二人の出会い
 
  こんな生き方をしている人が日本の 広島県にいるんだ〜って思ってもらい、
 心のかたすみに、おいてもらえたら幸いです。

2005年10月号 「女性自身」 に載せていただき、いい思い出になりました。O(≧▽≦)Oワーイ♪

     

日本初「車いすに乗った」介護タクシードライバーみつと 心に病を抱えていた ようちゃんが出会って

   シリーズ人間

 広島 スポーツが大好きだった少年が、不慮の事故で車いす生活を余儀なくされた。
 熊本 よく気のつく利発の少女が、生と死の恐怖から心の病を患った。
 いまにも消えそうだった二つの光が、絶望の暗闇でお互いを見つけた。
 運命の出会いは、いつしか固い絆を生み、眩いばかりの"光のダンス”を踊り始めたのだった。


1台のワンボックスカーが静かに停車した。艶やかに磨き上げられた白い車体には「ひかり介護タクシー」の文字。運転席のドアが開いた。スポーツ刈りの青年が、微笑みながら軽く頭を下げる。

 光照さんだった。「遠いところをわざわざ ありがとうございます」
 白い歯がこぼれる。爽やかで誠実そうな青年だ。

 少し遅れて助手席から、陽子さんも頭を下げた。陽子さんは即座に助手席を降りると、慣れた手つきで素早く車いすを降ろし、運転席のほうへ押してきた。

 光照さん自身、下半身が動かない。車椅子生活者で介護タクシーの運転手をしているのは たぶん、日本中探しても光照さんだけだろう。

 全国介護タクシー協会中国支部(広島県)に聞くと、即座にこう返ってきた。

 「広島市には、30台ほどの介護タクシーがありますが、運転手は全員、健常者です。障害者の運転手はいませんね。全国でもそうした例は聞いたことがありませんよ」

 光照さんは 広島県呉市に住んでいる。
「開業したのが今年の4月20日ですから。知られていないこともあって、まだ、固定客は4人だけです」

 介護タクシーは原則、体に不自由な人と付き添いしか乗せてはいけないが、特別に乗せてもらうことになった。

 アクセルとブレーキはハンドルのすぐ横にある手動レバーで操作する。
光照さんのタクシーはスーッと静かに発進した。驚くほど静かな運転だ。慎重で、かつ、丁寧なのだ。

 「運転に関しては、普通の人には負けたくないという気持ちが強いですね。

 おそらく、僕が障害者だから、お客様には『大丈夫かな』という先入観がある。

そんな不安を打ち消してもらう為にも、完璧な運転技術と安全運転を人一倍、考えています」

 料金は小型タクシー料金並みで 初乗り560円。後部座席は自動操作のリフト付だ。
乗車は車いすのまま、楽々と乗車できるようになっている。

 リフトの操作や、乗降を手伝うストッパーなどの作業は、助手席に待機している陽子さんが担当する。
 彼女は介護ヘルパー2級の資格保持者でもあるという。

 「実を言うと、陽ちゃんのほうが、僕より先にヘルパーの資格を取ったんです。僕が新聞を読んでいて「これからは需要がある資格だから、とったほうがいいよ」って、けしかけて。ねぇ」

 光照さんが陽子さんに笑いかけると、視線を少しあげて陽子さんが言う。
「最初はしぶしぶ勉強しました。

 阿田さんが私に資格を勧めたのも、そんなに真剣じゃなくて、何げない思いつきだったと思うんですけど」

 後の言葉を光照さんが引き継いだ。

「で、資格を取った陽ちゃんから「阿田さんは車の運転が好きなんだから、タクシーの資格免許でも
取ったら」って、今度は逆に、僕がけしかけられまして」

 この車は「ひかり介護タクシー」と名付けたのは「もっと障害を持った方に光を与えられたら」という
二人の思いがあったから。

 身体に障害を持つ人にも、そして、心に障害を持つ人にもー。
 
 瀬戸内海を照らす夕日が赤くキラキラと輝いた。

 「一生歩けない」と宣告された15歳の時、自殺を決意した

 
光照さんはは、77年6月11日、呉市音戸で生まれた。
 石川島播磨重工業に勤める父と看護士の母。ふたりの姉がいる末っ子だ。

 運動神経抜群の彼は、プロのサッカー選手になるのが夢だった。

 人生を変えたのは、92年、中学3年生の秋。遠足で行った野外施設のトランポリンで空中2回転をしようとして、首から落下。首の骨を脱臼骨折し、第4頚椎を損傷した。

 ベッドに体を固定され、頭蓋骨に穴を開けて20`の重りで首の骨を牽引する治療が3ヶ月続いた。

高熱と激しいケイレンの日々。天井を見つめたままの状態で、まったく体が動かない。どうにか
動かせるのは目と口だけである。 つまり、首から下の感覚がなかったのだ。

 「当時は、リハビリをすれば、また、サッカーができると信じていました。退院したら、自宅療養だと思っていたから、病院で「これから、大分にある専門のリハビリセンターで、車いすで生活していく技術を身につけます」と聞かされたときには「いったい何の話をしてるんだ」と思いましたね」

 事故にあってから、すでに1年が過ぎていた。

 大分の施設からは、国際車いすマラソン大会にへの出場者が多く出ていた。それを知った両親が、運動が好きな光照が励みになればと、祈るような気持ちで選んでくれた施設だったが、15歳の少年に、そんな親心は伝わらない。

 「一生、歩けないと宣告されたわけです。やっぱり死にたいと思いました。人前に出たくない。
こんな姿で生きていてもしかたないって・・・」

 痛み止めと眠剤の薬をためて一気に飲んだが、死ねなかった。

 夢も希望も持てないまま、93年11月、光照さんは大分県別府市のリハビリセンターへ入所。
訓練が始まった。

 朝、ベッドから1人で起き上がること。自分で歯を磨くこと。顔を洗うこと。事故前には、意識もせずに簡単にできていたことが、できない。自分の体が自分の思うようにならない悔しさが、光照さんを苦しめた。

 腕には徐々に感覚が戻ってきたが、下半身は何も感じないままだ。

 それでも1年かかってようやく日常の動作が一人でできるようになり、なんと「大分国際車いすマラソン」に出られるまでに回復したのだ。

 21,0975qを車いすで走る。軽い気持ちで参加した彼だったが、スタートと同時に打ちのめされた。

 合図と同時に選手は皆、猛スピードで走り出す。ついていくどころではなかった。

 ルールは5km地点を30分以内で通過できないと、その場で失格。光照さんはリタイヤだった。

 「悔しくて、恥ずかしかった。僕には”車いすマラソンなんて”と軽く思う気持ちがどこかにあったんでしょう。昔の自分なら、大会に出るとなったら、必ず前もって練習する。それがスポーツ選手としての礼儀ですから」

 負けず嫌いのアスリート魂に火がついた。誰にも頼らない、1人だけのトレーニングが始まったのだ。
そんな姿を父はそっと陰から見ていた。

「施設の坂道を、普通の車いすで、何度も上り下りするんです。マラソン用の車いすよりずっと重いし、負担がかかる。あのコはそうやって自分を鍛えていたんです」


 同情はされたくない。昔の自分を知らない友達が欲しかった・・

 2回目もリタイア、3回目の挑戦で、ついに光照さんは車いすマラソンで「完走」を果たした。
そして、リハビリの傍ら通信制高校を卒業すると すぐに運転免許を取得する。

 「車は、僕にとってはどこへも自由に行ける足代わり。日本全国を回ってみたいと考えていました」
 5年間のリハビリセンターでの生活を終え、広島へ戻ると「車椅子バスケットボール」を始めた。

 21歳になっていた。すっかり、かつての自分を取り戻したかに見えていた彼にも、実は秘めた
悩みがあった。 やっと戻れた我が家だったが、どこかしっくりしないのだ。
 
 トイレ、浴室、玄関が車いすの彼のために改造され、食事はいつも 光照さんの好きなもの。

何もかもが自分中心に動いている家庭。中学時代の友人と遊んでいても、どこか同情されている気がする。
 親切すぎる環境は、自立を身につけた彼には重かった。

 一つの感情が芽生える。「昔の自分を知らない新しい友達が欲しい・・」

 情報誌「じゃまーる」に、文通相手募集の投稿をしたのは、そんなころだった。

「広島の音戸という町で、車いすのバスケットをやって頑張っています」掲載されたプリクラ写真は、
なかなかのイケメンだ。

 その写真を、陽子さんは熊本の病院内の書店で偶然、目にする。精神科で治療を受けている時だ。15歳だった。 彼女は「うつ病」と診断されていたー。

 緑豊かな森と清流と滝に囲まれた熊本の小さな町で生まれ育った陽子さんは、小さい頃から
しっかり者で、手のかからない"よい子”だった。

 最初に症状がでたのは小学6年の時。ふいに不安に襲われ、眠れなくなったり、突然、泣きだしたりする。
看護士の母がすぐに病院へ連れていき、治まったが、翌年、大好きだった祖父の死を境に悪化。
 
 物音が異常に気になり、突然、体が震える。いるはずのない虫が全身をはい回る。

陽子さんは無意識のうちに、自分の体をかきむしった。気がつくと、体中、赤く腫れあがったり、
血だらけになっていた。
 
 「発作が頻繁に起こるようになったのは中学3年生でした。親に知られたくない、迷惑をかけるという遠慮があって、病院に行きたいが親に言えないと言う思いの、行ったり来たリを繰り返していました」

 ようやく母親に告白し、カウンセリングを受けた。

 陽子さんは思い出せる限り、昔の自分に戻った。幼稚園、小学1年、2年・・・・。
楽しかった光景が次々に浮かぶ。

 ところが、そんな楽しい気分が小学5年あたりを境に、忽然と消えた。
 代わりに見えてきた家族の風景は、緊張に満ちていた。誰も会話をしない食卓。

他人の目ばかり気にして、いつも 疲れている母親。そんな母の顔色をうかがう自分ー。

 「母のことは大好きで、尊敬もしていました。なのに、私の心の底には、母に対して、それだけではない、もっと割り切れないごちゃごちゃした思いがあったらしいんです」

 重くのしかかる感情に、陽子さんの心は疲れ果てた。

 中学卒業後に陽子さんが選んだ進路は、全寮制の女子高校。家から離れたかった。

 ところが、希望を抱いて入学した高校で、待っていたのはイジメだった。最初は気にしないふうを装い笑顔で対応していたが、そんな無理は2週間しかもたなかった。

 再び再発が。自宅へ戻り、2週間おきに入院するショートステイの治療が続く。
「家を出ても、結局、何も変わらなかった」

 絶望的な気分にうつひしがれていた陽子さんが、たまたま開いた雑誌、そこに光照さんの
笑顔があったのだ。

 「ほかにもカッコイイ男の人の写真はたくさんあったけど・・・。なぜかそこで目が留まったんです。
無意識の賭けみたいなものだったのかな」

 陽子さんは、すぐに手紙をだした。

 「私は「心」に障害を持った高1の平田です」。その手紙には「死にたい」という文字とそれとは裏腹な満面笑顔のプリクラ写真。当時の陽子さんは確かに悩んでいた。 

 光照さんが返事を書いた。
 「オレはつらいことを乗り越えたよ。陽子ちゃんも乗り越えられるはず」

 広島と熊本ー。赤い糸が、二人の満たされずにいた心と心を引き寄せていた。

 ”シンデレラの靴”を履いて踊りはじめると、心は一つになった

 
手紙からポケベル、電話からメールの頻繁なやりとりで陽子さんの心は安定したかに見えたが、
それほど単純ではなかった。その夏、自宅で大量の薬を飲み、自殺未遂を起こしたのだ。

 二人の足跡を、01年から追い、書籍にまとめるべく取材を続けている大映テレビ 
プロリューサー・長坂さんによると、

「(薬を飲む)引き金になったのは、光照さんとの電話代が8万円を越えたのを、陽子さんのお母さんが知り「気をつけて」と、メモを残したことでした。

 お母さんはその日は夜勤だったため、ベッドの上にメモを残したんですが、

陽子さんは「直接、言ってくれればいいのに。一緒に住んでいるのに、なぜ?」と、
激しいショックを受けたそうです。

 光照さんには数日後、電話で「薬を飲んでやっちゃったんだよ」と報告したといいます」

 長坂さんの取材メモによれば、知らせを受けた光照さんは「何やってんだよ」と、本気で怒り、
すぐに広島の家を出た。深夜1時、それから片道7時間をかけ、陽子さんが入院した熊本の病院へと車を走らせている。

 電話や文通だけだった二人にとっては、それが、顔を合わせた最初の日であった。同時に、
光照さんは、自分の両親にこんな思いを伝えていた。

 「女友達なんやけど、心の病気をもっているコがいる。広島に連れてきて、
俺が治してあげたいんじゃけど・・・」

 光照は21歳、陽子さんは16歳。双方の親が話し合い納得したうえで、陽子さんが光照さんの家で
同居を始めたのは、秋も終わる11月20日のことだった。

 一方、そのころ、光照さんは「車いすダンス」の練習を始めたばかりだった。陽子さんと同居を始める直前の10月「国民文化祭」では、大勢の観客の前で踊った。

 拍手と喝采を浴びて高揚感、ほどよい緊張感、踊りおえた時の達成感を体験し、光照さんは徐々に車いすダンスの虜になっていった。

 「陽子ちゃんも一緒に踊ってみない?」」

 ある日、ダンスの練習について行った陽子さんに、インストラクターが声をかけた。

 「人前で目立つことがイヤだったし、そのときはイヤイヤ踊らされて、半ベソをかいていました」
とはいえ、人の申し出を強く断れないのが、陽子さんだ。自分より、つい相手の気持ちを先に考えてしまうのだ。

 フロアを何週も回り、陽子さんはずっと恥ずかしさでいっぱいだった。ところが・・・・

 クリスマスの2日前のこと陽子さんは、自分専用のダンスシューズを渡された。美しいダンスシューズに、陽子さんの目が輝いた。

 「すごい綺麗。シンデレラのガラスの靴みたい・・・」

 誰の心でもない、彼女自身の心が震え、感動していた。
真新しいシューズで、光照さんの腕を取って歩く陽子さんは堂々としていた。167cmの長身が際立って美しい。

 1,2,1,2・・・・。二人の息が合うと、車いすの動きもスムーズになり、流れるような曲線を描いた。そして、光照さんに巻き込まれるような形で、次第に陽子さんもダンスに魅せられるようになっていった。

 
発作は消え、もう薬も必要ない。二人の未来は輝きのなかに

 
二人の生活費は、光照さんの障害者年金と、事故の保険金などでまかなっている。

また陽子さんは、二人のダンス姿をデザインしたタオルハンカチを販売し、ダンスの遠征費の足しにしている。

 光照さんの両親との同居だが、彼が一人でできない入浴の介護やトイレの始末、指先を使う細かい
作業などは、陽子さんが助けている。

 生活全般にわたって、お互いに、なくてはならない存在だ。もちろん、人はいつも
仲良しというわけにはいかない。

 「ちがうじゃろ。僕と陽ちゃんの腕で大きな輪を作って、それを壊さんように踊らにゃ」

 「私は不器用なんよ。阿田さんとは違うんよ!」

 「なんでわからん。下半身で踊るんじゃ」

 「そんな、一度にいろいろ言われても覚えられん!」

 そんな口ゲンカも、どんどん"好成績”に姿を変えていく。二人で本格的にペアを組んだ01年からは、まさに 快進撃だった。

 01年3月、初参加した「スーパージャパンカップ」スタンダード、ラテン部門で、いきなり優勝。
 02年の11月の「第2回車いすダンス全日本選手権大会」でも優勝している。

 その年の10月には、ポーランド ワルシャワで開かれた「第2回車いすダンス世界選手権大会」に日本代表として参加し、ラテン7位、スタンダード4位の好成績を残した。

昨年11月、日本で行われた 「第3回車いすダンス世界選手権大会」では、天皇皇后両陛下の前で踊り、3位に入賞。

 「日本版の映画「Shall we ダンス?」で、女性がクイックステップで転ぶシーンがあるでしょ?
あそこは、 本当に全力疾走で走るので、ぶつかったら危険なんです。僕達も走っているとき、
車いす同士がぶつかって、 陽ちゃんが転び、右のシューズが脱げたんですよ」

 車いすダンスは、転んだりぶつかったりしても、減点にはならない。その後、落ち着いて対処
できるかどうか。 そこが点数に響くのだ。

 転んで、あ・・・・と思った陽子さんに、彼の声が響いた。「落ち着け、大丈夫だから」

陽子さんもスーッと落ち着いてくる自分を感じていた。「だから、余裕を持ってシューズを履き、
平常心で踊ることができました」

 そのとき、光照さんの両親は、陽子さんの両親とともに観客席にいた。

「私達も一瞬絶句しました。でも冷静に立ち上がり、再び踊りだしたときには大きな拍手が起きて、
もう涙が溢れてきてしかたなかったです」

 ガラス細工のようだった陽子さんの心は、光照さんとの日々で、逞しくなっていた。

 最近では、学校や老人施設での車いすダンスの実演や講演なども頼まれるという。

 陽子さんが笑顔で言った。
「ダンスを始めてから、発作が起きなくなったんです。練習で疲れるせいか薬がなくても眠れるし(笑)。

大会の時は控室ではお腹が痛くなったり手が震えているんですが、フロアにでると、ピタッと止まって、自分じゃないみたいです。拍手も気持ちい」

 それこそが本来の陽子さんなのだろう。

 光照さんもダンスを始めて、曲がっていた背筋がシャンと伸びた。腕に筋肉がつき、まったく動かなかった指先もわずかだが動くようになっている。

 家族も増えた。ルナとサン、2頭のレトリーバー犬たちだ。

「今一番の目標は、やはり介護タクシーを軌道に乗せること。病院を回って、営業活動もしているんです。
 ちゃんと収入が得られるようになったら陽ちゃんと結婚します。その日のために、二人で走り続けます」

 光照さんの声は、力強かった。陽子さんも頬を赤らめ、照れくさそうにうつむいた。

 「ひかり号」は、呉の港を右手に見ながら快調に走っていく。艶やかなボディーに真夏の光がキラキラと反射する。

 そう言えば、陽子さんの名前は太陽の陽。光照さんは光り照らすと書く。
二人の放つ強くて優しい光の共演は、未来へと続く道を明るく照らし出していたー。


 監修 長坂淳子
 文   川上典子
 取材  長坂淳子・加世田智秋
 写真   佐々木恵子


 【自分は誰からも必要とされてない…】 そう 思う時は 誰にでもあるよね…  でも
   【誰からにも必要とされてない】っと 思ってる【自分のココロ】が
    本当は【必要】としているんだよ…。



 いいこともあれば、つらい時、どうしようもない時、死にたいと思う時は誰でも、必ず
ある。辛い時、もうダメだ。と思った時でも、いくら、遠回りしても時間がかかっても絶対、

  自分の進む道は あると思うから

 人それぞれ幸せの価値は違うけれども、小さくても自分が幸せだと思えたら、いいと思う!

 自分に負けないで「前へ前へ」と思ってください。   失敗しても、落ち込んでもいい。

 みつ・ようちゃんは、たまたま、この車いすダンスで 希望や夢を持つことができました。
  皆さんにお伝えしたいことは、何の趣味でもいいと思います。

   何か1つでいいんで熱中するものを見つけてください。「チャレンジ」です。

 それは、決して自分の好きなものじゃないかもしれない。
でも、自分が苦手だ、嫌いだと思って、やり始めた事が実はそれが・・・

 自分を変えてくれるものかもしれない。

 ようちゃんも車いすダンスをやり始めた時、嫌いでした。ぶっちゃけ・・  
  みつが無理やり誘いました!
それが今では世界3位です!今では 車いすダンスが大好きです。

 人は何かひとつ頑張れるものを持っていたらいいと思う。

 つらい時、それが、きっと役に立つと思うから。
  幸せは自分からやってこない、自分で探さなきゃ!