開原と鉄嶺

 約80年前、父方の祖父が、開原で診療所を開いていたことがあると言う。開原には私自身も、60年前父の仕事の都合で、一年近く住んだことがある。その時の写真も一枚だけ残っているが、二才にもなっていないときなので、なんの記憶も無い。
 

  また祖父も私が生まれる10年前に他界しているので、祖父について詳しくは何も知らない。父の話しによると、祖父は軍隊で衛生兵の経験が有り、その経験を生かして診療所みたいなことをやっていたらしい。祖父は日露戦争(1904-1905)に参加した。

何故中国まできてそんなことをしたか。先代まで広島郊外の庄屋としてかなりの資産が有ったのだが、祖父の代で没落した。これと大いに関係があるはずだ。

  祖父は酒もいける方だったと言う。開原駅前の酒場で飲んで帰らない祖父を、父は幼い弟を背にした母(私の祖母)の手に引かれ、よく迎えに行ったと言う。父はあまり明るい顔でこのことを話さないから、私の開原に対するイメージもやはり暗い酒場だ。

 

 日本語教師の会で知り合ったF先生が、鉄嶺市の中華国際学校で教鞭をとっておられる。私より一つ年輩で、高校の理科教師を退職したこの先生とは、よく馬が合う。先生も子供の頃中国で暮らしていた。

 「畠の中にぽつんと学校があるだけで、何にもありませんよ」と言う先生の言葉に、私は是非遊びに行きたいと思った。

  鉄嶺は瀋陽の北約70キロ、開原は更に北30キロである。この何も無い所で日本語教師をしているF先生に、私は暗い酒場の片隅で中国酒を飲んでいる祖父の姿を重ねたのである。勿論、F先生は暗い人ではない。お互いの住んでいる場所が近いことと、日本人が居ない所で仕事をしていると言う点に共通点を見たのである。だから、開原と鉄嶺はどうしてもセットで行きたいと思った。

 

 同じ宿舎の若者留学生T君に、一緒に行って呉れるようお願いしたところ快諾を得た。中国の田舎を一人旅するのは心細い。彼とはこれまでも一緒に旅行して、気心が知れている。

 開原駅の売店で、まず地図を買おうとしたのだが無い。売り子に、「開原の名所旧跡は何処か」と聞いたら「そんな所は無いよ」と笑う。「名物は」と聞いたら「大蒜だ」とまた大笑いする。

  駅前の広場から三本の道が走っている。右と左は前方1キロ足らずで町並みが途絶えている。真ん中の道は何か有りそうだ。小さな食堂が三軒並んでいる。ちょうど昼時だったので、その中の一軒に入った。或いは、ここが80年前、祖父が酒を飲んだ店かもしれないと思いながら、私も中国酒を注文する。

店員の一人が「何処から来たか」と聞くから、「私は生粋の開原の人間だ」と赤ん坊のときの写真を見せる。「これは60年前の開原だが、こんな所を知らないか」と尋ねたら、周囲の客も面白がって覗き込むが誰も知らない。駅前一帯は昔日本人が住んでいた所で、一部古い建物も残っていると言うから、それを写真に撮ることにした。

開原は自転車タクシーが多い。中で、年輩の何となく話し好きそうな人が居たので、

「何処でもいいから、市内をぶらぶらしてくれ」

とT君と二人で乗ることにした。

 以下、私の選んだ名ガイドから聞いた開原の概要。

 人口: 郊外を含めたら七十万。市部だけなら十五万。

  産業: 農業。

 歴史: 約一千年前、前金の時代商工業の中心地として栄えた。

  旧跡: 文革までは四方の城門が有ったが、取り払われた。

 その他:人民解放軍空軍飛行場がある。民間は無い。

  ここも不景気で、このような自転車タクシーが一千台はあるが、殆ど客が無いと言う。

  一時間も乗ったら回る所が無くなった。現在二時。帰りの汽車の切符は、既に買ったのだが四時半出発。まだ二時間半もある。どうやって時間を過ごそうかと考えていたら、駅の構内に「茶館」があった。茶瓶に一杯五元(七十円)。碁盤が有ったので、相手が居ないか尋ねたのだが、こんな真っ昼間から遊んでいる人は居ない。客は私達二人だけ、店番の娘さんも奥に引っ込んでしまった。

開原は全く何も無い。80年前祖父はどんな気持ちで酒を呷ったのだろうか。居眠りしながら祖父を偲ぶ。

 

中華国際学校は、鉄嶺市の郊外東へ30キロの所にある。鉄嶺駅からタクシーに乗ることにした。50元で行くと言う。

「メーターでやって呉れ」

「鉄嶺のタクシーには全部メーターなんか無いよ」

と運転手君両手を広げて肩をすくめる。別の車と交渉しようとしたら、40元(日本円600円)にすると言う。いい線だと思ったから乗ることにした。

乗るなり運転手君

「貴方の中国語は少し日本訛があるからすぐ日本人だと分かったが、こっちの若者は中国人と変わらない」

T君は中国語を始めて一年と少しだが、最初から現地の人に揉まれているので、発音が良い。そして

「日本人を乗せたかったから安くした」

と嬉しいことを言う。彼の話しによると、鉄嶺も景気は悪く、国営企業の九割が営業をしていない。最も安定した職場は、市役所と公安。日本の札幌市と姉妹都市だが、これと言った外資系企業も無い。開原と同じで、有るのは大蒜だけだと言う。

「何も無いと言ったって、娘さんは居るだろう」

と水を向けてのが、いけなかった。

「居るとも。ここの娘は体格が良くて美人だ」

と言った後、ここには具体的に書けない万国共通の男の話題で、学校迄の50分を退屈さして呉れなかった。

 

  中華国際学校は丘の麓、まだ田植えの終わっていないたんぼに囲まれていた。二キロ位彼方に、小さな集落が見えるが、学校の建物以外はまさに何も無いと言って良い。

 元は解放軍の施設だったそうで、三万坪余りの敷地に、校舎、寄宿舎、職員宿舎、講堂等の設備がゆったりと配置されている。

 経営者は、台湾の人。生徒数小学生から高校生まで約三百。私立のエリート校。で外人教授陣は、アメリカ人の先生が四人とF先生。先生の部屋は、八畳の部屋が四間。食堂、風呂場それに物置まである。まさに皇帝の間だ。

 

  二キロ離れた集落の食堂に、食事に行った。メニューなんて無い。お任せの家庭料理三品。それにビール、中国酒、主食の焼き飯も入れて三人前30元(400円強)と全く安い。料理を待つ間、近所の子供達が珍しそうに覗き込む。写真を撮ってやろうとしたら、さっと逃げる。しかしやはり子供だ。また寄って来てカメラに納まった。

私達が楽しそうに話す日本語が、珍しい響きなのだろう。

「日本語て、美しいね」

と奥で店の女主人が言っている。

「今私達が何を話していたか分かった」

と聞いたら首を横に振るから

「お嬢さんのことをね、こんな別嬪見たことないと言っていたのさ」と言ったら、彼女笑いながら仕事の手を休めて私達の横に座る。

  「そのお嬢さんと言うの止めて呉れない。私もう45だよ。あんた40と幾つだい」

 「40と22」

 「そんな計算は私に出来ないよ」

 「62さ」

 「嘘でしょう。私はてっきり私より若いと思っていた」

 とお世辞のお返しをして呉れた。

  近所の人も寄って来て手製の煙草をご馳走して呉れる。実は私5年程吸っていないのだが、このご好意は受けることにした。「私達は貧しくてこんな煙草しか吸えない」と言うが、どうしてマイルドな味は下手な高級煙草より美味しかった。

一人が言う。

「貴方達は本当に日本人か。気を悪くしないで欲しい。私達がテレビで見る日本人と違う。貴方達は私達とどこも変わらないではないか」と。

「不幸な歴史も有ったけど、私達の友好の歴史はもっと長い。これからも仲良くしようよ」

と周恩来の言葉を受け売りして手を差し出したら、向こうも熱く握り返してきた。

  鼻を摘まれても分からない真っ暗な道を帰ったときは、9時を回っていた。

 

 小鳥は寝起きのおしゃべりが好きだ。日の出と共に、タンバリンを一斉に鳴らしたようなさえずりがする。何時だろうか。昨夜の中国酒がまだ残っていて、時計を見る気にならない。

六時、スピーカーから、欠伸をしながら背伸びをするような間延びのした三拍子のリズムに乗って、管楽器の旋律が流れて来る。

「ラドー、レラー、ラソー、ラソー」

が私には

「起きー、なよー、あさー、だよー」

と揺り起こすように聞こえる。更に学校責任者の訓辞と続き、全ての放送が終わったときは六時半だった。

 七時過ぎ、宿舎から遠くない食堂に行く。児童達も一緒だ。大自然に囲まれ、二十一世紀を担うこの子達の声は小鳥のように弾み、表情はどの子も陰が無い。

  F先生の話しによると、学費が年間七千元。宿舎費、食費、教材費等は別だから、全てを含めると少な目に見積もっても月一千元は要る。この額は大学教授の月収を超える。親の期待の大きさが分かろうというものだ。大半が瀋陽市出身だそうで、全寮制。二週間続けて授業をし、休みをまとめて二週間に一回帰省する。そのための送迎車が学校に有る。その中の一台のマイクロバスが、ちょうど瀋陽に用事が有って出ると言う。これ幸いと便乗させて貰った。

 開原、鉄嶺と私の祖父を偲ぶ旅は終わった。いつの日か、孫が、曾孫がこの道を歩いてくれることを願いながら。