発表した県別の平均寿命で我が長野県は男80.88歳、女97.18歳で見事日本一となった。長野県は昔から長寿県だったわけではなく、かつて脳卒中の死亡率が全国トップクラスだつたことがある。原因は、海がなく山あいの土地が多い長野では、塩で保存された食物を日常的に食べる習慣が根付いていたから。その塩の摂取量の多さが高血圧を引き起こし脳卒中に繋がっていたのだ。だが戦後、県内の医師や保健師が主導した、野澤菜漬けや味噌汁の塩分を減らしていく「減塩運動」が成功し、この長寿が実現したのである。その長野県民のモットーは、ピンピンと元気に長生きして、長患いすることなく「コロリ」と大往生する。佐久市野澤には「ピンコロ地蔵」なる地蔵があり、私もこれは面白いと思い行ってきたものだ。 2025/01/28(Tue) 20:24:25 [ No.10203 ] |
ここに写真を載せられなくて残念だが、硫黄島の擂鉢山に星条旗が掲げられる瞬間を描いた3セントの記念切手がアメリカでなんと1億5千万枚売れたという。それくらい硫黄島での死闘は激しかったのだ。この書のあとがきに、硫黄島の戦闘は兵団長以下高級将校たちの戦死あるいは自決ですべて終わりとなったわけではなかった。3月26日の時点でまだ1万からの兵力、多くは負傷者だが生存していた。総延長18キロメートルに及んだ地下壕と連絡路は、もし栗林忠道中将の構想どうりに完成を見ていたら、より一層強固な守備戦闘が展開できたであろう。そうした不完全な状態だったにも拘らず、アメリカ軍に与えた損害は戦死者6821、負傷者は実に2万1865に達した合計した2万8686という数字は、日本軍の損害総数をはるかに上回った。この事実にアメリカ側の最高指揮官、ホーランド・スミス中将は、栗林の卓越した指揮ぶりを最大の原因に挙げた。もし栗林にあと半年か1年の時間と十分な建設資材を与えていたら、戦いの途中でアメリカ軍の最高指揮官の更迭、という事態を招いたとすら考えられるのである。私たちの世代は小学生の頃から、信用できない数字を「大本営発表」と揶揄する。この硫黄島攻防戦についても、その大本営が誇大発表というだけでなく戦争指導での面でも大きな欠陥を有していたことが、はっきりと窺い知れるのだ。兵器が他の軍事先進国より遅れていたにも拘らず、それを放置し多数の将兵を戦死させたのである。その元狂は陸軍幼年学校から陸軍士官学校、そして陸軍大学校をすべてトップで卒業した、頭の硬い秀才たちだつた。彼らは旧弊を墨守し、技術革新に目を閉じ、二言目には「大和魂」を呪文のごとく唱えて、国家を滅亡に導いたのであった。
2006年後半に入って、硫黄島をテーマとするクリント・イーストウッド監督の作品を小生も長野の映画館で見て感動した一人である。 さて最後の突撃の場面である。敵軍から分捕ったM1カービンを手に西部落南方の敵野営地にと迫る。「発見されるまで先にぶっぱさぬこと。それでは諸君の健闘を祈る。静かに戦い静かに死んで靖国神社で会おうではないか」 およそ4000の陸海軍の生き残りが、有刺鉄線を切断して一人また一人と、敵の野営地に入り込む。幕舎に突入した者は、銃剣で一人ずつ口から喉に突いて殺して行く。多くのアメリカ軍将兵が夢の途中か寝ぼけた状態で殺された。 栗林もまた敵陣に突入すべく、身を起こして有刺鉄線の方へ進んだ。この時至近に迫撃砲弾が落下し、その破片が彼の右大腿深く命中した。どう考えてももはや行動は不可能であった。「諸君らの足手まといになる。中野さんやってくれ」そう栗林は自分の傷口を示しなが、信頼する歩兵戦闘の神様に止めを依頼して言った。中野は少し躊躇したものの、兵団長の言葉どうりと知ると迷うことなく軍刀で首を落とす。こうしておけば胴体と離れているため、首実検しても判り難いためである。戦闘はまだ続き突入部隊はかなり進んでいたが、降ってくる砲弾が迫撃砲だけでなく、機関砲まで加わり始めた。もはや全く勝てる公算はなかった。「ここまでだね、中根さん」と参謀長の高橋大佐が声をかける。「そうですね、大佐」「では、ご一緒に」二人は皇居の方角である北を向いて、ゆっくり正座すると14年式拳銃で頭を一発、見事に自決して果てた。彼らは自分たちに白羽の矢を立ててくれた、栗林の近くで死ねて満足だと最後まで思っていた。そして戦闘には勝っていたのだと、考えながら引鉄を落としたのであった。 2025/01/14(Tue) 07:28:12 [ No.10193 ] |
胡坐(あぐら)、案山子(かかし)、万年青(おもと)、 女郎花(おみなえし)、寝衣(ねまき)、大店(おおだな)、他人様(ひとさま)、他人事(ひとごと)、殺害(あや)める、実家(さと)、曲者(くせもの)、狼藉(ろうぜき)、東雲(しののめ)、零落(おちぶれ)る、側妾(そばめ)、簪(かんざし)、賄賂(まいない)、襖(ふすま)、真実鳩尾(みぞおち)、対手(あいて)、迎言(おっしゃ)る、形相(ぎようそう)、夥(おびただ)しい、破落戸(ごろつき)、流石(さすが)、ニ布(ゆもじ)、文目(あやめ)、行燈(あんどん)、俤(おもかげ)、希望(のぞみ)、今時刻(いまどき)、旅籠(はたご)、彼奴(きゃつ)、悪(にく)む、神楽太鼓(かぐらだいこ)、女子(おなご)、狂言(そらごと)、良人(おっと)、真実(まこと)、八幡船(ばはんせん)、褥(しとね)、差料(さしりょう)=刀、尻(けつ)、商人(あきんど)、殺(あや)める、草履(ぞうり)、強談判(こわだんぱん)、他人様(ひとさま)、試斬(ためしぎ)り、無花果(イチジク)、黄泉(よみ)、女満別(めまんべつ)、
2025/01/14(Tue) 07:20:14 [ No.10192 ] |
大根おろしはガンの予防食
日本人は食べ物を上手に活用して薬にしてしまう。このような生活の知恵が実に発達しています。その代表的な例が、「大根おろし」。昔なら、食べ過ぎたと言っては大根おろしを食べ、飲みすぎたと言っては大根おろしのしぼり汁を飲んできた。大根には消化酵素のジアスターゼがたっぷり含まれていますから下手な胃の薬よりよっぽり効果があるんです。昔の人は、経験の積み重ねで、大根の効果をちゃんと知っていたんです。大根を別名「かがみ草」とも言いますが、「かがみ」は「餅」のこと。つまり、餅には「大根おろし」がつきものという意味で、餅の消化の助けに利用してきたわけです。大根おろしは癌の予防食として秋刀魚(さんま)や鰯(イワシ)の焼き魚にも欠かせませんね。天麩羅やそばにもつきます。焼き魚に大根おろしを添えるのは油っこさを中和すると同時に、消化を良くして、ビタミンCを保給する役目も果たしている。また刺身に添える糸切り大根のツマ。刺身はきれいに食べても、大根のツマは大概残してしまう。この食べ方は大損と知るべきでしょう。大根にはジアスターゼやビタミンCの他にリグニンという繊維質が多く含まれているのです。リグニンは癌細胞の発生を防ぐ成分として知られています。このリグニンは切り口を多くすればするほど増えるというユニークな性格を持つている。ですから、大根おろしでもいいし刺身のツマの糸切り大根でもいいわけです。刺し身皿に盛られた「糸切り大根」を残すということは消化薬と癌予防の特効薬をみすみす捨てるようなものと言ってよいでしょう。これからは残さずきれいに平らげるようにしたいものです。 薬味というのは文字を見ても分かるように、単に味にアクセントを添えるだけではなく、それぞれの薬効成分もつける。「薬味」というのは、文字通り「薬」を加えて「味」を添える作用を持つた植物のことを言います。「薬味」の使用は、すでに縄文時代にかなり発達していたものと思われます。どうしてそんなことが分かるかというと各地の縄文遺跡からサンシヨウの実やノビル、しその実などが出土しているからです。これらの薬味を刺身に添えたり、イノシシの肉のシチューなどに用いていたのでしようね。日本人の祖先は大変グルメだつたのでしょうね。「刺身」に添える薬味を、とくに「妻」と言いますが刺身を夫と見立てているわけです。材料としてはシヨウガやウド、シソ、タデ、大根、人参、セリ、キウリ、山芋、ミヨウガ、オゴノリなどがありいずれも、魚の味を生かして、消化を良くし、毒消しもかねており、一諸に食べてもよく、健康に良いものばかりです。めん類や鍋物に用いたりあるいはつけ汁に入れて用いるものに次のような「薬味」があります。ネギ、大根おろし、のり、ワサビ、シヨウガ、シソ、ニンニク、トウガラシ、シユンギク、ミツバ、梅干など。 2025/01/10(Fri) 08:42:11 [ No.10191 ] |
1回目2020.9日9日
2回目2023.9月6日〜8日 3回目2025.1月3日〜7日 これだけ読めば忘れない。実に面白い本だつた。520人の命が失われた御巣鷹山での事故。二人女性が奇跡的に助かった。そう言えば坂本九ちやんもあの事故で亡くなったなあ。よし今度は彼女が著した「不毛地帯」を読んでみたい。 2025/01/08(Wed) 08:48:15 [ No.10190 ] |
NO.10170〜10186をコピーして送って頂きたいのですが。愚息がスイスより送ってきたアーモンドの入ったお菓子、子供だましのようなものですが明後日お送り致します。
2025/01/03(Fri) 19:07:48 [ No.10187 ]
クッキー有難うございました。大切にいただきます。
2025/01/06(Mon) 12:21:49 [ No.10189 ] |
年末に電話をいただきありがとう。写真撮影に行きたいが懇意のタクシー運転手の会社が破産し彼も運転業務を継続しないので困っています。カレンダーの写真は長野市大岡区の芦ノ尻道祖神です。1月7日に道祖神祭りがあります。YOUTUBEで動画がみれます。撮影に付き合ってくれるカード支払いのタクシー運転手をさがしています。
![]() 2025/01/05(Sun) 14:17:40 [ No.10188 ] |
貴殿の贈り物昨年の30日に届きました。感謝です。
さて、年賀状辞退する旨書いたにもかかわらず、次の方々から届きました。お名前を列記します。 岩村田高校の同級生、森沢那智子さん。長野市吉田、山崎進さん。長野県立須坂東高校勤務時代の成沢君の夫君道夫氏。元長野日大高校の教師峯村保先生。元PCC(PADLERS comunication Crabのメンバーのご夫妻森田謙一、久枝御夫妻。黒沢長次郎君。瑞穂市牛牧在住のパウデルリサブ、カルパナご夫妻。中学校時代の友人、山崎和邦君。ネバールで親しくなつた千葉県の粕谷氏。頂いた以上は返信を出さねばならない。小学一年生のような下手な字で書いて見るか!! 2025/01/01(Wed) 20:09:07 [ No.10186 ] |